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031.『湯煙に浮かぶ思い出』

「気を付けてな、フレア」

「気を付けるも何もあっという間の旅路だわ。一週間くらいしたら迎えにくるから、それまでに支度を済ませておくのよ」

「ああ、分かった」

「またね、クゥロ。あたしが迎えにくるまでくたばるんじゃないわよ」


 別れ際にそう言い残し、フレアは隕石竜(メテオラ)と共に雲一つ無い空の彼方へと消えていった。その名を表すかのように星降る速度で空へと駆け上がった隕石竜は、歩いて十数日は掛かるであろう首都までの道のりを四半日程度で辿り着いてしまうらしい。


 冒険者としての生き方を捨てた十数年前のあの日は、実はそのくらい近い所に存在していた。その事実がクゥロには何とも可笑しい、可笑しいと思える心持ちだった。


「私もちゃんとお父さんとお母さんに伝えて、許して貰うからね。暫くは家の手伝いで忙しくなっちゃうかなぁ」

「ああ、後で俺もリズの家に顔出しに行くよ、大事な娘を預かる訳だからな」

「……ふふ、ちゃんと大事にしてね、お兄ちゃん?」


 リズはリズで、自分の両親の住む家へと帰っていった。クゥロを見つめるその瞳は迷い無く、真っ直ぐと先を見据えていた。


 ずっと自分の後ろを付いて歩いていたリズが自分のやりたい事を主張した、その事実が嬉しくもある。首都へ向かう旅が彼女にとって良い経験になる事を、クゥロはリズの去り行く背中を見て祈った。


「ねぇ、とーや」

「なんだい?」

「……私達、したい事があるの……」


 フレアもリズも去った帰路、いつものようにクゥロの手を取って挟むように歩くメアとリリーは上機嫌だった。


 鱗の生える指を絡ませ、ぎゅっとクゥロの手を離さないように握り締める。寒凪の日とはいえ、辺りに高く積もった雪の冷気で空気はきりりと冷たい。しかし繋いだ手の温もりをメアもリリーもしっかりと感じていた。


「首都に行ったら、なかなかとーやと一緒の時間が取れないでしょ? リリーと三人だけならまだしも、フレアさんもリズさんもいるし」

「……だからこの一週間、父さんにいっぱい甘えたいな、って……」

「なんだ、そんな事か。構わないよ」


 表情を輝かせて見上げてくるメアと、微かに微笑みながら見下ろしてくるリリー。愛しい娘であり、そして今までクゥロの命を支えてきた恩人でもある。


 二人の頼みならばどんな事でも叶えてあげたくなるのが父心というものだ。


「それなら早速一つお願いがあるの!」

「……父さん、忘れてるかもしれないから……」

「忘れてる? ……どんなお願いだい?」


 メアとリリーは顔を見合わせて笑うと、クゥロの腕を取って更に体を密着させた。おねだりをする時はいつもこうして甘えるように体を寄せてくる。


「とーや」

「父さん」

「「一緒に、お風呂入ろう!」」



 ◆◇◆◇



「とーや、入っても良い?」

「ああ、どうぞ」

「……お邪魔します……」


 広い浴室にしておいて良かったな、とクゥロは同じく広い浴槽の縁に腰掛けながら思った。勿論、こういう事態に備えていた訳では無いが、爬虫人類(リザードマン)である二人と大柄な人間一人の合計三人、少し狭さを感じるが風呂に入るならば問題の無い広さだった。


 からからと小気味良い音を立てて引き戸から入ってきたメアとリリーは、夏に川で泳ぐ為に買った水着を着用している。クゥロも膝の上まである水着を履いていた。幾ら家族とは言え、ここまで大きくなると一糸纏わずとは行かない。


 それでも傷だらけの、鍛えられたクゥロの身体を見てメアとリリーは胸の奥が熱くなるのを抑え切れなかった。


「ふふ、なんだかどきどきするわ」

「……へへ、緊張するね……」


 昔は一人で入るのは危ない、とクゥロも一緒にメアとリリーと風呂に入っていた。その時、クゥロは濡れてもいい服を着たまま二人が体を洗って湯船に浸かり、脱衣所で服に着替えるまで付き添ってから湯船に浸かっていた。


 二人の顔はほんのりと赤い。実際にこうしてクゥロと風呂に入るのは数年振りだ。


「さ、まずは頭を洗うと良い」

「リリー、座って良いわよ」

「……分かった……有難う、メア……」


 クゥロお手製の椅子は一つしか無い。メアは椅子をリリーに譲ると手桶にお湯を汲んでリリーの頭にかけてあげる。いつも一人で風呂に入っている為、新鮮な気持ちだった。


「とーやは?」

「俺は後でにしようか」


 リリーが石鹸を泡立てる間にメアも自分でお湯を被って髪を濡らすと、使い終わった石鹸を受け取る。同じように掌を擦り合わせて泡立てようとし、ふと思い立ってクゥロへと石鹸を差し出した。


「うん? メア、先に使いなさい」

「違うの! とーや、昔みたいに私の頭、洗って?」


 上目遣いで頼むメアの姿にクゥロは昔の事を思い出す。


 まだ人間の姿に成り立ての幼い頃、石鹸が目に染みるからと、クゥロがメアの頭を洗い終えるまでぎゅっと目を瞑って我慢していた。泡を全て洗い流すときらきらとした赤い瞳で見上げて嬉しそうにしていた。


 その赤い瞳の輝きは今も変わらない。ふっと懐かしさに口元が緩む。折角だからとことん甘やかしてやろう、そんな気になった。


「仕方ないな、甘えん坊さんめ」

「えへへ、久し振りにとーやとお風呂に入るんだもん。いいでしょ?」


 浴槽の縁に腰掛けたまま、クゥロはお湯を少し手に取ると石鹸と合わせて泡立て、メアの赤い髪にそっと触れる。


 普段は頭の後ろで縛っているが、解くと肩口の辺りまで広がるメアの赤髪。少し癖はあるものの指通りは良い。泡に塗れた手を髪の隙間に差し込むと、しゃかしゃかと優しく掻く。


「ふわぁ……あんっ」


 メアの瞳がとろんと蕩ける。


 太い指が髪を掻き分け、頭皮を擦る感覚に堪らず声を上げる。自分で洗うよりも丁寧に、根本から髪の先まで洗われるのがむず痒いような、大事に扱われて嬉しい気持ちになる。


「とーやぁ、気持ちいいの」

「父さん……私も、私も……!」

「はいはい」


 既に石鹸で自分の髪を洗ってしまったリリーは羨ましそうな目でクゥロを見ている。手桶に組んだお湯でメアの泡を流すとリリーの後ろに立ち、中和剤(リンス)の入った小瓶を手に取る。少しとろみのついた液体は花の香りがした。


「へへ……有難う、父さん……」

「綺麗な髪だな、リリーは」

「父さんに褒められるの……嬉しい……」


 リリーの青みがかった黒髪は腰の辺りまで伸びているが、まるで絹糸のように滑らかだ。


 メアの少し癖のある髪が動物を撫でた時のように触って楽しくなる髪ならば、リリーの真っ直ぐとした柔らかな髪は触ったらずっと撫でていたくなる、そういう触感に訴え掛けてくるような髪だ。


「あっ……んっ」


 滑る指が何度か背中に触れるとその度にぞくぞくとした感覚がリリーを襲い、小さく息を漏らす。クゥロがわざとやっている訳では無いが、皮膚一枚だけを擦るクゥロの指の感触は何とももどかしい。


 そんなリリーの葛藤は露程にも知らず、呑気にざばぁ、とお湯を掛けるクゥロ。流し過ぎないのがポイントなのだとリリーが昔に言ってた事を忘れない。


「よし、ちゃんと洗えたな。それじゃ二人とも、体を洗って先に湯船に浸かるといい」


 満足げなクゥロは自分の頭を洗おうと石鹸に手を伸ばすが、触れる前にメアが木皿ごと石鹸を奪った。


「駄目よ、次はとーやの番だわ!」

「……私達も、父さんの頭、洗いたい……」


 リリーも中和剤の瓶を抱え込んで離さない。楽しげな笑みを浮かべるメアとリリーに、クゥロもふっと肩の力を抜いた。


「それじゃ、頼んだ」


 リリーが退いた椅子にクゥロは腰掛けると、すぐさまリリーが汲んだお湯を掛けてくれた。そのまま流れるように石鹸を泡立てたメアがクゥロの髪に触れる。


「えへへ、どう、とーや?」

「ああ、上手だよ」


 クゥロの短い黒髪は太くしっかりとした触り心地で、軽く指を動かすだけでしっかりと泡立つ。


 普段は見上げているクゥロが自分よりも下にいる、その事が何だかメアには嬉しくて、口元が緩むのを抑え切れない。


 此処ぞとばかりに自分よりも大きな耳の後ろや、がっしりとした首筋も満遍なく触って堪能する。クゥロはくすぐったそうに微かに身動ぎしたが、何も言わない。


「ふふふ、とーやが可愛いわ」

「こらこら」

「ねぇ、もーっと甘えてもいいのよ、とーやぁ?」


 ご機嫌なメアは甘い声で囁く。クゥロの世話を焼く事が楽しくてしょうがない。もこもこと泡まみれになった髪の先を立てて遊ぶメアにクゥロはされるがままで、メアの横でリリーは待ち切れない様子で立っていた。


「メア、早く……次は私の番……」

「分かってるわ、リリー」


 メアが名残惜しそうにクゥロの頭を洗い流すと、待ってましたとばかりにリリーが中和剤を手に取ってクゥロの背後に立ち、髪に触れる。


「父さんの髪の毛……羊さんみたい……」

「そうか? そんなに上等な物でもないとは思うが」

「ううん……ずっと触ってたくなる……」


 クゥロは目を瞑り、肩の力もすっかり抜けている。リリーのする事に身を委ねてくれる。


 普段もリリーは、寝ているクゥロの頭を抱え込んで撫でているが、その度に何とも言えない嬉しさが込み上げてきて、幸せな気持ちになる。


 頭に触れさせてくれるというのは親愛の証だ。そう思うと愛しさが溢れて止まらなかった。


「父さん……よしよし……」

「リリーまで、あんまりからかわないでくれ」

「ふふ……父さん、可愛い……」


 娘二人に幼子のように扱われてクゥロは苦笑するが、悪い気分では無かった。


 中和剤を洗い流し、手早く体を洗うと、三人は一緒に湯船へと身を沈めた。


 先にリリーが入り、その後に背中を抱き抱えられるようにクゥロが、そしてクゥロを正面から抱き締めるようにメアが入る。いつも寝る時と同じ格好だ。


 三人で入ると風呂の湯が勢い良く浴槽から溢れ、それすらも可笑しくて笑ってしまった。


「ふぅ」

「良い気持ちだわ」

「……あったかい……」


 ふと静寂が訪れる。


 三人とも湯船の暖かさに身を委ね、そして互いの体温と鼓動を感じる。ただ静かに、湯船の熱がじわじわと身体の芯まで暖めてくれるのを待つ。じっくりと頭の天辺から爪先まで充足感に包まれる。


「とーや。フレアさんの言っていた"生態変化(メタモルフォーゼ)"っていうののお陰で、私やリリーが今の姿になっているのよね?」

「ああ。フレアの話では自分の望むままに望む姿に変える力、という話だが……それがどうしたんだい?」

「その"生態変化"をもーっと極めたら、手足の先まで人間の姿になれるのかしら?」


 メアは自分の両腕をざばっと湯船から出して見る肩の辺りから肌色と赤色が混ざったような色をしており、そこから先は完全に赤色の鱗で覆われていた。クゥロはそれを綺麗だと思っているが、メアはどうにも不満らしい。


「とーやみたいになりたいなぁ、私。腕も脚も、ちゃんとした人間に」


 ぽつりと呟いたメアの言葉に、少しばかり陰が差していた。いつも前向きで溌剌としているメアの、心に秘めていた思い。


 "生態変化"が自身の望む姿に変わっていく性質を持っているのならば、いつか叶うかもしれない。それを知ってしまったメアが人間になりたいと望むのも無理は無い事だ。


 それでも、とリリーは思った。それでも。


「メア……無理に父さんみたいにならなくても……良いと思うな、私」

「リリー? どうして? 」

「だって父さんは……どんな姿でも、どんな姿になったとしても……私達の事、好きだと思うから」


 リリーも右腕を水面から出して、その青い鱗に覆われた薬指に嵌められた指輪を見る。竜宝玉が飾られたその白い指輪はリリーの青い指によく映えた。そしてメアの赤い指にも。


「だって私とメアは……どんな姿になってもずっと父さんが好きだし……ずっと一緒にいるもん。父さんも……そうでしょ?」


 リリーは変わっていく事の恐れをクゥロに吐露した時の事を覚えている。その時にクゥロは、どんなに姿になろうと大好きだと言ってくれた。


 その言葉にどれだけ救われた事か分からない。だからメアにもお裾分け。


「ああ、リリーの言う通りだよ」


 応えるようにクゥロは、娘達の指に自身の指を絡ませる。しっかりとした硬質な鱗の感触を指の間に感じる。それがおかしいとか変だなどと考えた事は一度として無かった。


「お父さんの娘はメアとリリーだ、それは二人が何者であろうと、どうなろうと変わらない。だからメア、焦らなくても良いさ」

「……うん、有難う、とーや、リリー。気ばかり急いてたかもしれないわ」


 メアの手は、何度もクゥロの手を握り返してくる。クゥロが側に居る事を確認するように、そしてメアが側に居る事を伝えるように。


「いきなり色んな事を知ってしまったからな、仕方ないさ」

「父さんの事、私達の事……頭から火が出そう……」

「難しい話ばっかりだったわ、でもとーやの昔の事を知れて嬉しかったの! 時々昔の話をしてくれたけど、大事な事は話してくれなかったんだもん」

「……父さん、やっぱり凄かった……」


 気付けばいつものメアの調子に戻っていた。嬉しそうに身体が動き、それに合わせて水面が揺れる。リリーもそんなメアの姿を見て柔らかく微笑んでいる。


「うー、とーやとの旅行、楽しみになってきたわ! 首都ってどんな所なのかしら?」

「お父さんも十数年振りだから、大分様変わりしてるだろうな。メアとリリーと歩けると思うと楽しみだよ」

「沢山人がいる、って聞いたけど……本当……?」

「歩く度に人とすれ違うくらいにいるよ。リリーはびっくりしてしまうかもしれないな」

「そんなに人がいるの? 目が回っちゃいそう!」

「……父さんから……離れないようにしないと」


 メアとリリーの弾む声が浴室に響く。湯船に浸かり、楽しげに話す二人を見ているとふと昔の事を思い出す。


 クゥロが幼い頃、まだ元気だった母と風呂に入った事があった。


 メアやリリーがしたように母の頭を洗う手伝いをしたり、一緒に湯船に浸かったり。もう顔も朧げにしか覚えていない母だが、確かにその顔は微笑んでいた。その慈愛に満ちた瞳だけは忘れられない。


 きっと今の自分と同じ気持ちだったのだろうか。


 満たされた気持ちで、クゥロは湯船が温くなるまで二人の話を楽しげに聞いていた。

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