8 許されない嘘
その声音があまりにも低く、静かなものだったから私はその言葉の意味をすぐに理解することができなかった。お父様の表情は厳しく、そして辛そうで見ている私も哀しい気持ちになって胸が痛んだ。それにしても先ほどのお父様の発言内容は衝撃的で、私は返す言葉もなくただじっと王都を見下ろすお父様の横顔を眺めることしかできない。
誰が、誰を殺したのか?
アレスディールが、フィリアリーゼ王女を、どうして?
先刻のアレスの様子では、彼の胸の内には今もフィリアリーゼ王女への想いは褪せることなく、恐らく深い傷となって今も血を流しているに違いない。彼の昏い瞳の奥には、どんな罪を秘めていたというのか?でも、本当にアレスがフィリアリーゼ王女を殺したというのなら、妹王女を溺愛していたというお父様がアレスをそのままにしておくことなんて有り得ないだろう。あの人は認めた味方には寛大だが、敵と見做した者に対しては信じられないほどに冷酷になる人だから。
「ああ、別にアレスがフィリアに直接手を掛けたということではない。奴は俺たちに許されない嘘を吐いた。それが、結果としてフィリアを追い詰め、あいつは生き急いでしまった。あいつらは気付かれてないと思っていただろうが、俺は知っていた――二人がお互いを思い合っていたことを。そして、いろんなしがらみが二人を素直に想いを口にすること阻んでいたことも。それに、二人がどれだけ融通の利かない真面目すぎる頑固者だってこともよく知っている。だから俺は何とかしようとしたが、二人とも盲目に自分の想いに囚われすぎて俺の話を全く聞こうともしなかった」
「お父様、アレスが言った嘘って何?」
「奴は俺たちに公式の場で言ったんだ。自分には故郷に相愛の婚約者がいて、王都の復興を成したら早急に迎え入れたい。そしてフィリアに対しては気高く寛大で、慈悲深い王女に仕えることは身に余る光栄であると言ったんだ」
それが一体どんな許されない嘘であるというのか。想いを隠すこと自体、二人の身分差を考えた時、ある程度致し方ないことではあると思う。私だったらそんなことは全く気にしないけれど。
「フィリアは王女という自分の立場に必要以上に囚われすぎていた。先の内戦では逆臣に捕らえられ、あいつ自身が一番堪え難い屈辱と恐怖を味わったというのに、自分の存在が俺の枷になったと恥じていた。そんなもの、あいつを守れなかった父王や俺や騎士たちの責でしかないのに……。そんなあいつだから、自分の感情に正直になることがどうしてもできなかった。望めば手に入るはずのものも、自ら手放した。だから、俺は側にアレスを遣ったのに。俺は奴のことを騎士としては最大級に評価していた。誠実で、勇敢な騎士の鑑。俺は正直に言うとフィリアには妹の親愛以上の感情を抱いていた。だから政略の駒になどするつもりは全くなかったし、できればずっと俺のすぐ側に置いておきたかった。でも一番望むのはあいつが笑顔を絶やさずにいられる騎士と結ばれること。だから、奴なら仕方ないと思って、奴かフィリアが進言してきたら、笑って祝福してやるつもりだったのに」
悔恨に満ちたお父様の声は弱々しい。取り戻せない過去で、果たせなかった想いは未だ癒えない傷となってその心を苛み続けているのだろうか。いつもは前向きすぎるくらいのお父様のこんな姿は見るに堪えない。
「予想通り、フィリアはアレスへの想いを封じて、奴が居るはずのない婚約者と一日も早く一緒になれるよう、奴の望む王女像で在り続けるために明らかに無理をしだした。今思えばあれは無自覚な自殺だったのかもしれない。俺たちの母親と同じ病なら、手を尽くせばその先の未来も手に入ったはずなのに、あいつはそれを自ら切り捨ててしまった。アレスの幸福を望む一方で、叶わない自分の想いに絶望していたのだろう。報われない自分の想いを秘めたまま、幸福を得る騎士を見るのが辛かったのかもしれない。多分、そんな想いにすら気付かないままだったのだろうが……」
人の心は、とても難しい。
自分ですら気付かないところで、何かに縛られて、心の闇に嵌ってしまったら一人で光の世界へ戻ることは困難だ。けれどその闇に気付くことが出来ても、救いの手を差し伸べても、その手を取ることも、掴みあげることも難しい。お互いの心が共鳴しないと、空回ってしまうからだ。
「フィリアの葬儀の直後、奴が騎士を辞して神殿に入りたいと言い出した。それが許されないなら死地に送ってほしいと。理由を尋ねたら、奴は俺たちに吐いた嘘を明らかにして土下座した。自分のしてしまったことの罪深さに耐えられなくなったと。俺はそのどれも許さなかった。フィリアの幻影がちらつくこの王宮で、死ぬまで罪に向き合って苦しめと言ってやった。俺だって分かっている、フィリアがそんなことは望んでいないことくらい。けれど、奴が吐いた嘘のせいで、フィリアがどれだけ苦しんだか。奴がその現実から逃げ出すことを、俺は絶対に許せなかった」
馬鹿な奴だ、お父様はそう言って苦笑した。そして視界一面に広がる王都に視線を落とす。私も釣られて同じように王都を見下ろした。日も殆ど沈み薄闇が広がる静かな世界に、少しずつ街の明りが灯り始めて宝石のようにキラキラと輝きを放つ。あの明りの下にはどんな幸せがあるのだろう。幸せとは、誰が決めるものか。亡き王女が願った幸せは、騎士の下には訪れていない。お互いの幸せを願った行為は、お互いを不幸にしただけのように思える。それは本当に悲しすぎるし、誰も報われない。
「アレスは、私が想いを告げたらいつも悲しそうに私の顔を見て頭を下げるの。お父様、私の想いはアレスにとってはとても残酷なことだったのかな。忘れられない大切な人の幻が、あの時に秘められてきた想いを何度も何度も口にして。でも私がアレスを好きになったのは夢がきっかけだけど、それだけではなかったわ。強くて勇敢なところも、誰にも誠実で優しいところも、全部、全部大好きで……!!」
だめだ、今日の私は泣き虫だ。絶対に涙腺が壊れてしまったんだ。それに今泣いたら、お父様に泣き顔を見られたら、アレスの立場がますます苦しくなってしまう。それは避けなければいけないのに。早く泣きやめ、私は自分に命令したけど止まらない。どうしようもなくて俯くと、お父様が大きな両手で包み込んでくれた。その仕草が、泣いてもいいよ、って許してくれているみたいに感じられて、私はその胸に縋って泣いた。
「お前がアレスのことを好きだと言い出した時、何の因果かと思ったよ。フィリアに瓜二つのお前が、同じ男に想いを抱くなんて。けれど、俺は反対も賛成もするつもりはなかった。正直大事なティーナにアレスは相応しくないと思ったが、お前の想いは痛いほどわかったから、お前のやりたいようにすればいいと思った。だけど許せ、ティーナ。俺はお前の恋が成就することはあり得ないと思っていた。アレスの時間はフィリアの心臓が鼓動を止めた時に、一緒に止まったままだということを知っていたから」
お父様の言葉は口調は優しいけど内容は残酷だ。でも、こうなるまでは言えはしなかったのだろう。
きっかけは、アレスの嘘。でも彼はこんな未来を望んではいなかったはず。
「アレスはどうせ身分が相応しくないとか、そんな風に考えていたのかな。人の心はそんなんじゃないのに。私だったら、伝えてはいけない相手じゃないなら、結果は駄目でもちゃんと心を伝えるよ。人を好きになることは恥ずかしいことなんかじゃないわ。とても素敵なことなのよ」
「……そうだな、敵同士でもないんだ。あれくらいの身分差、さしたる問題じゃない。フィリアがお前だったら、きっと結ばれていたかもな。お前なら、正面からアレスにぶつかっていくことができた。もしくはあの時お前みたいな人が、二人を支えてくれていたら、違った未来になったのかもしれない」
今更言っても詮なきことだ、お父様はそう言って私の額に優しくキスをしてくれた。
「お前が生まれてきてくれて、俺は本当に嬉しかった。失ったものを再び手にできたと思った。けれど、お前はお前で、フィリアではない。最近特にそう思う。ティーナとフィリアは芯は同じでも気性が正反対だ。だからこそ救われる。愛しているよ、俺の姫君。俺は父として、お前が望むように幸せであることを心から祈っていることを忘れないでいてほしい。本当のところ、今日はそれが言いたかったんだ」
駄目だ、今日の私は涙腺が壊れてしまってどうしようもない。
「お父様は、今幸せ?」
「ああ、お前と、妃という新しい家族を得て、この上なく幸せだ」
囁く声が溶けるほどに甘い。本当に心からそう思っているのだということが分かって、胸が温かくなった。けれど、お父様は永遠に失った半身の痛みを忘れることができないのだろう。そしてきっとアレスも同様に。
私はこの先、自分の想いをどうしていくか考えないといけないと思った。
縺れた心の糸をどう解いていくべきか、私にできることはないのか。
皆が幸せになれる方法はないのか、と。




