33 迷宮
アレスは馬で王都の外れまで移動したあと、王宮へは向かわずに、寂れた旧市街に向かって歩きだした。
このあたりはいわゆる貧民街で、背の高い集合住宅が密集していて昼間でも薄暗い。
それでも内乱の前までは、貧しいながらも懸命に働く人々の活気で満ちていた。いつかはここを出て、成り上がろうと頑張る人々の希望が感じられたのに今は、息苦しいほどの倦怠感と絶望に満ちている。国の主が替わってまだ半月にも満たないのにこの変わり様は異様というしかない。
私は前を行くアレスに、オルフェリウスが戴冠式こそ行っていないものの、既に内外に向けて即位を宣言したことを話した。フィラルラーズ王子をはじめとする、国境から戻ってきた人たちは、もう事実上の王が成り代わっていることに気付いていないようだった。その事は彼に教えておかなければならないと思ったんだ。既に王宮の主が替わっているなら、侵入に際しての立場も変わるだろうから。
アレスは事実を聞いて、険しい表情のまま街の様子を窺っていたが、静かに首を振った。
「イグニスは聖セディナに忠誠を誓う騎士の国。いくらゼノーシス伯爵が即位を宣言したところで神の祝福なき王に玉座に座る資格はない」
偽りの玉座に座るオルフェリウスに対しての嫌悪を隠そうともせずに吐き捨てるアレスの言葉は辛辣だ。私は初めて見るアレスの『素』の態度に驚きを感じていた。私がアレスと話をする時はかつては『王女と騎士』の関係でアレスは常に『騎士』として接してきたし、ここでも彼は誰に対しても一線を引いたような態度を取っていたから、今の状況でこんなことを言っては不謹慎だけど新鮮に思った。
アレスは迷いのない歩みでどんどん薄暗い路地を進んでいく。人影もなく、湿った嫌な臭いの立ち込めるこんな場所に何があるというのか。疑問に思うけれど、アレスの厳しい眼差しは口を挟むことを赦さない雰囲気で、私は黙って彼の背中を追いかけた。
どれだけ進んだだろうか。細長い路地の先に古びた小さな井戸があった。その井戸は周りの風景からはどこか浮いているような趣で、微妙に違和感がある。アレスは無言で井戸を覆う蓋を開けると、周囲に視線を走らせて他に人がいないことを確認してから、ひらりと井戸の中に飛び込んだ。
「ちょっと!」
何の説明もなく先を急ぐアレスの態度は、私にとってはつれなく感じる。どうせ私は姿も見えない声だけの得体の知れない存在なんだろうけど、私の誠意は伝わっているはずなのに酷すぎる。
アレスにとっては主命が最優先なのは分かるけれど、切ない乙女心は我儘なんだ。
私は慌てて後を追いかけて井戸に飛び込んだ。
井戸の中はさらに薄暗く、ジメジメしていて居心地が悪い。
水滴の落ちる音と、アレスの靴音だけが静かすぎる空間に響いて、私は背筋を震わせた。
「ねえ、ここは何なの?」
井戸の底には水路があり、その脇に沿って長い長い通路が闇の向こうまで伸びている。先が見えない不安に私はアレスに問いかける。
「…………」
それに対してアレスの返事はない。
ちょっと、無視するわけ? 基本今までちやほやされてきた根っからの王女育ちの私は素っ気なくされることについての免疫がない。アレスからすると多分「状況考えて空気読め」ってところなんだろうけれど、この地獄の底に進むような心細さに、静寂に私は耐えることが出来なかった。
「ねえ、アレスディール!」
「…………」
「何処に繋がっているの?」
「…………」
「ねえったら!!」
不安が限界に達して、私の声が震えた。
アレスの眉が跳ね上がる。
「王宮へ向かっているに決まっているだろう! ここは王族や騎士の一部にしか知らされていない地下通路だ。もうすぐ王宮内に入るから黙っていてくれないか」
小声であるものの、ピシャリと叱咤されて私は項垂れる。
アレスが冷たい。私が誰だか知りようもないから、かつてと同じ対応を望んでも仕方ないのはわかるけど、あまりの違いに泣きたくなる。
私だって分かっている。今は緊急時なんだ。アレスは焦っている。フィリアの置かれた状況は逼迫している。このままでは命の危険もあることも。アレスはフィラルラーズ王子の命に従い、フィリアを救出しなければならない。彼が必死になるのは主君の命に忠実であろうとするからなのか、それとも別の……?
私は、私の知っている過去からの相違点をここに新たに見つける。
私の知っている過去ではフィリアの救出の後にフィラルラーズ王子の王都奪還が行われた。しかし、今はその二つが同時に進行している。少しずつ、過去が変わっている。ならば、この先の未来は私の知っている通りになるとは限らない。これは私がここに居るからもたらされた状況なのかも知れないが、それがより良い未来に繋がっているかは分からない。
それなら、最善を尽くすしかないんだ。
通路の先に微かな光が見えて、アレスが駆け出した。
出てきた先は、見たことのある王宮の中庭。その隅に作られた庭師の為の用具倉庫の中だった。物置の扉からそっと身を滑らせて外へ出る。見上げた王宮の西側から黒煙が上がっているのが見えた。
「――――!!」
アレスの目が驚愕に見開かれる。
王宮内の回廊は、火の気配を感じた宮廷人たちが我先に脱出しようとして、混乱状態となっており、アレスが侵入していることに気付く者はいない。
逃げ惑う人の中に騎士や兵の姿は見えない。多分フィラルラーズ王子の進軍に対峙するため、ゼノーシス伯爵がいるであろう本宮に結集しているのだろう。王子が言った通りに王子たちは陽動の役目を同時に果たしてくれたようだった。
状況は好機とも最悪とも言えた。
王宮の西側、フィリアが囚われている場所に近づくほどに煙の濃度は増し、火の手も強くなる。けれどそれに比例して人気もどんどん少なくなる。
アレスは一切の躊躇も見せずに炎の中を進んでいく。私はというと実体がないから、炎の熱さも感じないし、火傷の心配も全くないから思ったほどの恐怖はないけど、アレスはそうではないはずだ。けれど、彼は炎の猛威をものともせずに、さらに先へ進み、遂には地下へと侵入する。
「フィリアリーゼ様!」
迷路のような地下通路を抜けた先に辿り着いた地下牢に、フィリアはいた。
アレスは剣で鍵を叩き潰して扉を開き、転がり込むくらいの勢いで牢の中に飛び込む。
「フィリアリーゼ様!!」
フィリアは寝台の上に静かに横たわっていた。アレスが大声で呼び掛けても揺さぶっても、反応はない。完全に意識がないみたいだ。エディナが言っていたみたいに病魔によるものなのか、それとも煙を吸いすぎたのか、その両方か。
いずれかは分からなかったけれど、こんなところでぐずぐずしている場合ではない。
アレスはフィリアをシーツに包んでから肩に抱え上げると、一目散に来た道を戻る。
アレスが駆け抜けた直後、炎に包まれた柱が倒れて通路を塞いでしまった。
あと数秒遅かったら、と思うとゾッとする。
私はアレスの後に続いて、地上を目指す。
早く、一刻も早く。
一心不乱に駆け抜けて、漸く中庭へ抜けるとここにはまだ、炎の脅威は到達していないみたいだった。
アレスは周囲の安全を確認する。
このあたりは既に皆避難済みなのか、人影もない。
とりあえず今は大丈夫だと判断したらしいアレスは、抱え上げていたフィリアの体を下ろして、庭園の芝生の上に横たえた。
もうすっかり日も沈み、薄闇の中にフィリアの白すぎる肌が浮かび上がる。そのあまりの白さに、私は何故か言い様のない恐怖を感じた。
アレスが慎重にフィリアの容態を確認する。手首をそっと取って脈を確認していたが、彼の顔が見る間に青褪めていく。
「フィリアリーゼ様、駄目だ……」
アレスはフィリアの首筋に手を当て――大きく首を振った。
その声は力なく震えていた。
「駄目だ、フィリアリーゼ様!!」
私は慌ててフィリアの側に駆け寄って、その顔を覗きこんだ。その顔色は白を通り越して青く、唇も色を失っていた。そして。
――フィリアは息をしていなかった。




