018.『手の中にあるもの』
現役時代の装備を見に纏うと、クゥロは冒険に明け暮れていた若かり日に一瞬戻ったような感覚を感じた。
締め付けられる足甲の革ベルト、左手に握られた狩猟用投石器具、重さを感じない大嵐龍の鎧。唯一、左腰に下げた片手剣だけが当時のクゥロが身に付けていたものではないが、その片手剣の本来の持ち主と共に駆け抜けた事は間違いない。
様々な冒険に挑み、引退をすると決意したその瞬間までクゥロと共に在った装備達は戦友とも言える。
久方振りに着けた装備は、まるであの頃と同じように違和感無く馴染んでいた。
「……思ったよりすんなり着込めて良かったな」
過ぎて行った歳月の無情さに、正直に言えばお腹周りなどで悩まされるかと思ったが、それが杞憂に過ぎてクゥロは今が緊迫した状況だというのに安堵した。
「さて」
気持ちを切り替えて見上げると、今まさに火翼竜がゆっくりと此方に降りてくるのが見えた。太い後脚を地面へと伸ばし、前脚は無く、代わりに両の翼を生やしている。その両翼が羽ばたく度にその風圧で黒沼竜の長外套が激しくはためく。
どうやら火翼竜はクゥロに気付いてくれたようだ。もしそのまま牧場に向かう素振りを見せたら撃ち落とす事も考えていたが、火翼竜はクゥロに釣られてくれた。
獣達を操っていた所からある程度の知能を持っているとクゥロは判断していた。そしてそういう奴は自分の力に酔い、相手を圧倒的な実力で押し潰す事に快感を覚える事も。
本来ならこの火翼竜一匹で十分なのだ。大規模な街ならばいざ知らず、こんな最果ての北の村一つを滅ぼすのに竜という存在は過剰なぐらいだ。
それなのに、火翼竜はそうしなかった。魔力を込めた竜咆哮と、それによって引き起こされる状態異常、竜恐慌で精神を支配した獣達を従えて襲わせた。それは例えるなら、小鬼の群れを駆除するのに軍隊を派遣するようなものだ。
それを踏まえてクゥロは二つ、仮説を立てた。
一つは、その恵まれた生まれに驕る事なく、冷静に事に当たる慎重で臆病なタイプ。一度人間に痛い目を合わされた、経験豊富な竜に多い。
もしこのタイプが相手だったら、もっと警戒をしなければならないと思っていた。そういう手合いは、劣勢の陰りや予想外の事が起こるとまず間違い無く逃げの一手を打つ。
そうなると例えこの場は追い払えても、万全の準備をして再度襲撃してくる時がある。危険を感じてその土地を離れる事もあるが、それが確認出来るまでは怯えて暮らさなければならない。
しかしもしこの目の前の火翼竜がそのタイプだとしたら、わざわざ一人だけで向かってきたクゥロの元へと降下しない筈だ。
今、村人達は獣達に包囲されている、後はその場に火翼竜が加わればそれでこの村は終わりだ。
だからこの火翼竜はもう一つのタイプだ、とクゥロは確信する。
自身の絶対的な力に驕り、全ての存在を見下し、そして慢心するタイプ。それだけの力があり、そして高い知能があるからこそ、このタイプは害悪だ。
今から行われようとしている行為は命を繋ぐ為の狩りでは無い、ただの遊びなのだ。強者の戯れと言おうか、効率を敢えて求めず、その過程で自分がどれだけ楽しめるかを追い求める。
現に、目の前の火翼竜は獣達に襲わせた後、悠然と大空を飛んでいた。ちっぽけな人間という種族が、火翼竜の姿に怯える様をじっくりと観察するように。
そして今なお、そのスタンスを崩さずにクゥロの前へと降り立った。牙を剥き出しに、上から見下ろすその歪んだ顔は笑っているようにすら見えた。
「お前の暇潰しで、この村を壊されてたまるか」
一抹の不安は、ある。それは火翼竜に対する事では無く、自身の体調に起因するものだ。
冒険者として走り続けていたクゥロが、冒険者という生き方を辞めなければならなかった原因は未だにクゥロの身体に巣くい、そして忘れたくても忘れられない記憶として今なお引きずっている。
それでもクゥロは、火翼竜と戦う事を選んだのだ。自分を鼓舞するように、溶岩妖猟犬の革手袋越しに狩猟用投石器具の握りをぎゅっと握り締めた。
「さぁ、かかってこい」
火翼竜の大きな体躯に怯える事無く、クゥロはゆっくりと構えた。呼吸を整え、体内に魔力を循環させる。
魔力とは不可視のエネルギーだ。それは身体を通常よりも早く強く動かす動力にもなるし、外へと向けて放出する事で様々な奇跡を起こす事が出来る。
クゥロが真っ直ぐに駆け出すと火翼竜は太い後脚で身体を支え、威嚇するように立ち上がった。前脚の代わりとなる翼脚には鋭い爪が生えており、近付いてきたクゥロに覆い被さろうとしてきた。
そんな大振りな攻撃など通じる訳も無く、回避しながら側面に回り込む。
腰に備えたポーチの一つを開け、中から金属の球を幾つか取り出すと一つを狩猟用投石器具の紐に番え、ゆっくりと引き絞った。
大鯨の髭で出来た紐は強力な弾性を持つ。
筋力が必要にはなるが、その分、放たれる弾の威力は凄まじい。
左腕を前に突き出し、狙いを定めて射出。重い金属で作られた金属球は勢い良く、紐の風切り音を立てながら火翼竜へと向かい、その後脚に鈍い音を立てて着弾した。
黒い金属球は赤黒い鱗を削り、減り込むも途中で進みを止めてしまう。人の身体を容易に貫通してしまいそうな勢いの込められた射撃は、鱗一枚に難無く止められてしまっていた。
「やはり、硬いな」
予め結果が分かっていた風に、クゥロは駆けながら弾を番え、二度、三度と狙い撃つ。
比較的柔らかいとされるお腹、背中、そして胸。しかし何度撃ち込んだ所で鱗を貫く事は無く、火翼竜の動きを止める事は出来ない。
火翼竜はクゥロの放つ弾が自分を何ら傷付ける事は無いと理解すると、実に大雑把に動き、尻尾を払う。当たれば家でさえ倒壊してしまう力が込められた尻尾の薙ぎ払いがほんのりと雪の積もった地面を抉り、辺りを更地にする。
恐れる事など何も無い、ただの一方的な暴力の行使を火翼竜は堪能していた。
「"水球"」
唱えたクゥロの眼前に、大きな水の塊が生成される。人を丸々飲み込んでしまいそうな程の大きさの水球だが、火翼竜からして見れば後ろ足で踏み潰せる程の大きさでしか無い。
その重量を持って相手を打ち据える水の塊が火翼竜へと放たれる。激しい水飛沫を上げるが、火翼竜は揺らぎもしない。クゥロは当たれば無事では済まない攻撃を避けながら水球を撃ち込むが、先程の狩猟用投石器具同様、火翼竜は何の痛痒も感じていないようだった。ただひたすらに火翼竜の身体と、辺り一面を水で濡らしただけだ。
火翼竜は笑っていた。可笑しくて堪らなかった。立ち向かってきた相手があまりにも脆弱過ぎて。それは自分の強さを際立てさせるだけの事で、気を大きくさせた。蟻が掌で必死にもがくように、今目の前の人間も必死に生きようともがいているのだろう。
まだ若い火翼竜は他者の生死を自由に出来るというだけで楽しかった。これがもっと歳を重ねれば、道端の蟻を気付かず踏み潰すような無感動へと変わっていくのかも知れなかったが、今の火翼竜は非常に愉快な気持ちだった。
自らの命を脅かされる事無く、相手の命の生殺与奪を握っている、そんな催し物だった。
実際にクゥロの"水球"の威力は高くは無かった。普通の人間がまともに喰らえば体勢を大きく崩す事もあるかも知れないが、その身に宿した膨大な魔力を無意識の内に全身へと巡らせている火翼竜にとって、ただの水浴びに過ぎない。
「そろそろいいか」
そしてそれは、クゥロ自身がよく分かっていた。
彼は初歩的な魔法は幅広く使えるが、本職には劣る。彼は魔法適性を持っているだけで、純粋な魔導師では無いのだ。
「これも、残り少なくなってしまったな」
違うポーチから取り出したのは、無色透明の水晶球だった。先程の黒い金属球よりも一回り小さいそれは、見る人が見ればすぐにある事が分かる。
少し距離を取ったクゥロは、その水晶球を紐に番えた。ゆっくりと息を吸い、体の奥から魔力を紡ぎ出す。その魔力は黒鉄製の取手を伝って、何の抵抗も無く大鯨の髭へと流れ、水晶球へと注ぎ込まれる。
クゥロの魔力に反応して白く輝く水晶の弾丸を見て、火翼竜はまたもや無駄な事を、と鼻で笑う。その狩猟用投石器具で撃ち出される金属球も、クゥロが唱えた水球も火翼竜に傷一つ負わせる事は出来なかった。
どうせ今度も同じだ、と火翼竜は慢心していた。構えたクゥロに向かって翼を広げ、ゆっくりと歩みを進める。
「"氷点降下"」
そしてその油断こそ、クゥロが求めていたものだった。
放たれた水晶球は、今まさに油断し切っていた火翼竜の後脚へと当たるとその込められていた魔力を解放する。
着弾した後脚を中心に、凄まじい勢いで凍り付く。辺りの水分を吸い込むように丸太のような太い後脚の鱗ごと分厚い氷が覆い、大地と火翼竜を氷の鎖で繋ぎ止める。
火翼竜の顔が、初めて驚愕に歪む。
自慢の筋力で氷の束縛から逃れようとするが、両脚から上半身の半分近くまでを覆った氷はすぐに解ける気配は無い。もがくように翼脚をはためかせる。
「どうだ、師匠の魔力は凄いだろう?」
ふっと、クゥロが自慢げに笑う。
クゥロの持っていた透明な水晶球は高純度の魔力がたっぷりと込められている、一種の魔法道具だった。彼はその水晶球を媒介にして、より高威力の魔法を行使する事が出来る。
それが、彼の苦手な水属性の魔法であったとしても。
「流石のお前も、すぐには動けないだろう? たんまりと水も撒いておいたからな」
火翼竜の体表から辺り一面に飛び散った"水球"の名残が"氷点降下"の影響で凍り付く事で更なる拘束を火翼竜に与えていた。
蟻の無力な足掻きでは無かったのだ。鱗も貫けない黒い金属球も、怯ませる事すら出来ない"水球"も、本命である透明の水晶球を直撃させる為の布石に過ぎなかった。
「悪いが、切らせてもらう」
クゥロは吊るした片手剣を引き抜くと、未だに体を満足に動かせない火翼竜へと迫る。
近寄るクゥロを迎撃するべく火翼竜は首を伸ばし、その一つ一つが鋭利な牙を剥き出しにして噛み付こうとするが、クゥロは滑るように回避し、火翼竜の体表に張った氷を階段代わりに駆け上がる。
「せいっ」
そしてクゥロは片翼脚の付け根目掛け、大きく片手剣を振るった。
その剣が触れる瞬間まで、火翼竜はまだ何処かで余裕があった。今まで、どの人間の攻撃も通さなかった体だ。凍らせられて非常に不愉快ではあるものの、ダメージとしてはほぼ皆無だ。もう、戯れはおしまいだ。
そんな余裕が吹き飛んだのは、クゥロの一刀の元に片翼脚が半ばまで切り落とされた後だった。
今まで体験した事の無い痛みが火翼竜を襲う。身体が反射で暴れ出すがそれすら氷に阻まれる。辛うじて繋がっている程度の片翼の傷口から吹き出した血が、真っ白な地面を染める。
「これで、もう飛べないな」
鱗を蹴って飛び上がり、見事に着地したクゥロは改めて火翼竜と向かい合う。火翼竜の翼を断った片手剣を眼前に構えて。
この片手剣は、クゥロと共に旅をしていた冒険者の物だ。クゥロが然るべき事情で冒険者を辞める際、餞別として贈ったものだ。元々何の力も持っていない片手剣だったが度重なる冒険を経て、或る力が宿った。
幾度も竜の鱗を切り、肉を断ち、血を吸ったが故の変質。
竜に宿る魔力を、恨みをその刀身に受け続けた故の昇華。
竜を屠る事に特化した、竜殺しへと進化したのだった。
「あいつには感謝しないとな」
こういう事態を想定したという訳では無いのだろうが、十年以上前に手渡されたこの片手剣が今日、クゥロの手に握られているのは事実だ。竜殺しと名付けられたの剣の運命とも言えるかもしれない。
火翼竜は吼えた。痛みに喘ぎ、そしてこれ以上無いという程の憎しみを込めて。絶対に殺してやる、という憤怒が込められた竜咆哮は今までで一番に大きく、辺りの空気が殺意で歪んだようにすら感じられた。
流石のクゥロも体内の魔力を活性化させて抵抗するので精一杯だった。気を抜くと膝が震えてしまいそうになるのを必死に耐える。
長い咆哮を終えた火翼竜からは濃密な魔力が放出されていた。その噴き出た魔力がまるで引火したように激しく燃え盛る。
大柄な火翼竜の全身を包み込んだ炎は拘束していた氷を溶かし、束縛から解放する。
「"自防爆炎"か、追い込まれて目覚めたか」
炎を身に纏った火翼竜を見て、先に翼を切っておいて良かった、とクゥロは思った。
もし火力だけで押し切ろうとし、それで倒し切れず手負いになった後に両翼が無事な火翼竜がどのような行動を取るか分からなかった。
飛んで逃げるだけ、ならまだ良い。問題はそのまま牧場へ襲撃されたらひとたまりも無い。自身が万全の状態ならまだしももし手傷を負っていたら、と考えると、先程のような回りくどい手段を取らざるを得なかった。
常に最悪な状況を考えて、最善の行動を取る、というのがクゥロが冒険者として学んだ一番大事な事だ。
「見逃す気は無い、娘達の為にも」
先程の咆哮の影響か、遠く牧場の辺りから獣達の叫び声が強くなったのをクゥロは感じた。このまま長引かせて村の人達を、そして愛しい娘であるメアとリリーを危険に晒す事は出来ない。
「……行くぞ、ドラゴン」
顔を歪ませ烈火の如く怒り狂う火翼竜を前にしたクゥロの横顔は、命を賭して使命の為に戦う戦士のようにも、命を懸けて愛する子供を護ろうとする父親のようにも見えた。




