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王の剣士[2022年8月完結]

王の剣士 intermission4.5

作者: 雅

 新年を明後日に控えた慌しさの中、近衛師団第一大隊の執務室は午後の穏やかな日差しに満ちていながら、午前中に幕を閉じたばかりの事件の報告書作りに追われていた。

 西海の三の鉾ビュルゲルがファルシオンを攫ったこの大事件を改めて振り返ると、まずは無事にファルシオンが戻った事への安堵が込み上げる。

 ただ任務が終わったからと言って、それで肩を叩き合って一件落着、にできるほど現実は、そして組織と言うものは甘くはない。

 必ず付いて回るのが事後処理――報告書の作成と提出だ。任務や事件と直接向き合い解決する事と同じくらい、事後処理は大きな比重を占めている。

 こうした文書処理上一番頼りになるロットバルトは南方のヴェルナー家の所領へ行っていて、明日の遅くにならないと戻って来ない。レオアリスとグランスレイと中将達は、今回の事件が非常に複雑な要素を持っているせいもあり、ああでもないこうでもないと書面と首っ引きの状態だった。

 特に居城の庭園の事件以降の書きぶりに唸っていたレオアリスは、ある地点に差し掛かってふと顔を上げた。アルジマールが法陣を布いた辺りだ。

「そうだ、早いとこ法術院のアルジマールに挨拶に行かないとな」

 グランスレイも手元の書類から目を上げて頷く。

「そうですな、早い方がいい。行かれるならクライフを同行させましょう」

 自分の名前が出た事に、クライフは意外そうな顔をして、寄りかかっていた椅子の背もたれから身を起こした。先ほどから口に筆の柄を喰わえて、手元の書類は白い。

「俺ですか? 珍しいっすね、俺を指名なんて」

 確かに挨拶と名の付くものにグランスレイやロットバルト以外を同行させる場合、クライフの名前が真っ先に最初に挙がるのは珍しい。

 ヴィルトールは何やらからかう言葉を思いついて、にやりと笑った。

「どうせ書類は最終的にロットバルトに纏めてもらわなければ出せないしね。奴が明日帰って来て、そこから容赦なく大幅修正が入るだろうから今あまり煮詰めても仕方ないし、クライフはいてもいなくても。というよりむしろいなくても」

「んだとぅ」

 とはいえ報告書など苦手――いや、大嫌いなクライフはこれ幸いと立ち上がった。

「んじゃ、今の内に行きますか。上将が腹かっさばかれそうになったら俺が何とかしてきます」

「言うな。怖い」

 レオアリスは執務机を離れて外套をはおりながら、()の院長の、(かず)きの下に隠れてまだ見た事の無い顔を思い浮かべ、ぶるりと身を震わせた。

 ただ、複雑で気の重い書類からひと時なりと逃れられるのはやはり有り難い。レオアリスもクライフも、少し晴れやかな顔で執務室の外に出て行った。

 扉が閉ざされた後で、ヴィルトールが笑みを浮かべる。

「怖いのはアルジマール院長だけじゃないと思うけどねぇ」

 そう言いながら、手元の便箋に何やらさらさらと書き綴り、それを丁寧に折りたたんだ。フレイザーが目を止めて首を傾げる。

「何? それ」

「いや、一応救済措置を取っておこうと思ってね。それに、これも早い方がいいだろう?」

 フレイザーは折りたたまれた便箋を開いて覗き込み、苦笑を浮かべた。

「そうね」

 便箋を封筒に入れると、ヴィルトールはそれを持って執務室の扉を開け、事務官のウィンレットを呼んで彼に手渡した。




 王城の敷地内に建つ法術院は、晴れた陽射しを一身に受けているにも関わらず、相変わらず全体的に怪しげな雰囲気を漂わせている。尤も、これから尋ねていく人物の印象が大きく影響しているのかもしれないが。

 取り敢えずアルジマールへの面会を求めると、すぐに彼の研究室へ通された。

 アルジマールは部屋にいて、二人が入ったと同時に明るい声がかけられた。

「ああ、良く来てくれたね大将殿。そこ座って」

 ちょうど隣室から出てきたところで、後ろ手で閉ざしかけた扉から一瞬得体の知れない匂いが漂った。

 扉はきちんと閉まりきらずに、ききぃ、と音を立てて半分くらいまで開き、窓を日除け布で覆っているのか、昼なお薄暗い隣室が半分ほど覗いている。

 扉の奥へ視線を向けたレオアリスに気付き、アルジマールは被きの下から見える口元だけでにっこりと微笑んだ。

「君が来たって言うから、ちょっと準備をね」

(何の?!)

 とは怖くて聞けない。聞きたくない。

 レオアリスとクライフは少し怯えた視線を交わし合ってから、長椅子に座ってアルジマールと向かい合った。

 背の低いアルジマールと正面から向き合うと、子供と向き合っているように感じる。雰囲気もそうだ。

 法術院第十代院長。年齢不詳。院長に就任したのは三十年ほど前で、おそらくその術の知識量から、それ以上に長い時を過ごしているだろうと思われるが、はっきり聞いた事が無い。

 それはともかく、まずは西海の使隷に関するアルジマールの分析と、彼の敷いた転位陣に対する礼を述べる為に、レオアリスは背筋を伸ばし、深々と頭を下げた。

 次にすべきは――、素早い撤収に尽きる。

「この度はご尽力ありがとうございました。急かしてしまいましたが、お陰で殿下を無事お救いできました。改めてお礼申し上げます」

「いいよ、楽しかったから。でもどうせなら君、三の戟を連れて来てくれれば良かったのになぁ。こんないい機会は滅多に無いよ」

「はは……」

 アルジマールが何を希望しているのか、想像するのは恐ろしい。

 アルジマールは知識欲の充足を第一、いや唯一無二と考える、典型的な――時折一般人にははた迷惑な――法術士なのだ。それも代表格も代表格だ。

 西海の件を残念そうに諦めた傍から、もう既に別件で瞳を光らせている。

「それはそうと、君はそのうち僕の研究に協力してくれる気はあるのかなぁ。お腹に剣があるって特殊だよねぇ」

「いや、それは」

 レオアリスはアルジマールの座る長椅子の向こうにある扉へ、素早く視線を走らせた。

 長椅子の位置からだとちょうど、半開きになった扉の奥に、何やら解剖台のようなものが見える。

 壁には銀色の解剖用器具と、液体に漬けられた見た事もない生物の瓶。

 怖い。

 青ざめてひきつった笑いを浮かべたレオアリスへ、いや、レオアリスの鳩尾の辺りへ、アルジマールは熱の籠もった眼差しを向けている。

「興味あるんだよなぁ~うふふ」

「そ、そうですか? はははは」

 忍び寄るような笑いと虚ろな笑いが室内に踊る。クライフはこっそりレオアリスの脇腹を肘でつついた。

「上将」

「あっ用事思い出した! それじゃ俺はこれで。いやほんとに有難うございました、また改めて」

 レオアリスは被害が及ぶ前に速攻で撤退を図ったが、アルジマールの次の言葉に引き止められた。

「剣士って種族については、まだあんまり判ってないんだ。種としての数が少ないし、一番の理由は組織に属さないせいだよね。今判ってる事で言えば――」

 レオアリスが釣り込まれて興味深そうな顔をしたのを認め、アルジマールはにやりと笑った。

「推定のものもあるけど」

 と断りを入れ、講堂で教鞭を取るようについ、と顎を上げる。

「第一に、体の一部、主に腕のどちらかを剣に変化させる。これが剣士たる由縁であり、条件だ」

 レオアリスは長椅子に座り直し、クライフも法術院長が何を言うのか興味を覚えたようで、取り敢えずは様子見と浅く腰掛けた。

「それから法術に依らない長命種である事。長命種の種族は他にもいるけど、戦闘種は独特でね、その寿命の大半は、十代後半から二十代後半までの肉体を保つ。これは気力体力の充実する、最も戦闘に適した期間を維持する為と考えられる。個体によって時期に多少の差異があるかもしれない」

 個体、と呟いてレオアリスは苦笑した。アルジマールの頭の中では完全に研究対象なのだろう。

「バインドは二十代後半に見えたが、君の父上は二十代前半くらいだったらしいし」

「――父さんが……」

 それは微かな呟きだったが、クライフは右隣に座っているレオアリスの横顔と、その瞳に浮かんだ光を見て、改めて長椅子に身体を預けた。

 クライフは全貌を掴んでいる訳ではないが、今回の事件の中で、それがおそらくレオアリスの最も根底にあった感情だろうと、そう思う。

「それで、これも戦い続ける為だろうが、治癒能力が非常に高い。戦闘種の中では剣士が群を抜いているんだが、それは剣が顕現している場合と思われる。通常なら死に至る外傷も短時間で治癒するが、例えば寸断されれば再生しない事は君が証明したね」

 アルジマールはバインドの腕をレオアリスの剣光が断った事を言っているのだ。

 レオアリスは少し複雑な面持ちをして、バインドという名を口の中で繰り返した。

 その名をただの記憶として思い出すには、あの件は未だレオアリスの中で明確な質感を持っている。

 そして、初めて会った同じ剣士に対する、一言では言えない感情もある。

 そのお陰とは言いたくはないが、バインドの出現によって得た物は事実少なくはない。

 例えばバインドが見せた戦いへの飽くなき渇望は、レオアリスが剣士という種の一つの姿を理解する為のきっかけになった。

 それは確実に自らの剣も内包する、もう一つの姿だ。

 レオアリスもまたバインドのようにならないとは限らず、だからこそ目を逸らさずに自らの警告としなければいけないものだ。

「――逆に剣を失っても再生する事はバインドが証明した」

 アルジマールはそこで一旦口をつぐみ、今度は立ち上がって室内をぐるぐる回りだした。思考の興が乗った時の、彼の癖なのだろう。

「それでね、推察するに、剣士という種族が少ない理由としては、戦闘により命を落とす者が多い事に加えて、戦いを本能としているが故に種の保存本能が薄い為とも考えられるんだ。どう?」

 唐突に振られて、自分の思いに沈んでいたレオアリスは、アルジマールの姿を探して首を巡らせた。アルジマールはレオアリス達の長椅子の後ろに立ち止まっている。

 レオアリスの様子にアルジマールは唇を尖らせた。

「聞いてなかったな? 剣士が少ない理由だよ。戦闘本能と種の保存本能が反比例するんじゃないかって僕は思ってるんだ。どう思う?」

「どうって、さあ……そうなのかな」

 祖父カイルから聞いた一族の話では、確かにレオアリスは久方ぶりに生まれる子供なのだと言っていた。

 それを言うとアルジマールは少し得意気に唇を弛め、また長椅子の周りを回り出した。

「うんうん。それからもう一つの大きな理由としては、これが最も興味深いところなんだが、剣士と言っても初めから剣を扱える訳ではなく、生まれた時に一旦剣を封じられる。そこで重要な役割を果たすのが同族だ」

「役割?」

「そう。そしてこれは、剣士という種族にとって最大の問題でもある」

 アルジマールはレオアリスの顔を伺うようにその右側で足を止めた。

「剣を封じるのは同じ剣士だけど、その封じ手がいない場合、成長する前に剣の力に耐え切れず命を落とす確率が高い。成長しても精神に耐性がなければ剣の力に呑まれるという」

 レオアリスはどことなく驚いた表情でアルジマールを見つめた。

 アルジマールがそれを知っているのに驚いた事もあるが、何より祖父、カイルが話してくれた事と同じだったからだ。

 カイルはジンから――レオアリスの父からそれを聞いた。

「僕らが実例として嫌というほど知ってるのがバインドだよ。まさに剣に呑まれた。多分奴は自ら望んで剣に呑まれたんじゃないかな」

 アルジマールの声は意識の外側でまだ続いている。

 剣を、封じる。

(そうだ……)

 だから彼は、バインドとの戦いの最中、生まれたばかりのレオアリスの剣を封じる為に――剣の力を目の前のバインドから逸らし、レオアリスに向けたのだ。

 そしてあの炎の中で、剣光がバインドの腕を断った時、レオアリスを守るように――(とど)めるように覆い被さった誰かの、朧気な記憶――。

 もし、と言葉が浮かびそうになり、レオアリスは慌ててそれを打ち消した。

 色んな「もし」がある。

 誰にだって。

 その代わり鳩尾に手を当てれば、確かな剣の存在を感じられた。

 レオアリスが受け継いだものだ。

「そして、剣に呑まれた剣士は、同じ剣士によって倒される。両刃の(つるぎ)という言葉は、彼等の為にあるみたいだ」

「院長ぉー」

 クライフがのんびりした口調ながらも、低い声でアルジマールを呼んだ。

 クライフの瞳に咎める色があるのを見て、さすがにアルジマールも口を閉ざし、気まずそうな顔でレオアリスを見つめた。

 レオアリスは手元に視線を落としていたが、アルジマールが黙った事に気付いて顔を上げ、彼の微妙な表情に可笑しそうに笑った。

「――全く、聞けば聞くほど面倒な種族ですね。剣なんか持ってるなら、ガキの頃から耐性を持つべきだ」

「――ちょっと配慮が足りなかったな」

 アルジマールはレオアリス達の前に戻って長椅子に座り直した。

「いや、――俺の根源みたいなものだから、いいんです」

 そう言ってアルジマールに向き直り、ふと感じた疑問を口にした。単純だが、重要な疑問だ。

「剣を封じるってどうやるんですか?」

「……知らない。というか、君が聞くのか?」

「俺も知りません」

 レオアリスはそう返して背もたれに寄りかかり、我が事ながら呆れのこもった息を吐いた。

「意外と問題が多いんだな……」

 だがすぐに、今度は期待を込めてアルジマールに向き直る。

「もし知っていたら、父さん――、ジンについて、何か教えてもらえないですか」

 アルジマールは途端に眉を寄せた。予期していた聞かれたくなかった事を、やはり聞かれてしまった、という顔だ。渋々と言った様子で口を開く。

「――西海との大戦後期に現れ、大戦が終わると同時に表舞台から姿を消した。一番の功績は誰もが知るとおり、風竜を倒した事だ。一般的には大戦の剣士と呼ばれる」

「それで」

 それはレオアリスも良く知っている。彼が自分の父親だと知らなかった頃から馴染んだ話だ。

 アルジマールはますます眉をしかめた。

「詳しい事は知らないんだ。知ってたら君の情報との交換条件にするよ」

「何でもいいんです。――風竜との戦い以外は?」

「風竜を倒した事で、要請されてその後幾つかの戦場に出てる。大戦後、軍への入隊も要請したようだが、受けていない」

「――そうなのか……へぇ……」

「感じ入ってもらって悪いけど、この程度だよ?」

「いえ」

 たったそれだけの新しい情報が、レオアリスにはひどく嬉しいものだった。一つの情報が、父の輪郭を一つ明確にする。

 アルジマールはゆったりした長衣の中で腕を組んで唸った。

「まあ何にしても、今判ってるのは、最近になって君やバインドから得た情報が七割だからね。貴重な情報を得られたけど、まだ足りない」

 話している内に次第に声が上ずってきて、アルジマールは右手を胸の辺りで握り締めた。

「つまりはね、剣士はまだまだ謎に包まれた存在って訳で、だからこそ僕は知りたいんだ! 判るだろ?!」

「落ち着いてくださいよ、いんちょー」

 クライフはアルジマールをいなすように手を振った。

「謎の解明だよー?! 僕が本を綴ったら君の名前を入れてあげるからさ!」

「まぁまぁまぁ」

「確認したい事は山ほどあるんだ。いいかい、片親が剣士であれば能力は引き継がれるのか、それとも両親が剣士でないとダメなのかとか、でも種族として少ない以上それは現実的ではないけど、いやだからこそ少ないのかな、それから君のような剣士は他にも生まれるのかとか、主はどうやって選ぶのかとか、ほかにも」

 一気にそこまで言い切り、アルジマールは一息入れて、またレオアリスを見据えた。

「剣が二振りある場合、主を二人持てるのかとか。君、どう思う?」

「――そういうものでは無いと思いますが……」

 レオアリスは彼の主――王の姿を思い浮かべた。その時にレオアリスが感じる畏敬、剣が覚える(よろこ)びは、もっと深く、存在の根本にあるように思える。

「剣の数じゃない?」

「厳密には言い切れませんが」

「じゃ、可能性はあるかな?」

「さあ……」

「さぁって、もっと熱く語ってよー!」

「と言っても」

 判らないんだし、とおそらく当事者独特の気の入らない返事に、アルジマールは大仰な仕草で被きを被った頭を両側から押さえた。

 剣が二本だから主も二人……という可能性など、今剣を捧げる存在があるのだからどうでもいい、という思いがレオアリスの面にありありと現われている。

 考えるつもりも無さそうだ。

「これだから軍人はもぉー! 君仮にも昔術士だったんだろー!? 世の(ことわり)の解明! これこそが法術士に課せられた最大最重要な使命だよ!」

「術士って面白いっすねぇ」

 燃え上がって振り回されるアルジマールの拳の下で、クライフとレオアリスが頭を低くして顔を寄せ合う。

「誤解しないでくれよ、うちのじいちゃん達は堅実だったんだぜ。この人極めてるからな」

「何? 何の話? 剣士について?!」

 あくまで独自路線で食らい付いてくるアルジマールから、レオアリス達はささっと身体を反らした。

「そろそろ退出しようかと思って」

「ええっ、話はこれからじゃないか! 準備もしたし!」

 何の準備だ、という問いを呑み込み、レオアリスはきっぱり首を振った。

「いや、済みました。本当に今回はありがとうございました」

 素早く立ち上がり改めて礼をすると、レオアリスは扉に向かった。

「待って!」というよりは「待てー!」という表記が相応しく、アルジマールが追い縋り、レオアリスの右腕をがっちり握る。アルジマールが小さい分、レオアリスは斜め下に身体を引かれてよろめきそうになった。

「うおっ」

「一度! 一度でいいからさ! ちょっとお腹の中見るだけだから! お腹切って内臓除けて骨取り出すけどすぐ繋いで戻して縫合するから!」

「何具体的に怖い表現使ってんですか! つーかちょっとじゃないでしょそれ!」

「ちょっとだよ~!」

「ま、まぁまぁまぁ!」

 今度はクライフがレオアリスの左腕を掴む。

「院長! 落ち着いてくださいよ、ね!」

 アルジマールはぐいぐいと隣室の方へレオアリスの右腕を引っ張り、そうはさせじとクライフが左腕を持って廊下へと引っ張り出した。

「いてててて! 解剖の前にちぎれて中身出る!」

「放せ、ほら、君部下だろ?! 上官に手荒な事していいのか!?」

「上官の安全の確保も部下の仕事です! あんたこそ手荒な真似はやめてくださいよ!」

「手を離した方が本当のお母さんだよ~」

「何じゃそら!」

 アルジマールとクライフの掛け合いを縫うように、どこからともなく冷えた、いや灼熱に近い声が忍び寄った。

「……相変わらず解剖()る気まんまんだねー、アルジマール……」

 地の底から這うような響きに、ぎくり、と三人の動きが止まる。

「私も()る気まんまんだけどな!」

 慌てて振り返った視線の先には、良く知った少女の姿があった。いつの間にか開かれた扉の向こう、薄暗い廊下で、その姿は揺らめく陽炎を纏うように薄っすら赤い光を帯びている。

「ア、アスタ――」

 頬に衝撃を感じた時には、アスタロトの白い手がレオアリスの頬を打った後だった。

 拳で。

「……ッ、お前、拳かよッ!?」

 頬を押さえたレオアリスへ、アスタロトは紅い瞳を怒りに燃え立たせたまま、ずい、と一歩詰め寄った。

「拳がどうした! 何ならこんがり焼いてやってもいいんだけど!」

「焼かれちゃったら僕が困るよ~。それじゃ検死になっちゃうでしょ~」

「どういう困り方ですか! あくまで解剖に拘るな!」

「……剣士なだけに、検死……」

 ぽつりと呟いたクライフの言葉に、しん、と室内が静まり返る。

「あ、どうっスか、今、のぉッ!!」

 得意げなクライフの頬と鳩尾へ、三方向から拳が飛んだ。

 どさりと床に倒れたクライフを尻目に、アスタロトはレオアリスに向き直った。

「遺言があったら聞いてやる、言え!」

「待て待て、遺言って」

「待て……? ああ、待ったとも! 寒風吹きすさぶ寒空の下、一刻近く待った! それが何か?」

 ぐっと言葉につまり、レオアリスは青ざめたまま固まった。

「その後何か言ってくるかと思って一日待って、そしたら言ってきたのが南方軍を貸せ、だったけど、それが何か?」

「い、いや――」

 返す言葉もない。

 最低だな! と他人事だったらそう思うに違いない。

「お前なんてもう、バルバドスに沈んどけば良かったんじゃないのっ?!」

「沈んどけって、それは」

「何か?!」

 ぱくぱくと口を開け閉めし、レオアリスは観念して顔を伏せた。

「――悪かった」

「何が?」

 つん、と顎を逸らし、そっぽを向いたアスタロトに対して、レオアリスは上半身を深く折り、声を張り上げた。

「寒い中一刻も待たせて、その上連絡もしないで、申し訳ありませんでした!」

「ふーん、それで?」

「いや、だから……」

 にべもなく問い返され、他にどうすればいいのかとレオアリスが大いにうろたえたところで

「アスタロト様、その辺で。ホントは心配なさってたじゃないですか」

 廊下から救いの手ならぬ救いの声が差し掛かり、苦笑を浮かべたアーシアが顔を覗かせた。アスタロトがさっと頬を赤くして膨らませる。

「心配なんかしてないもん!」

「してらっしゃいましたよ。だからヴィルトールさんからの連絡で、飛んでいらしたんじゃないですか」

「殴りに来たんだもん」

「アルジマール院長とレオアリスさんが会うのも心配なさってたでしょう?」

「してないよッ」

 くすくすと笑い、それからアーシアはレオアリスに頭を下げた。

「怪我とかもないみたいで、安心しました。アスタロト様も安心したから、逆にほっとして怒ってらっしゃるんですよ」

「アーシア! 余計な事言うなよ!」

「余計ですか? すみません」

 アーシアに穏やかな笑みを返され、アスタロトは何ともいえない顔になって、ぷい、と横を向いた。

「もうっ、いいよ。アーシアが勝手なこと言うから怒る気もそがれた。帰る」

 くるりと身を返しかけたアスタロトの手を、レオアリスが慌てて掴む。

 まだ全然謝っておらず、さすがにこのままでいいはずがない。

「何?」

 アスタロトは背中を向けかけたまま、紅い瞳がほんのちょっと、レオアリスに投げられる。

「本当に、悪かった、ごめん。この通り!」

 レオアリスは改めて顔を伏せ、ぱん、と頭の前で両手を合わせた。

「――」

「ちゃんと埋め合わせもするから」

「――ホント?」

 瞳を細めながらも、アスタロトはレオアリスに正面から向かい合った。

 アスタロトの表情からは先ほどまでの問答無用の色が消えていて、レオアリスはほっとしながら力強く頷いた。

「マジで。何でも好きなモン奢る」

「お前、私を食い気だけだと思ってるだろ」

 ぎくりとしつつ、慌てて首を振る。

「そ、そういう訳じゃねぇけど……じゃあ別の事で埋め合わせするよ」

「――何でも?」

「何でも言ってくれ」

 今度は呆れたように、アスタロトの瞳が細められる。

「――お前さぁ、何でもって簡単に言い過ぎ。誰にでも言ってんじゃないの?」

「そんな事ねぇって」

 中々上手くは怒りを収めてもらえないようでレオアリスは困り切っていたが、傍らではアーシアとクライフが、二人のやり取りをにやりと含みのある笑みを浮かべて眺めている。

「じゃあ言うけど」

 アスタロトはじっとレオアリスを睨んだ後、またふいと顔を反らした。

「もう止めてよね、いきなりいなくなるの」

 少し小さな声でそう言ったアスタロトを、レオアリスは瞳を軽く見開いて眺め、それから可笑しそうに笑った。

「大げさだな。別に何日も失踪した訳じゃないだろ?」

 レオアリスの顔をアスタロトは少しばかりの、いや、かなりの呆れを込めて見つめた。

 自覚がない。

(て、言うか)

「……お前、自分は何があっても死なないとか思ってるだろ……」

 アスタロトの声に含まれた怒りは、レオアリスには伝わらなかったようだ。

「な事ねぇよ。今回は考え無しだったし、反省してる。お陰で師団を動かさなきゃならなくなったしな」

 反省している様子は本物だ。

 ただし、近衛師団の大将としての。

「……一度、死の縁覗かせてやろうか……」

「何?」

 拳を震わせぼそりと呟いたアスタロトへ、レオアリスが暢気に不思議そうな顔を向ける。

 その顔を見ながら、レオアリスだって何回かは命の危険があった事を、アスタロトはつらつらと思い出した。

「剣士って……サイテー」

「な、何で?」

 うろたえたレオアリスに対して、深く長い溜息が返る。

「お前の部下に同情するよ」

「いや、それと剣士だとかは関係ないだろ」

「――サイテー。いこ、アーシア。もういいや」

「もう……?」

 話半分に放り出されてレオアリスは何とも複雑な顔をしたが、アスタロトはアーシアを手招いてさっさと廊下に出た。

「埋め合わせはすんごいの考えとく。じゃあね」

 扉の縁でちらりと掌が揺れ、すぐに足音と共に遠ざかった。

「――何だよ」

 レオアリスは片手でくしゃくしゃと短い髪を混ぜ、溜息を吐いた。

 アルジマールが被り物に隠された目元にきらりと興味深そうな光を宿し、腕を組む。

「これは彼が抜けてるのか、僕の論説が合ってるのか、どっちかな」

(両方じゃ……)

 と思ったものの取り敢えず口には出さず、クライフはレオアリスの背中を押した。

「それじゃ、俺達もこれで失礼します」

「あ、まだ話は」

「いやいや、これ以上は年越しちまいますよ、また来年!」

 追い縋ろうとしたアルジマールにさっと敬礼し、素早く扉を閉ざす。真っ直ぐな廊下には、もうアスタロト達の姿は無かった。

「ありゃ、本当に帰ったんですねー」

「……謝り足りなかったか? 俺。謝り方が悪かったのか……?」

 レオアリスは眉をしかめ、難問を解くように呟いている。

「いやぁ、そういうのが面白いんすよ!」

「面白い?」

「まあまあまあ! たまにはのんびりしましょうよ。今年は上将、働き過ぎたくらいですからね、仕事以外にも眼を向けねぇと」

 来年は色々面白くなりそうだなあ、と心の中で呟きながら、クライフは首を捻っているレオアリスの背中をもう一度軽く叩いた。


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