第五話
僕は小さいサイズのりんご飴を一つ買うと、それを手に再び自転車に跨った。スマホで時間を確認すると、午後八時四十分。
神社から約束の海岸までは、十五分あれば行ける。今日も夜空には、星が瞬いていた。
***
いつもの場所に自転車を停め、砂浜に降りる。ざくっと砂の感触が、スニーカー越しに伝わる。そこにはすでに比紗がいた。僕に気づくと「早めに来ちゃった」と、笑顔を見せた。
僕は比紗の隣に立つ。今日の比紗は、初めて会った日と同じ、花柄のワンピースを着ていた。長い髪は後ろで一つに束ねられていた。
どのタイミングでりんご飴を渡そうか迷っていると、比紗は「ちょっと歩かない?」と言った。「うん」と答え、二人で並んで歩く。波の音がすぐ側で聞こえた。
犬の散歩をしている人と一度すれ違った以外は、人に会わなかった。こんな風に会えるのは、今日が最後だということに、比紗も寂しさを感じてくれているのだろうか。今までの中で、一番会話が少なかった。
「これ。お土産」
会話の糸口を見つけたくて、僕はりんご飴を差し出した。比紗が歩みを止める。
「りんご飴。懐かしい」
そう言って顔を綻ばせる。
「この街で一番大きい神社の夏祭りなんだ。今日。」
「そうなんだね。りんご飴って、子どもの頃、なぜか好きで、必ず買ってもらってた。でも、食べ切れたことないんだよね」
りんご飴を受け取った比紗は、なめらかに会話を始めた。
「食べてもいい?」
小さな子どもが訊くように言う。僕は黙って頷いた。すると比紗はその場に座り、りんご飴を包んでいる袋を開けた。僕も比紗の隣に腰を下ろす。
海岸沿いの遊歩道から、三メートルほど離れているこの場所は、夜の気配に包まれている。
「こんな味だった」懐かしそうな声で比紗が言う。
***
「大人になった今なら、これ全部食べられるかな」
首を傾げて尋ねるような素振りで、比紗がこちらを見た。と、その時だった。
僕は自分でも信じられない行動に出た。比紗の唇に自分のそれを、微かに触れる程度に重ねていた。慌てて顔を離す。心臓が口から飛び出しそうな程、ばくばくしているのがわかった。そして、とんでもないことをしたと後悔した。
比紗はしばらく身動きしなかった。
何を言われるだろう、もしかしたらビンタの一つぐらいは喰らうかもしれないと、覚悟した時だった。
「りんご飴食べた所だったから、唇、甘かったかもね」
比紗はそう言った。予想だにしなかったことを言われて、僕は比紗の顔を見つめた。
「ね、航太。もう一回キスして。不意打ちじゃなく」
比紗も僕の顔を見つめて言った。長い睫毛に縁取られた大きな瞳は、僕の全てを飲み込んだ。
自分の衝動を抑制できないことがあるなんて、信じられなかった。理性はいつでも勝手に働く物だと信じていた。でも、比紗の言葉を聞いて、その瞳に見つめられて。その瞬間、全てが吹き飛んだ。
さっきより慎重にでも、確実に比紗の唇を捉えた。比紗がそれに応えてくれるのがわかる。確かに微かに、りんごの香りがするような気がした。
波が打ち寄せる音が、いつもより遠くで聞こえた。
***
スマホのアラームが鳴る。
まだ眠気の残る重い体を動かし、それを止める。時刻は午前八時。今日は土曜日。カーテンの隙間から、太陽の光が差し込んでいる。きっと外はいい天気だ。
比紗と最後の夜を過ごしてから、三年が経った。僕は大学二年になった。高校卒業後、街を出て関東の大学に進学した。
比紗とは連絡先を交換しないまま、あの夜別れた。
僕達は五日間だけの恋人だったのだ。比紗が僕のことをどう思っていたのかは、わからない。でも、僕は比紗のことを好きになっていた。
比紗に会えなくなってからも、彼女のことを忘れたことはない。
そんな僕の一途な想いが、神様に届いたのだろうか。奇跡が起こった。
僕は国立Y大学の経済学部に通っている。先週の月曜日、キャンパス内を、次の講義の部屋へと向かって歩いていた時。一人の女性とすれ違った。
すれ違う瞬間、互いに目が合った。
――比紗
見間違えることがない、印象的な瞳。思わず振り返ると、彼女も振り返っていた。
「人違いだったらごめんなさい。もしかして、航太?」
その言葉を聞いて、飛び上がる程嬉しかった。三年前の夏に、一気に戻ったようだった。
そして、僕達は互いの連絡先を交換した。
約束は午後二時。今日初めて比紗と出かける約束をしたのだった。五日間の恋人だった三年前。僕が伝えなかった気持ちを今日伝えようと思う。
これから比紗の隣にいられることを願いながら。
午後の明るい日差しの中、僕は待ち合わせの駅へと向かう。
読んで頂きありがとうございました!
只今、二人のその後の続編を書いてみたくなり、創作中です。
完成したら投稿しますので、よろしければ、ご一読ください!