九、聖女の顔(現在)
「オブシディアン殿下! 聖女様にお菓子など与えられては困ります!」
「これは国境で俺が育てた蕎麦で作った花林糖だ。油は自生してた椿、味付けは野生の蜂の蜜。戦場には中々甘味なぞ届かないからな、自作してたんだ。蕎麦は五穀に含まれない、そうだろう?」
「大神官様に報告させて頂きますっ」
「ああ構わんぞ」
俺が聖女に何かを食わせ、女神官のローファが逆上する。聖女は差し出されるまま嬉しそうにむぐむぐと食べ、侍従長や女官長は微笑ましそうに見守り、チシャは何故か尊敬の眼差しで俺を見つめ、ウラユリがそれにちょっかいをかける。
混沌とした状況だが、これはここ数日の日常だ。
仕事は相変わらず忙しいが、何とか夜は王子宮に戻り、夕食と朝食を共に出来るようになった。侍従長のじいさんが騎士団長の侯爵に根回ししてくれ、書類仕事の三分の一ほどを引き受けてもらったのだ。じいさん同士のネットワークというものがあるらしい。
仕事の合間合間に、大神官の指示の隙をついた聖女の食えるものを考える。
大神官の鼻を明かすようで中々に楽しい。
菓子は作れなかったが、マースに紹介してもらった女官に習った。
俺を聖女の婿にするために「穢れていない」と言ったのが運の尽き。俺が作ったものなら聖女も食えるってわけだ。
「さて、今日のおやつはここまでだ。いっぺんに食い過ぎて腹が痛くなっても困るからな」
顔も見えないが、聖女は帽子を揺らして『ガーン』という感情を表している。しゃべらないせいかジェスチャーが大きく、まるで何かのキャラクターか動物のようだ。
いまだマース以外の女官や侍従には警戒する様子があって、そんな聖女が俺だけに警戒心なく近寄ってくるのは意外に「くる」ものがある。聖女はおそらく十年前に俺が拾ったモリーだ。本人に記憶はないが、まず間違いないだろう。当時の様子と相まって、庇護欲がかき立てられる。
が、十日以上かけて、聖女の食事を蕎麦の実の粥から段々と固形物へと移行してきたところだ。ここで甘い顔をして消化不良を起こさせては、また粥からやり直しになってしまう。
あえて口をへの字にして「おあずけ」と言ってみせると、聖女はショボンとし、それからそわそわと体を揺らし出した。
「どうした? 便所か?」
「副長ー、女の子に便所はないよサイッテー」
ケラケラ笑うウラユリにガンを飛ばしていると、ボリボリと音がした。
聖女がローブの隙間から手を突っ込んで、太ももや腕をひっ掻いている。
「どうした? 痒いのか? 蚊はいないと思うが」
ぷるぷるとかぶりを振りながら、手が止まることはない。見るともなしに見えたローブの下には、血の滲んだ包帯が見えた。
「お前っ……その包帯はどういうわけだ?」
治りかけの傷は痒いものだ。虐待でもされているのかとローファを睨み付けると、間に入ったチシャが聖女の腕を握って必死に止めた。
「違うんです、聖女様は時折虫が這っている感覚がするとおっしゃって、手足を掻きむしるんですっ。手袋もして頂いてるんですが焼け石に水で。大神官様にも診て頂きましたが、もちろん虫もいませんし異常もなく、気のせいだろうと。ローファ様っ、お願いしますっ」
心得たようにローファが懐から陶器の器を取り出すと、その中にジャララッと水晶の欠片のようなものを入れた。
「聖女様、聖女様のお好きな氷ですよ」
必死で気を引こうとするチシャにチラリと視線をやると、聖女は器を受け取ってボリボリと噛み砕き始めた。
「氷?」
「わたくしはホッキョクキツネの獣人でして、氷の魔法が使えます。聖女様は何故か氷がとてもお好きでして……」
困惑の表情でローファは眉を下げるが、一方の主張だけを全面的に信じるわけにはいかない。
「俺にも一個もらえるか?」
聖女の前に手のひらを出すと、聖女は迷った。迷って迷って――だいぶ迷い抜いた後、一粒だけ小さな氷を取って俺の手のひらに乗せた。
「くれるのか。有り難う」
驚いたように、ポカンとこちらを見上げて聖女の動きが止まった。
その間に、俺はもらった氷を口に入れ、ゆっくりと溶かし、それから噛み砕いた。
幻覚剤か麻薬の類でも入っているかと思ったが、何のことはない普通の氷だ。戦場では薬物も蔓延しやすいから、それ系の薬は大抵判別出来る。
「うん、冷たくて旨いな」
俺の言葉にコクコクと頷くと、聖女は再びボリボリと氷を噛み砕き始める。
「聖女様が、ご自身の氷を分けて差し上げるなんて……」
聖女の後ろでは、チシャがハンカチで涙を抑えながら感動している。
「食べ物よりお好きなんですね、聖女様のご夫君がオブシディアン殿下で本当に良かったです」
言動を分析するに、ローファは大神官の腰巾着、チシャは聖女個人に忠誠心を持っているといったところだろうか。
普段聖女がローファに従順なのは、信頼関係というより『氷をくれる人』として慕っているからのように見える。
ということは、さしずめ俺は『食べ物をくれる人』だろうか。
「さあ聖女様、部屋に戻りましょう。夕食の前に『祈り』を済ませなくては」
ローファに促され、聖女は席を立つ。
俺と婚姻し、王子宮で暮らすようになってからも、聖女は女神官と朝夕の『祈り』というものを欠かさない。この『祈り』が、聖夜祭の折りに全国民に配られる薬酒『聖女の恵み』になるという。
立ち上がった聖女が、フラリと揺れた。
「危ないっ」
急に意識を失ったように真後ろに倒れかけた聖女を抱き留め、俺は愕然とした。
軽い。あれだけ食わせたのに、むしろ前より軽くなっているのはどういうわけだ。
「チシャ、聖女の体重はいつもこれくらいなのか? 俺には軽すぎるように思えるが」
あえて名指ししたチシャは、目を潤ませて俯き、唇を噛んだ。
一方でローファは俺の腕の中から強引に聖女を立たせ、肩を支えた。
「聖女様とはこういうものです。さぁ聖女様、『祈り』の時間ですよ、参りましょう」
「いや待て、どう考えてもまともじゃないだろう。生きているのが不思議なくらいだ。医師を呼ぼう」
まさかそこまでだとは思わなかったのだろう、侍従長と女官長が顔色を変えたのが見えた。
だが別の意味で顔色を変えた者もいた。ローファだ。
「なんということをおっしゃるのです殿下。聖女様のお力を疑い、あまつさえ穢れた人間を聖女様に近づけるおつもりですか。『聖女の恵み』こそが最上の癒やし。医師などというものは聖教の教えに背く異端者に他なりません」
『聖女の恵み』――それは神殿が聖教の祭りである聖夜祭に配る薬酒のこと。
そもそも治癒魔法というものは被術者の体力を使って治癒力を上げ傷を治すもの。回復薬は被術者の体力を回復させ治癒を促すもの。病や一度癒えた傷の後遺症には効かないし、元々虚弱な者や体力の少ない老人子どもには効きづらい。
治癒魔法が効きづらい者や病を得た者は、医師や薬師に診てもらうのが常だった。
ところが聖女の力のこもった『聖女の恵み』は、病を癒やし後遺症や老化現象、慢性疾患、虚弱体質にも効くという。神殿――というか大神官は、この『聖女の恵み』を最上の癒やしに位置づけ、年に一度全ての国民に配る代わり、回復薬や医師を取るに足らないもの、下餞なもの、聖教の教えに背くもの、と定義付けた。
『聖女の恵み』をやるのだから、医師などはいらないというわけだ。
「戦場では、年に一度の『恵み』を悠長に待っている時間はなくてな。今日の傷を今日癒やせねば明日の命が危うい。故に従軍医というものがいるのだよ。俺も何度も診てもらったし、命を拾ってもらったこともある」
そこで俺はニヤッと笑った。
「安心するがいい、俺の大叔父で、クンツァイト一世陛下の血筋だ」
ローファは鼻白んだ。
コンドライト大叔父は、神の子である救い主に浄化されたとされるひいじいさんクンツァイト一世の末の息子だ。八十近いのに戦場を闊歩し兵を叱り飛ばす頑固ジジイではあるが、腕は確かで――大神官の理屈でいくと、俺より遥かに「穢れが少ない」人間だ。変わり者で、王族であるにも関わらず領地も屋敷も持たず公務も放棄して何十年もフィールドワークに精を出しているような人間だから、城や神殿の人間から忘れられていても無理はない。
そんな大叔父は、「一番医者が必要とされている場所」ということで、五年ほど前から戦場で従軍医をやってくれていた。今は俺と一緒に戻って王城にいる。
「だ、大神官様がお許しになりませんわ!」
「何故?」
テルマはギュッと両手を握りしめ、キッと俺を睨み付けた。
「医師とは、『聖女の恵み』の下位互換、大して癒やす力もないのに、高額な医療費を請求する詐欺師だからです。国民は、医師などという俗物への迷信を棄て、聖教に帰依して心の安寧と長寿を得るべきなのです」
「それだがな、聖女の力、聖女の恵みとは言うが……そもそも『聖女の恵み』というのは、聖女自身には効果があるのか?」
ジッと視線を落とした先で、俺の胸ほどもない小さな聖女がフルフルと首を横に振った。
「効かないのか?」
今度は帽子がコクリと頷く。
まぁそうだろう。聖女の力が聖女自身に効くなら、肉を食べただけで腹痛に苦しみ、立っただけで立ちくらみを起こすように事態にはなっていないに違いない。
立ちくらみ?
「殿下!」
聖女をひょいと抱き上げ、近くのソファへと横たえた。
軽い。犬一匹分もない。
ローファは声を上げたが、聖女自身は抵抗するそぶりもなく、むしろ頬に手を当ててぽやぽやと喜んでいるようだった。
そこに、コンコンと戸を叩く音がした。
控えていた侍従長が扉を開けると、そこには臣下の礼をとるウラユリの姿があった。
つい先ほどまで室内にいたはずのウラユリがそこにいることに、ローファとチシャが目を見開いて驚いている。
「コンドライト様をお連れしました」
俺の会話の途中で人知れず部屋を抜け出したウラユリは、俺が聖女を引き留めている間に無事大叔父を連れ出すのに成功したらしい。
「患者はどこかな?」
戦地より幾分柔らかな声がして、白いヒゲの厳ついじいさんが入っていた。狼や狐が多い王族にあって、オオツノヒツジという変わり種だ。
「よぉ先生、世話になる。患者はこの……」
「キァアアッ、何をなさいます殿下!」
聖女の帽子と分厚いベールを鷲づかみ、力尽くで引っぺがす。ローファの高い悲鳴が響いた。
「これはまた……」
露わになった聖女の顔を見て、コンドライト大叔父が絶句する。
そこにいたのは、痩けた頬、黒々とした隈の浮いた老人のような肌、青白い顔色の骸骨のような少女だった。