5・だし巻き卵
「お嬢様ーっ! こんなところにいらっしゃったのですか!」
メイドの少女は血相を変えて駆け寄ると、エリシアの無事を確認するようにその体をペタペタと触り始めた。
「リ、リネット。やめなさい、恥ずかしいわ」
「恥ずかしいではありませんよ! グランフォード公爵家の令嬢ともあろうお方が、護衛の一人もつけずにふらふらと抜け出すなんて!」
「それは申し訳なかったと思ってるわ」
「お嬢様がいなくなって、心臓が止まるかと思いましたよ!」
困惑して体をよじらせるエリシアに、リネットと呼ばれたメイドの少女は涙目で抗議の声を上げる。
どうやらエリシアは、黙ってどこかから抜け出してきたらしいな。
……ん?
「グランフォード公爵家……? まさか……」
その言葉を聞いて、俺はようやく思い出した。
王都の料理ギルドにいた頃、ギルド長のグレゴールを含む上層部の連中が、顔を真っ赤にしながら話し合っていたことがある。
『今度、グランフォード公爵家のエリシア様を接待することになった! あの御方は氷の令嬢と呼ばれ、並の料理では決して満足なさらない。絶対に粗相のないようにしろ!』
……と。
「エリシア、あんたは公爵貴族だったのか?」
「え、ええ、そうよ。私はグランフォード公爵家の長女、エリシア・グランフォード。今まで隠してて、ごめんなさい」
エリシアが少し気まずそうに俯く。
なるほど……やけに育ちのいいお嬢様だと思っていたが、まさか王都でも有数の権力を持つ大貴族の令嬢だったとは。
「別に気にしてないさ」
俯くエリシアに、俺はいつも通り気軽に声をかける。
「エリシアの気持ちも分かるしな。君が公爵家の人間だろうと、関係ない。うちは誰でも歓迎する」
「タクミ……」
「それとも、敬語を使った方がいい……ですか? 身分の差があるし……」
「い、いえ!」
俺が慌てて言葉を取り繕うと、エリシアは慌てて止めてきた。
「そんなことをする必要はないわ。身分を隠してきた私も悪いんだから。だから、今更敬語だなんてやめてちょうだい」
「そうか……だったら有り難く、今まで通りに話させてもらうよ」
にっこりと微笑む。
エリシアは身分を隠していたことを気に病んでいるようだが、俺からすれば客であることに変わりはない。
むしろ、あの料理ギルドの上層部連中が恐れおののいていた氷の令嬢が、俺の作った唐揚げや定食を無我夢中で頬張っていたと思うと、少し痛快なくらいだ。
しかし、その和やかな空気を引き裂くように、
「お、お嬢様を相手に、そのような言葉遣いだと!? 無礼者! お嬢様が許しても、私が許さん!」
とリネットが鋭い声を上げた。
「それに、この空になったお皿……お嬢様、まさかここでお食事をされていのですか!?」
「ええ。ここの料理はとても美味しいのよ」
「し、信じられません……王都の超一流シェフが作る高級料理ですら碌に召し上がらないお嬢様が、こんな……油と香辛料の匂いが染み付いたような店の料理で満足なさるとは……」
リネットはそう声を零し、唖然とする。
「そこまで言うなら、あんたも俺の料理を食べてみるか?」
そんな彼女に、俺はそう声をかける。
「き、貴様の料理を……か?」
「ああ。俺の料理には、普段エリシアが口にするような高級食材も使われていない。だが、一度食べてくれれば、エリシアがどうして屋敷を抜け出してまで、ここに来たかが分かるはずだ」
「しかし……」
まだなにか言いたそうなリネットをよそに、俺は厨房で手早くボウルを取り出し、新鮮な卵をいくつか割り入れた。
そこへ、昆布と鰹から取った特製の出汁をたっぷりと加え、少量の醤油と砂糖で味を調える。菜箸を使って、白身を切るように素早くかき混ぜる。
次に、熱した四角い専用の鉄鍋に薄く油を引き、卵液のおよそ三分の一を流し込んだ。
ジューッ!
「こ、このいい匂いは……」
小気味よい音が立ったと同時に、リネットの肩が上下に小さく跳ねる。
やはり、貴族に仕える侍女であろうと、食欲には抗えないようだな。だったら、あとはその仮面を剥がしてやるだけだ。
出汁の効いた卵がふわりと膨らみ、甘く香ばしい匂いが店内に立ち込めていく。
俺は菜箸を器用に使い、半熟状態の卵を奥から手前へとパタパタと素早く巻き上げていく。そして空いたスペースに再び油を引き、残りの卵液を流し込んで、同じように巻く。
これを何度か繰り返すことで、出汁の水分をたっぷりと含んだ、分厚くて黄金色に輝く層が出来上がるのだ。
「よし、完成だ」
巻き上がった卵を巻き簾で形を整え、食べやすい大きさに切り分ける。
湯気が立ち上るそれを小皿に乗せ、リネットの前に置いた。
「お待ちどう──うちの看板メニューの一つ、『だし巻き卵』だ」
鮮やかな黄色をした四角い塊から、出汁の優しい香りが漂ってくる。
「……(ごくり)」
反射的にリネットが唾を呑み込む音が聞こえた。
ここで食べてもいいか、どうか迷っているのだろう。しかし、体は誘惑に抗えないよう。今にも、だし巻き卵に齧り付きそうだ。
「リネット、食べてみなさい。あなたも箸を使えるわよね」
「は、はい」
「タクミの料理は見慣れないものが多いけど、とても美味しいのよ。だから……ね?」
エリシアが促すと、リネットは渋々といった様子で箸を手に取った。
「い、いいでしょう」
そして、小さく切り分けただし巻き卵を箸で掴む。
「こんな、ただ卵を焼いて固めただけのもの、お嬢様の舌に合うとは思えず──」
おずおずとだし巻き卵を口に運んだリネットだったが、
「う、旨ああああああい!」
次の瞬間、目が限界まで見開かれた。
「な、なんだ、これは……! ふわふわで、噛んだ瞬間に中から旨味たっぷりのスープが溢れ出してくる!」
「スープ……出汁って言うんだが、それを卵にたっぷりと含ませてあるからな。味付けはシンプルだが、素材の旨味を最大限に引き出している」
「こんなに奥深い味の卵料理、王都でも食べたことがなく──」
リネットは夢中になって残りのだし巻き卵を食べ、あっという間に平らげてしまった。
空になった皿を見つめてから、ハッと我に返ったようにリネットは顔を真っ赤にした。
「わ、私としたことが、はしたない真似をしてしまった……!」
「そんなこと気にしなくてもいい」
「そうよ。このお店では上品なマナーなど不要なんだから」
エリシアが自分のことのように得意げに微笑むと、リネットは気まずそうに視線を逸らした。
「さあて、どうだった?」
「美味し……かった」
リネットは拳を強く握りしめ、声を喉奥から絞り出す。
「最初は期待してなかったんだ。だが、厨房から漂ってくる焼いた卵のいい匂いが漂ってきて、いつしか魅了され……」
「まあ、そんなもんだよな」
「本当に高級食材は使われていないのだな?」
「ああ。それなんかも、養鶏家の人に善意で分けてもらった、なんの変哲もない卵だ」
「素晴らしい……!」
そしてリネットは両手を前に回し、深々と頭を下げた。
「……申し訳なかった。見た目や身分だけで料理を決めつけ、あのような暴言を吐いてしまったこと、心より謝罪する。お嬢様の舌を満足させたと聞いて、納得だ」
「謝る必要なんてないぞ」
真摯に謝罪するリネットの姿に、俺は軽く手を振って応えた。
「美味いと言ってもらえただけで、料理人冥利に尽きるってもんだ。うちは大衆居酒屋。身分なんて関係なく、誰でも美味い飯を食って笑顔になれる場所だからな」
「身分に関係なく、誰でも……」
「だから、公爵令嬢だろうが侍女だろうが関係ない。食べたくなったら、あんたもいつでもうちに来ればいいさ」
俺がニカッと笑いかけると、エリシアとリネットは顔を見合わせ、二人揃ってふんわりと微笑んだ。
「リネットもすっかり、タクミの料理の虜になってしまったみたいね。また機会があったら、二人でお酒を飲みにきましょ」
「お、お嬢様と私が、ですか!?」
「ええ、そうよ。こういうのを、庶民の間では『サシ飲み』って言ったのかしらね。それとも、リネットは私とお酒を嗜むのは嫌?」
「そ、そんなことはありません! 毎日でもご相伴にあずからせてもらいましょうとも!」
リネットが興奮した面持ちで、エリシアにそう返事をする。
この二人の関係──なんかいいなあ。
店内に入ってきた時はツンツンしていたリネットも、今ではすっかり態度を軟化させている。
これも、エリシアのことを心の底から案じていたからだろう。主従関係を超えた友情のようなものを、二人からは感じた。
「あら、もうこんな時間」
エリシアは店内の壁掛け時計に目をやり、慌てて声を発した。
「タクミ、今日のところは帰らせてもらうわ。美味しいお食事、ありがとう」
「おう、またいつでも来い」
「必ず来るわ」
そう言い残し、二人は連れ立って『よりみち亭』の扉を開けて出て行った。
遠ざかっていく──まるで姉妹のような二人の背中を見送りながら、俺はふうっと息を吐くのであった。
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