第2話「一軒目の客」
壁の漆喰を剥がしたら、下から石積みが出てきた。
目の詰んだ、丁寧な仕事だった。十年前にここを建てた石工は腕が良かったらしい。漆喰は風雨で傷んでいたが、石そのものは生きている。
私は膝をついて石の表面を指で撫でた。継ぎ目が均一。角の処理も丁寧。この壁なら、上から新しい漆喰を塗るだけで持つ。
足跡の主は、あれ以来見つけられなかった。朝に確認した時にはもう消えていて、新しい跡もなかった。気にしていても仕方がない。今の私にはやるべきことがある。
仮住居の隣。南通りの二軒目にあたる空き家を、最初の改修対象に決めた。
理由は三つ。石の土台が頑丈なこと。南と東に窓があり、午前の光が入ること。そして、通りに面した入口から井戸まで一直線に歩ける位置にあること。
無爵の私には土地を持つ権利がない。裁判を起こす権利もない。ここは王室直轄地として追放先に指定された場所であり、私に与えられたのは「住んでいい」という許可だけだ。
でも、この家は誰のものでもない。十年間、誰も住まなかった家だ。直すだけなら、誰にも咎められないはずだ。
母の宝石を持って、街道沿いの辻まで歩いた。片道で半日かかった。
辻には行商人の荷車が二台停まっていた。その一人に、宝石を見せた。
「ほう」
行商人は革の手袋をはめたまま石を光に透かし、値踏みするように目を細めた。
「悪くない。いい紫だ。で、何が欲しい」
「漆喰と、釘と、板材を」
「金でなく物と交換ってことか。まあ構わんが、この石でどれだけ出せるかは期待するな」
行商人が出した量は、板材が十数枚、漆喰が桶一杯分、釘が両手に収まるほど。資材数軒分には足りない。一軒分でも心もとなかった。
「足りない分は、自分でなんとかします」
「あんた、あの廃村に住んでる人かい。物好きだな」
行商人はそれ以上聞かなかった。荷車の端に資材をまとめ、私は三往復して廃領地まで運んだ。日が暮れかけていた。
翌日から、改修を始めた。
まず床板を剥がした。腐っている板と、まだ使える板を分ける。使える板は乾かして再利用する。足りない部分は廃材を切り出して補う。前世で内覧会の会場設営を手伝っていたとき、大工さんが端材で棚を作っていた。見よう見まねで覚えた技術だけれど、板を切って釘で打つことくらいはできる。
窓枠の修繕。仮住居で窓を開けたときと同じ要領で、膨張した木材を削り、開閉できるようにする。南窓と東窓の二つ。朝に東の光が入り、午後に南の光が回る。この家に住む人は、一日を通して明るい部屋で過ごせる。
暖炉の煤を落とし、煙突の通りを確認する。小枝を燃やしてみると、煙がまっすぐ上に抜けた。
壁の漆喰を塗り直す。桶一杯分の漆喰では全面には足りないから、ひび割れの大きい箇所を優先する。残りは石の表面をそのまま残した。磨けば模様が浮き出る。これは欠点ではなく味になる。
前世の内覧会で学んだことがある。物件を良く見せるのは豪華さではない。光の入り方と、空気の流れと、導線だ。
玄関から入って、正面に窓。右手に暖炉。左手に奥の部屋への通路。この配置なら、入った瞬間に光が目に入り、右手の暖炉で温かさを感じ、左手に生活空間の広がりを予感する。
人の視線は光に向かう。だから窓の位置がすべてを決める。
私は暖炉の脇に、拾ってきた石を並べて簡素な棚を作った。その上に、廃領地で見つけた野花を一輪だけ置いた。それだけで、部屋の空気が変わった。
人が住む気配。それを演出するのが、内覧会の仕事だった。
改修が終わったのは、資材を手に入れてから十日後のことだ。
私は通りに面した入口の前に立ち、朽ちかけた板切れに炭で文字を書いた。
「内覧会」
看板ともいえない代物だった。そもそもこの辺境に人が通りかかるかもわからない。行商人は辻に来るけれど、ここまで足を延ばす理由がない。
それでも、見せる準備を整えることを選んだ。前世で最初に担当した物件も、駅から遠くて人が来ない場所だった。先輩に「まず部屋を完成させろ。客は後からついてくる」と言われた。あの先輩の言葉が正しかったかどうかは、前世では確かめられなかった。
完成した家の中に立って、窓を開けた。風が通る。空気が軽い。仮住居の窓を開けたときと同じ感覚。いや、あのときよりも、少しだけ広い範囲で空気が動いている気がする。換気がうまくいっているのだろう。
入口を開け放って、通りに面した椅子に座った。椅子は廃材を組んで作ったもので、座面がやや傾いている。
待った。
午前が過ぎた。午後になった。通りには風が吹いているだけだった。
やはり、誰も来ない。
背景エリアだ。ゲームの中でも、ここにはイベントが起きなかった。安全と引き換えに、何もない場所。
立ち上がろうとしたとき、足音が聞こえた。
砂利を踏む、重い足音。一人分。
通りの東の端から、人影が歩いてくる。
外套を目深にかぶった長身の男だった。外套の下は黒っぽい服で、腰に剣はない。靴は革のブーツで、砂埃にまみれている。
あの足跡の主かもしれない。
男は看板の前で立ち止まった。「内覧会」の文字を見て、一瞬だけ首を傾げた。それから、何も言わずに家の中に入った。
私は椅子から立ち上がり、後を追った。
男は部屋の中をゆっくり見て回っていた。南窓の前で足を止め、窓枠に指をかけて開閉を確かめた。手つきが慣れている。次に暖炉の前にしゃがみ、煙突の内壁を覗き込んだ。それから壁の漆喰に手を触れ、石積みの継ぎ目を指でなぞった。
ただ見ているのではなかった。確かめている。建物の状態を、構造を理解した上で確認している。
男は床板を踏み、音を聞いた。窓の方に戻り、東窓も開閉した。暖炉の脇の棚に目をやり、野花には触れなかった。
一周して、入口に戻った。
「あの、お名前を伺ってもよろしいですか」
私は背筋を伸ばして尋ねた。相手の身分がわからない。外套で紋章が隠れているし、剣を帯びていない。ただ、靴の質と、建物を見る手つきが、平民のそれとは違った。丁寧に接するに越したことはない。
男は振り返らなかった。
「悪くない」
低い声だった。短い言葉。それだけ言って、男は通りへ出て、来たときと同じ方角へ歩き去った。
名前は聞けなかった。
夕暮れの光の中で、入口の前に立ったまま、私はしばらく動けなかった。
「悪くない」。
褒められたわけではない。合格点をもらったわけでもない。でもあの一言は、誰かがこの家を見て、評価を口にしたという事実だった。
前世で最初の内覧会を担当したとき、来場者は三組だけだった。アンケート用紙はほとんど白紙で返ってきた。その中の一枚に、「良い」とだけ書いてあった。字が乱雑で、○をつけたのか文字を書いたのかもわからないような走り書き。
あの一枚が、次の物件の準備に向かう足を動かした。
「悪くない」は「良い」と同じだ。少なくとも、「来なければよかった」ではない。
窓の建てつけ。煙の抜け。石積みの継ぎ目。あの男が確かめた場所は、私が力を入れた場所と一致していた。
見る目のある人だった。
ここで何かできるかもしれない。一軒目で、たった一人の来訪者に「悪くない」と言われただけで、私はそう思い始めている。前世から変わらない。救いようのない楽天家だと、先輩にも言われた。
翌朝、仮住居の軒先に出ると、足元に何かが置いてあった。
木材の束。荷札のない、まっすぐに切られた板が五枚。その上に釘の包みが載っている。
行商人の置き忘れにしては量が多い。それに、行商人はここまで来ない。辻から廃領地まで半日の距離を、荷を運んでまで来る理由がない。
板材の断面を見た。切り口が鋭い。良い刃物で、丁寧に切られている。
誰かが、ここに届けた。
私は板材を持ち上げた。重い。一軒目の改修で足りなかった分に、ちょうど見合う量だった。




