第3話「名前のない常連」
あの人はまた来るだろうか。
二軒目の改修を終えた朝、私は自分がそんなことを考えていることに気づいた。
軒先の資材は、あれ以来も続いていた。板材が数枚。釘の包み。一度は漆喰の入った小さな壺が置かれていたこともあった。いずれも荷札がなく、いつ届くかも決まっていない。朝起きると、そこにある。
仮住居の棚にも変化があった。
干し肉が革袋に入って置かれていた。翌週には保存パンが二つ。その次には茶葉の小包。行商人の品とは質が違う。干し肉は塩が均一に回っていて、保存パンは硬いがちゃんと焼き上がっている。茶葉は乾燥の具合がよく、王都の茶舗で扱うような品だった。
誰が置いているのか、わからない。
辻で行商人に尋ねた。
「あんたのところに荷を運んだ覚えはないね。うちの商品でもない。そもそもあの場所まで行く商人はいないよ」
わかっていた答えだった。でも確かめずにはいられなかった。
行商人は荷車の帆を直しながら、ついでのように言った。
「そういえば、最近よく聞かれるよ。あの廃村に誰か住んでるのかって。断罪された悪女がいるらしいって話が回ってる。辺境にまともな人間が住むわけないって、王都の商人は笑ってたけどね」
悪女。
その言葉が耳に残った。王都では私はそう呼ばれているのだろう。伯爵令嬢の地位を失い、無爵として追放された断罪済みの悪役令嬢。その噂が、行商人の口を通じて辺境にまで広がっている。
帰り道、空を見上げた。雲が西に流れている。王都はあの雲の先にある。ここからは、何も見えない。王都からも、ここは見えないだろう。
それでいい。見えなくていい。
二軒目の改修で余った資材と、軒先に届いた板材を合わせて、三軒目に取りかかった。
今度は通りの西側。井戸に近い家を選んだ。水汲みが楽な立地は、暮らしの基本だ。前世の物件案内でも、水回りの便利さは顧客が最初に見る項目だった。
三軒目は一軒目や二軒目とは違う工夫をした。
暖炉の横に収納棚を造り付けた。壁の窪みを利用して、板材を三段に渡す。道具や食料の保管場所になる。この家に住む人がいつか来たとき、最初に困るのは「物をどこに置くか」だ。収納が一つあるだけで、空間は暮らしの場になる。
窓の下に、石を積んで腰掛けを作った。外の通りが見える。井戸に水を汲みに来る人の姿が、座ったまま見える位置。前世の不動産用語でいえば「コミュニケーション動線」。まだ誰もいないけれど、人が集まる場所には、人が自然と座れる場所がいる。
改修は一軒目より早く進んだ。材料の使い方がわかってきた。廃材の再利用にも慣れた。朽ちた梁から使える部分だけを切り出す。割れた石を暖炉の補修に回す。捨てるものが減るほど、使える手数が増える。
三軒目が完成した日の午後。
あの人が来た。
外套を目深にかぶった長身の男。一軒目の内覧会に現れたときと同じ格好で、通りの東の端から歩いてくる。
三度目だった。一軒目にも、二軒目にも、完成した日に現れた。私はいつの間にか、この人のことを心の中で「名前のない常連さん」と呼ぶようになっていた。
男は三軒目の中に入った。
私は入口の近くに立って、中を見る男の背中を眺めた。一軒目のときは部屋全体を見回していた。二軒目のときは窓と暖炉を重点的に確認していた。三軒目では、収納棚の前で足を止めた。
棚板に手を触れ、荷重を確かめるように押した。次に窓下の腰掛けに視線を落とし、通りの方を見た。井戸の位置と、窓の角度を確認しているように見えた。
そのまま、窓枠に手をかけた。
歪んでいた。私が直したはずの窓枠が、木材の乾燥でまた少しずれていた。気づいていたけれど、手が回っていなかった。
男は外套の袖を肘までまくり、窓枠の上部に両手をかけた。力を入れる。木が軋む。枠が正しい位置に戻る音がした。そのまま押さえつけて、懐から何かを取り出した。小さな木の楔。枠と壁の隙間にそれを差し込み、手のひらの根元で叩いて固定した。
窓を開閉した。滑らかに動く。
「——建物のことがお分かりになるんですね」
私は思わず声をかけていた。
男の手が止まった。振り返りはしない。
「窓枠の歪みを見つけて、楔で固定する。それは住んだことがある人の直し方です。図面だけの人は、枠ごと替えようとしますから」
黙っている。
「あの、失礼ですが、お名前を——」
「……」
男は袖を戻した。楔を差し込んだ窓枠を一度だけ見て、入口へ向かった。私の横を通り過ぎるとき、足が一瞬だけ遅くなった。何か言いかけたように見えた。
でも何も言わず、通りへ出て、来たときと同じ方向へ歩いていった。
日が傾いてきた。
三軒目の窓を開けたまま、入口に立っている。風が通る。一軒目を直したときよりも、空気が軽い。二軒目を直したときよりも、広い範囲で風が動いている気がする。
三軒の家の窓が開いている。井戸を中心にした通りに、風の道ができた。換気の効果が重なったのだろう。建物一つひとつの空気が動けば、通り全体の空気も変わる。
当たり前のことだ。前世のマンションの内覧会でも、管理人が共用部の換気を怠ると、個別の部屋がどんなに綺麗でも「なんとなく空気が悪い」と言われた。建物は一つで完結しない。周囲との関係で空気が決まる。
あの人は、窓枠を直した。
あの手つきは、壊すためではなく直すために動く手だった。楔を持っていたということは、直す気で来ていたということだ。見に来ただけではない。
名前を聞いても答えない。身分がわからない。外套で紋章は隠れている。剣は帯びていない。けれど靴の質と、建物を触る手つきと、持ち歩いている楔の種類が、この人を普通の通りすがりとは思わせない。
誰なのだろう。
好奇心だった。一軒目のときの「警戒」とは少し違う。この人が何者かを知りたいと思い始めている。怖いのではない。あの手つきを見てしまったから。
名前のない常連さん。
次に来るのはいつだろう。四軒目を直したら、また来るだろうか。
夕暮れの仮住居で、四軒目の改修計画を立てていた。
紙はないから、床の砂に木の枝で間取りを描く。通りの東端、街道に最も近い家。ここを直せば、行商人や旅人の目に留まりやすくなる。人通りがあるかどうかは別として、「入口」を作ることには意味がある。
街道に向けた窓を大きく取ろう。看板を立てるなら、この家の前がいい。
枝で線を引いていると、外から音が聞こえた。
馬車の車輪が、石畳の上を転がる音。
私は手を止めた。
馬車の音は、ここに来てから一度も聞いたことがなかった。行商人は辻までしか来ない。あの音は、辻からではなく、街道の方角から近づいてくる。
立ち上がって、入口に出た。
夕闘の残光の中、街道の先から、幌のかかった一台の馬車がこちらに向かって来ていた。




