第三話
午後九時までのバイトが終わり、家へと向かう。夜の海岸沿いの道は、昼間より波の音が大きく聞こえる。
空気は昼間の暑さを残しているけれど、時おり吹く風は、心地いい。
自転車を漕ぎながら、砂浜に目をやる。そこに人影を見つけた。たまに犬の散歩をしている人を見かけるが、その人影は一人だった。波打ち際まで歩いては、波が近づくと後に下がっている。
それは女性だった。
何となく気になり、自転車を停め、その人影を見つめる。街灯の灯がかろうじて届くその場所は、その人影の横顔を照らした。
はっとした。彼女だったのだ。長い髪が風を受けてなびく。
いてもたってもいられなくなり、気がつくと僕は自転車を下り、チェーンをかけると、砂浜へと下りていた。
驚かせないように、警戒させないように、散歩をしているふりをして、彼女に近づく。二人の間が、一メートル程に近づいた時だった。不意に彼女が顔を上げた。
「こんばんは」
知り合いに声をかけるような気楽さで、彼女が言った。そのことに驚き、しばし言葉が出なかった。
「こんばんは」
声が上擦りそうになるのを堪え、そう返す。
「この街、素敵ですね。海がこんなに近くにあって」
彼女はそう言って、波打ち際のぎりぎりまで近づく。涙が打ち寄せると、数歩後ろに下がった。何と返事したらいいのかわからず、黙っていた。そんな僕の方に顔を向けた彼女は、じっと僕を見つめてから言った。
「あの……海沿いのお店で働いていた方ですよね?」
「お料理、すごくおいしかったです」
***
彼女の言葉をきっかけに、僕達は会話した。彼女の名前は、比紗と言った。僕より年上だと思っていたのに、一つ下の高一だった。年上だと思ったと話すと
「いつも実年齢より、上に見られるの。学生証手離せないんだよ」
笑いながら比紗は言った。その笑顔も綺麗だった。
僕も名前を伝え、二言三言話すうちに、互いを名前で呼んでいた。初対面のしかも異性に、臆することなく話す彼女を見て、羨ましさを感じた。きっと、これまでにも恋愛を積み重ねてきたのだろう。
そう思っていると、比紗は
「何か不思議。航太には全然、緊張せずに話せてる」
と言いながら、髪を右耳にかける。
「そうなの?」
自分の抱いていた、比紗の印象と違ったからか、そう言っていた。そして、自分でも気づく。僕自身もまた、緊張せずに比紗と話せていることに。
比紗は関東から来ていて、家族旅行で一週間、この街に滞在するのだと話した。
「こんな夜遅くに、一人で外に出て、家族は心配しない?」と訊くと、
「大丈夫。うちの家族旅行は、食事以外はフリープランなの」と言って笑う。
そして、驚くべき言葉を比紗は口にした。
「また、明日も会えない?」
僕は黙って頷いていた。同じことを頭で考えていた。以心伝心。そして、僕達は明日も午後九時に、海岸で待ち合わせることにした。
その場で比紗と別れ、自転車を停めた遊歩道に戻る。振り返ると、比紗の背中は少しずつ僕から遠ざかっていた。
***
自転車を玄関脇に止め、家の中に入る。
そのまま自分の部屋へ向かった。ベットに体を投げ出し、比紗の言葉を反芻した。
――また、明日も会えない?
明日もその次の日も、比紗がこの街にいる間は、毎日会いたい。そんなことを、ぼんやり思っていた時だった。
「航! さっき一緒にいた女の子って誰⁈ もしかして、彼女⁈」
小波が勢いよく部屋に飛び込んで来て、叫ぶように言った。おそらく、塾の帰りに目撃されたのだろう。自分の詰めの甘さを後悔した。
「ちょっっ!!」
慌てて部屋のドアを閉める。海斗に聞かれたらやっかいだ。小波に目を戻すと、その目は爛々と輝いている。
「彼女じゃないから」
詳しく説明するのが面倒で、そう言った。
「なーんだぁ」とがっかりした声をあげ、小波はその場に座り込んだ。その顔に目をやる。
化粧はしていないようだ。海斗が言うように、前より綺麗になったというか、生き生きしているように見える。
「お前、鳩葉に本気で行きたいの?」と訊くと、小波は僕に目線を合わせた。
「うん。行くの。佑と約束したから」
佑というのが、彼氏なのだろう。
「ねぇ航、あの女の子と付き合っちゃいなよ。そしたら、お互いいろいろ恋愛相談できるじゃん」
「はぁ? そんなの友達とやれよ」
「もちろん、友達にもするよ? でもさぁ、男の子の気持ちってわかんないじゃん。だから、航ならわかるかなぁって」
そう言って小波は、膝に顔を埋める。何か悩み事でもあるのだろうか。でも「何かあった?」と、聞く気にはなれなかった。
「そんなこと話してる間があるなら、勉強した方がいいんじゃない?」
小波が怒るのを覚悟してそう言うと、意外にも「そうだよね」と言って立ち上がり、僕の部屋から出て行った。
***
翌日、九時前に海岸の昨日と同じ場所に着いた。辺りを見回すも誰もいない。もしかして、比紗は来ないんじゃないかと不安になる。
そんなことを思っていた時だった。
「航太」と、背後から呼ばれた。比紗の声だ。ほっとして振り返る。
約束通り比紗は来てくれた。それだけで心が弾む。今日の比紗は、デニムにTシャツ姿だった。
昨日と同じように、話をしながら少し歩いた。比紗は姉と兄がいることを教えてくれた。
「お姉ちゃんは去年結婚したから、一緒に旅行は来てないんだけどね」と、話す。seasideに比紗が来た時、確か僕と同年代に見える男性がいた。
それが比紗の兄なのだろう。僕はその時、比紗の方が姉なのだと思っていた。それほど比紗は大人っぽかったのだ。
僕も妹と弟がいることを話した。二人とも生意気だということも。僕の話を聞いて比紗が笑う。その姿を見て嬉しくなる。
比紗が足を止める。そして、空を見上げて言った。
「すごい。星が綺麗」
僕も同じように空を見上げる。それは見慣れた夜空だった。都会では、こんな風に星は見えないのだろうかと思っていると、比紗は砂浜に座り、さらに仰向けに寝転がった。
僕は驚いた。髪や服が汚れるのではないかと。でも、比紗はそんなことを全く気にする様子なく
「ねぇ。航太もこうしてみて。すごいよ」
と言った。
***
砂浜に寝転がるなんて、いつぶりだろう。じゃりじゃりとした感触は、意外と不快ではなかった。比紗はさっきから両手を上げ、星を掴むかのように、グーパーと手を動かしている。
「プラネタリウムみたい」
そう言って、比紗が手を下ろした時だった。僕の右手に、その左手が当たった。暖かい手だった。比紗も驚いたのか、ぱっと離すのがわかった。
でも、その手の気配を近くに感じた。探るように右手を動かすと、すぐにその左手を見つけた。そっと握ってみる。
大胆なことができるもんだと、冷静に考える自分がいる。
すると、少し躊躇いながらではあるけれど、握り返してくれるのがわかった。僕達はそのまま、黙って星空を見上げた。