十、聖女への信仰(チシャ視点)
あたしはチシャ。オセロットの獣人で聖女様付きの見習い神官だ。
半年前の聖夜祭、私は神殿で頂いた『聖女の恵み』を胸に抱き、家路を急いでいた。
「聖女様の恵みだ! 今年も俺たちみたいな平民にまで、有り難ぇこった!」
「みろ、ポーションで治りきらなかった足が、動く! 動くようになったぞ!」
「隣のじいさんなんて、聖女様の恵み目当てに他国から引っ越してきたんだってよ。三年続けて恵みを頂いたら、長年煩ってた腰痛におさらば出来たって踊ってやがったぜ」
聖夜祭の当日、アルファルファ神聖国は貴族も民も国を挙げてのどんちゃん騒ぎになる。
身分の貴賤によらず、神殿から『聖女の恵み』と呼ばれる薬酒が国民一人一人に配られ、それを飲むことによって病は癒え、怪我は治り、一年の魂の厄や罪、穢れが払われ、寿命が延びるからだ。
「これでまた一年安泰だ」
「聖女様に乾杯! 大神官様に乾杯!」
五十年前、この国がまだ『アルファルファ王国』と呼ばれていた頃、一人の異能の男が現れた。彼は創造の神が人間のために地上に使わした、神の子だった。後に『救い主』と呼ばれる彼は数々の奇跡を起こしたと伝わる。
人々の傷を癒やし、盲者の目を見えるようにし、聾者の耳を聞こえるようにし、立てなかった者を立てるようにし、行方不明になった子どもを見つけ、地震で崩れた大量の瓦礫を軽々と動かし被災者を助けた。犬も猫も動物は皆彼に従い、獰猛なヒグマや獅子さえも彼に頭を垂れた。彼は知るはずのないことを知り、聞こえるはずのないことを聞き、見えるはずのないものを見た。
多くの人々は彼が神の子であることを信じ、彼の伝える神を信じた。
「ナシャ! 聖女様の恵みだよ!」
王都の外れ、貧民街の中にある自宅の戸を勢いよく開けると、妹のナシャが両親に支えられてボロボロのソファに座り、赤い薬酒を飲んでいた。
「良かった、こっちでもちゃんと『恵み』が配られたんだ……」
それを見て、あたしは安心の余りへたり込みそうになった。
あたし達家族は、一年前まで山奥の小さな村で暮らしていた。
立地的にはアルファルファ神聖国には位置するものの、山奥過ぎて神聖国の国籍もないような場所だった。住んでいるのは五軒だけ、お金なんて使ったこともなく、全ては自給自足で賄っていた。
そんなあたし達が王都に引っ越してきたのは、『聖女の恵み』が目的だった。
「そうなんだよ、移住してきたばっかりのあたし達まで、神官さんが広場で一人一人確認して配ってくれてね。街の人たちも、一軒一軒尋ねて回って、寝過ごしてもらいそこねた人はいないか、寝付いていて広場まで出てこられない人はいないか確認してくれてね。なんて親切で有り難い街なんだろう」
「それも聖女様のご威光だろう。なんでも、人の物を奪うような輩には、『恵み』の効きが悪くなるらしいから」
冗談交じりに穏やかな笑みを交わす両親の目尻には、涙がにじんでいる。
あたしの妹、ナシャは生まれつき体が弱かった。
村の薬師の婆様には、「十まで生きられないだろう」と言われた。
年に数回、ひどい風邪のように体調を崩す。ぜーぜーと嵐のような息をする妹の傍らで、その辛そうな息が止まらないよう祈るしかできなかった。
父さんが麓の街でなけなしのお金をはたいて買ってきた回復薬もナシャを治すことはできなかった。
薬師の婆様が必要だという薬草を集め、滋養があるという魔獣を狩って食べさせたけれど、ナシャは少しずつ弱っていく。薬草のある崖から転げ落ち、魔獣に噛みつかれても、あたしは怪我をするだけで自然に治ったけれど、ベッドで寝ているだけのナシャの呼吸は日々細くなっていく。
このままでは、ナシャは死んでしまう。
お日様の下で走ることも、どろんこになって遊ぶこともできないまま。
諦めきれず、あたしは村を出て治癒師を探した。治癒魔法ならナシャを治せるかもしれない。
遠くの街まで出かけてようやく会えた治癒師は、「回復薬も治癒魔法も傷は治せても病気や体質を治すことは出来ない」と言った。
泣き出したあたしに、その治癒師はとっておきの話を聞かせてくれた。
あたし達の住むアルファルファ神聖国には『聖女』様がいて、年に一度、『聖女の恵み』と呼ばれる薬酒を配る。
その薬酒だけが、世界で唯一病を癒やし、虚弱な者を強くしてくれる。
五回も呑むことができれば、死にかけた病人だってピンシャンすると。
「ナシャ、それが飲み終わったら次はこっちをお呑み」
「いや、こっちだ。こっちもあるぞ」
涙を浮かべた両親が、ニコニコと笑いながら自分たちの分の薬酒を差し出している。
ナシャが、ベッドから体を起こして座っていられること自体凄いことだ。
広場にナシャを背負って行き、「聖女の恵み」を口に含ませた途端に、父さんの背から顔を起こすことが出来たという。
両親の気持ちが、あたしにも痛いほど分かった。
「……それ、父さんと母さんのでしょ?」
ナシャが困ったように眉を下げる。そのかすれた小さな声を聞けたのは、いつぶりだろう。知らず溢れてきた涙を、あたしは慌てて袖口でぬぐった。
「いいんだよ、父さんも母さんもどこも悪くない。ナシャが元気になってくれる方が父さんも母さんも嬉しいんだから」
ナシャの白い頬に、ほんの少しピンクが差した。
「……そんなに呑んだら酔っ払っちゃうよ」
ああ、神様。神様神様、いえ聖女様。感謝します、感謝します、感謝します。
あたしが神官見習いになったのは、「いくら全国民に薬酒を配る建前とはいえ、貧民街の、それも移民に配られるはずはない。でもたとえ下働きでも、神殿で働く人間だったら薬酒を手に入れる可能性は上がるだろう」という打算のためだった。
それなのに、貧民街で配られた『恵み』も、神官見習いに配られた『恵み』も変わらないように見えた。
聖女様の慈悲だ。
全国民に、平等に慈悲を。
なんて尊い方なんだろう。
「ナシャ、お姉ちゃんの分の『恵み』も呑んでね。お姉ちゃんもナシャに元気になってほしいから。元気になったら一緒に遊ぼう」
ぬぐってもぬぐっても、涙はこぼれ落ちた。
ぐちゃぐちゃのあたしの顔を見て、ナシャは嬉しそうに笑った。
それから二ヶ月後、ナシャは死んだ。
いつものように、風邪が悪化したように呼吸が苦しそうになって――二日だった。
あたし達が用意出来た『聖女の恵み』は四つ。五つ呑めば、死にそうな病人でも治ると治癒師は言った。五つ目を用意出来なかったあたし達のせいなのか。それとも、一度に四つも呑ませたのが強すぎたのか。
考えれば考えるほど、後悔は尽きない。
それでも……それでも、聖夜祭から二ヶ月、ナシャは楽しそうだった。
お日様の下で遊ぶことができた。かけっこは無理だったけれど、かくれんぼは出来た。友だちも出来たと言っていた。近くの友だちと、葉っぱや石を並べてままごとをして遊んだんだと。
楽しそうに話すナシャの姿が、腫れた目蓋に浮かんだ。
十歳にはとても思えない小さな体で、ナシャは輝くような日々を精一杯生きた。
「チシャ。あたしたちは、山へ帰るよ」
「ナシャを故郷に埋めてやらにゃあ。お前はどうする?」
小さかったナシャは、骨になってもっと小さくなった。
一緒に戻ろうと言う両親に、あたしはかぶりを振った。
「あたしは、聖女様にお仕えしたい。ナシャは死んじゃったけど、聖女様のおかげで二ヶ月は元気になった。その御恩を返したいんだ」
両親は寂しそうに笑って許してくれた。
それからしばらくして、ただの見習い神官だったあたしは、何故か聖女様の目にとまり、ローファ様の下で聖女様付き見習いになった。
「虫! 虫!」
今日もあたしは、幻覚を見て体を掻きむしる聖女様の腕を全身を使って止める。
聖女様に悪気はないが、暴れて爪を立てる聖女様のせいで、あたしの全身もひっかき傷や痣が絶えない。
聖女様は真っ白い神官服を着ているが、その中の体は痩せ細っていて老人のようで、とてもあたしより一歳下の十五歳には思えない。
聖女様は、凶暴、我が儘、不気味。神殿の中では密かにそう陰口が囁かれていて、移民の見習いなんかがほんの一年で聖女様付きになれたのは、聖女様付き神官になりたがる者がいなかったからだった。
「さあ聖女様、『祈り』の時間です」
『祈り』の時間、見習いのあたしは部屋の外に出される。
『祈り』が終わると、聖女様はとても疲れた様子で、足下もおぼつかずフラフラしている。
――『祈り』をやめたらいいのに。
口元まで出かかった声を、あたしはすんでの所で飲み込んだ。
聖教の祖、救い主の孫に当たる女児が『発見』されたのは十年前のことだ。
救い主の力を継ぐその女児は神殿によって聖女と認められ、慈悲深き聖女は、祖父である救い主の死を悼む聖夜祭に、その力の込められた薬酒を広く振る舞うようになった。
『聖女の恵み』と呼ばれる薬酒は、聖女の慈悲そのもの。
『祈り』は、その『聖女の恵み』を生み出すためのもの。
『聖女の恵み』が欲しいという下心で神官見習いになったあたしに、やめろなんて言う資格はない。
年に一度の『恵み』は、国民の病を癒やし、怪我を治す。聖女は、人々の善悪にかかわらず、国民全員から信仰を向けられる存在となり、聖女を擁する神殿の権威は高い。
「神聖国にたどり着きさえすれば救われる」と移民の流入も耐えない。信仰の前には、生国の違いや種族の違いなど僅かなことだ。神聖国の国民の条件はただひとつ、聖教を信仰していることだけ。
国民の願いはただひとつ。
今年も聖女様が健やかで、次の聖夜祭でも『聖女の恵み』が頂けますように。
国民の全てが聖女様にすがる。救いを求める。
でも、その聖女様本人は誰にすがれば良いのか?
国民の敬愛を一身に受ける聖女様は、先日、この国の第一王子殿下と結婚した。
戦場しか知らぬ鬼のような男だと聞いて、あたしはいざとなったら差し違えてでも聖女様を守る気でいたが、オブシディアン殿下は思ったよりも悪くない、いや、かなり良い夫君だった。
大神官様の言いつけの編み目をするするとくぐって、楽しそうに聖女様に餌付けする。
聖女様が今まで何の気兼ねなく食べられたのは、ローファ様が生み出す氷だけだった。
それが、お腹が痛くなるまでお肉を食べられた!
結局少し吐いてしまったが、今まで「お腹がすいたよぉ」「あれ食べたいよぉ」と神官達の食事を見ながら半泣きで訴える聖女様を、氷で誤魔化しながらなだめすかすしかなかったあたしからすれば、オブシディアン殿下は救世主のようだった。あたしのではない。聖女様の救世主だ。
この方なら聖女様を救ってくださる。
拝みたいようだった。
「落ち着け! こら!」
聖女様は鳥の足のようにやせ細ったガサガサの指で、一心不乱に空豆の皮を剥き、口の中へと放り込んでいた。
「菓子よりタンパク質が食いたいとは言われたが……そんなに慌てて食わなくても誰も盗らん。口に入れるだけじゃなく、ちゃんと噛んで飲み込め。丸呑みするな! また腹が痛くなるだろう! 落としたものは食うな! 豆の皮を懐に突っ込むな! 皮はおやつに取っておくだと? ティータイムの茶菓子くらい別口で用意してやる!」
意外な面倒見の良さを発揮しつつ、絹のハンカチに聖女の食べきれなかった豆の皮を包んでやっている第一王子に、聖女様はコテンと首を傾げた。
「ここは天国かな?」
「豆ごときで勝手に昇天するな!」
表情が抜け落ちたような顔をして、口を開けば「何か食べたい」としか言わなかった聖女様が、ちきんとしゃべり、きちんと食べている。楽しそうだ。笑ってる。
あたしは嗚咽をかみ殺し、目の端を歪めて見守った。




