第5話「屋根の上の距離」
あの人は、いつからそこにいたのだろう。
五軒目の屋根に登っていた。トーマが下から梯子を押さえ、私が上で瓦のずれを確かめる。この家は他の家より屋根の傷みが激しく、雨漏りの跡が天井板に広がっていた。瓦を外して並べ直し、隙間に漆喰を詰める作業が必要だった。
トーマと二人の作業にも慣れてきた。声をかけ合って資材を受け渡す。トーマは膝に負担のかからない仕事を選んで動く。私は屋根と窓を担当する。分担が自然にできあがっていた。
その日の朝、二人の新しい住人が来た。
メルダという女性は、四十代の半ばに見えた。髪を布で束ね、袖をまくり上げた腕は細いが筋が通っている。
「あたしはメルダ。仕立て屋をやってた。王都で店を開いてたんだけど、まあいろいろあってね。行商人にここの話を聞いて来たの」
口調は気が強かった。でも、改修した四軒目の中を見て回る目つきは真剣だった。壁に手を触れ、窓から差す光の角度を見て、暖炉の煙の抜けを確かめた。職人の目だった。
「悪くないじゃない。窓の位置がいい。ここならカーテンを吊れば、朝と夕方で光の入り方を変えられる」
「カーテンですか」
「布があればね。あたしの腕なら、窓の大きさに合わせて一枚縫うくらい、半日もかからない」
メルダの後ろに、もう一人。
「あの、僕もここに住ませてもらえますか」
ヨルンは十九歳の青年だった。背が高く、肩幅があるのに、声が小さい。右腕に古い包帯が巻かれている。
「騎士の見習いだったんですけど、怪我をして除隊になって。トーマさんに紹介してもらいました」
トーマが横から口を挟んだ。
「辻で会ったんだ。行き場がないって言うから、うちの大家さんのところに来いと言っておいた。力仕事ならできるだろう」
ヨルンは背筋を伸ばし、私に向かって頭を下げた。
「何でもやります。力仕事でも、荷運びでも」
私は二人に、トーマと同じ条件を伝えた。家賃は金銭ではなく、できる仕事で代えてほしいと。メルダは「まあ、やるしかないでしょ」と腕を組んで頷き、ヨルンは「はい」と短く答えた。
五人になった。
たった五人だけれど、初めて「チーム」で動く感覚があった。前世の内覧会でも、設営チームが三人を超えると空気が変わった。個人の作業が、共同作業になる。
五軒目の屋根の改修を進めていた午後のことだった。
瓦の並べ直しは順調だった。トーマが下から漆喰の壺を渡し、ヨルンが梯子の中段で中継する。メルダは五軒目の室内で、持参した布地から窓の寸法を測っていた。
私は屋根の端で、最後の瓦を固定しようと身を乗り出した。
足場にしていた梁が、軋んだ。
乾いた木が割れる音がした。右足の下から支えが消えた。体が傾く。屋根の縁に指をかけようとしたが、漆喰で滑った。
落ちる、と思った瞬間。
背中に腕が回った。
片腕で腰を、もう片腕で肩を。地面に着く前に、体が止まった。
抱きとめられている。
見上げると、外套の影の下に暗い色の目があった。あの人だった。名前のない常連さん。息が荒い。走ってきたのだろうか。
腕の力が強かった。背中に当たる胸の鼓動が速い。
「——大丈夫ですか」
私は自分の声がかすれているのに気づいた。心臓が跳ねている。落ちた衝撃ではない。この人の腕の中にいることに、体が反応している。
「……怪我は」
低い声。短い言葉。いつもと同じ。でも声の端がわずかに震えていた。
「大丈夫です。ありがとうございます」
私は体を起こし、男の腕から離れた。膝が少し笑っていた。
「なぜここにいらしたんですか」
「窓の建てつけを見に来た」
嘘だった。五軒目の窓はまだ修繕していない。それ以前に、この家の窓枠を前に直してもらったのは三軒目の話だ。
嘘だとわかっている。でもこの人は嘘をつくのが下手だ。
「あの窓は、まだ手をつけていませんけど」
男は黙った。外套の中で、片方の手が拳を握るのが見えた。それから踵を返して、通りの方へ歩き出した。
「エヴァちゃん」
夕方、五軒目の室内でメルダがカーテンの裾を縫いながら言った。針を動かす手は止まらない。
「あの人のこと、気にしてるでしょ」
「え」
「窓の建てつけなんて嘘に決まってるじゃないの。先週直したばかりって、あんたも言ったでしょ」
メルダの目は布地に落ちたままだった。でも口元が少し笑っている。
「毎回来て、毎回名前を言わないで帰る。まあ気になるわよね」
「気になるというか、この人が何者なのかがわからなくて」
「あたしが聞いてるのはそういうことじゃないの」
針が布を貫く音がした。
「受け止められた時、顔が赤かったわよ」
私は反射的に頬に手を当てた。メルダが今度こそ顔を上げて、にやりと笑った。
「驚いただけです」
「はいはい」
メルダは再び視線を布に戻した。「まあ、やるしかないでしょ」といつもの口癖を呟いて、裾を縫い進めた。
驚いただけだ。落ちかけて、受け止められて、心臓が跳ねた。それは驚きだ。
でも、あの腕の力を、まだ覚えている。この人はなぜ私のそばにいるのか。その問いが、頭の隅から離れなくなっている。
翌日の朝、五軒目の窓枠を修繕しようと仮住居を出た。
道具箱から楔と金槌を取り出し、通りに出る。メルダが縫ったカーテンが五軒目の窓に吊られていて、朝風に揺れていた。布一枚で、空き家の窓が生活の窓に変わっている。
トーマが井戸端で顔を洗っている。ヨルンが六軒目の予定地の瓦礫を片付けている。メルダの家からは糸を切る音がする。
五人がそれぞれの朝を過ごしている。この場所を、守りたいと思った。人のためだけではなく。ここが壊れたら困る。ここが無くなったら嫌だ。それは、この場所が自分にとっても大切だからだ。
仮住居の机の上に、何かが置いてあった。
紙だった。
巻かれた紙を開くと、間取り図が描かれていた。六軒目に最適な配置が、正確な寸法で引かれている。壁の位置、窓の大きさ、暖炉と入口の関係。建物を知っている人間が描いた図面だった。
筆跡に見覚えはない。でも、この図面を置ける人間は一人しかいない。
あの人は、窓の建てつけを見に来たのではなかった。これを届けに来たのだ。いつから置いてあったのか。朝に出る前、机の上には何もなかった。私が屋根に登っている間に、仮住居に入って置いていった。
受け止められた腕の力を思い出す。窓の建てつけという嘘を思い出す。そしてこの図面を思い出す。
この人は何者なのか。なぜ名前を言わないのか。なぜ毎回来るのか。
答えは出ない。でも、メルダの言う通りだった。気にしている。驚いただけでは、ない。
それが何なのかは、まだわからない。




