3・氷の令嬢の心が溶かされるまで(エリシアSIDE)
「美味しいもので、腹を満たす……だけ」
先ほどの店主の顔が、頭から離れない。
夜のベルナードの冷たい風に吹かれながら、私──エリシア・グランフォードは、ひとり宿泊先の屋敷へと歩いていた。
私は、王都でも有数の権力を持つグランフォード公爵家の長女として生まれた。
幼い頃から厳しいマナーや教養を叩き込まれ、常に完璧な公爵令嬢としての振る舞いを求められてきた。
貴族の世界は策謀渦巻く、汚い世界だ。
少しでも弱みを見せれば、政争や縁談の道具として、すぐに利用されてしまう。
だから私は、いつしか感情を殺すようになった。
誰の前でも愛想笑いを浮かべず、ただ冷徹に、隙を見せないように振る舞い続ける。
その結果、いつしか私は社交界で『氷の令嬢』という二つ名で呼ばれることになった。
そんな私にとって今まで、食事は苦痛の時間でしかなかった。
一口食べるごとに周囲の目や作法を気にし、腹を探り合いながら会話を交わす。
どれほど高級な食材が使われていようと、味を感じている余裕はない。
味のないガムを、ただ噛んでるだけのような食事。美味しいという感情なんて、とうの昔に忘れた。。
領地関係の仕事でこの田舎町ベルナードにしばらく滞在することになったが、ここでもなにも変わらないのだろう。
心と体をすり減らしながら、生きていく。
……それなのに。
屋敷へ戻るため、夜の町を歩いていた私の鼻を、暴力的なまでの香ばしい匂いが撫でた。
ふと視線を向けると、そこには古びた小さな店があった。
大衆居酒屋『よりみち亭』。
中からは男たちのガハハという下品な笑い声と、食器がぶつかる音が聞こえてくる。
普段の私なら、絶対に近寄らないような庶民向けの居酒屋だ。
しかし、いつしか私は導かれるように、『よりみち亭』の暖簾をくぐっていた。
店内にいた店主は、私の姿を見ても特別に媚びへつらうこともなく、ただ一人の客として接してくれた。
『──お待ちどう。鶏の唐揚げと、冷えたエールだ。冷めないうちにどうぞ』
席についた私に彼が出してくれたのは、鶏の唐揚げと冷えたエール。
唐揚げと呼ばれる料理の見た目はゴツゴツしていて、お世辞にも美しいとは言えない。
社交界で出されるお酒も高級ワインやカクテルがほとんどで、エールなど口にしたこともない。
けれど、唐揚げを一口した瞬間に爆発したのは、熱々の肉汁と強烈な旨味。
その美味しさに、一発で私は虜になった。
『次は、そいつで流し込んでみてくれ』
唐揚げの味に感動している私に、店主はそう言った。
油ごと流し込むように? そんなに無作法な真似、本当にしてもいいのかしら。今まで、そんなことは教えられなかったわ。
けれど、郷に入れば郷に従え。彼に言われるがまま意を決して、エールで口に流し込んだ瞬間。
私の心を縛り付けていた冷たい鎖が、音を立てて砕け散った気がした。
全身の力が抜け、ぽかぽかと内側から温かくなっていく。
美味しい──ただ純粋に、美味しい。
こんな感覚は初めてだ。
だから、あんな失態を犯してしまった。
『もしこの店が気に入ったなら、いつでも来いよ。夜が無理なら、昼でもいい。『よりみち亭』はいついかなる時、誰だろうと歓迎する』
戸惑う私に店主が優しく声をかけてくれた時、私の目からは勝手に涙が溢れてしまったのだ。
人前で泣くなんて、いつぶりかしら。
記憶を遡ってみるが、思い出せなかった。
「……ふふっ」
夜道を歩きながら、私は思わず小さく吹き出してしまう。
本当に、はしたない。
公爵令嬢が油まみれの肉の塊にかぶりつき、労働者のようにエールを煽る。
お父様が知ったら怒り狂って、無理やり私を王都に連れ帰るかもしれないわね。
けれど。
『……また来るわ』
店を出て行き間際、私の口からはそんな言葉が溢れていた。
彼は私の身分も事情も、何も知らないのだろう。
ただ一人の客として、『いつでも来い』と気安く声をかけてくれた彼の顔が、先ほどから胸の奥に強く焼き付いて離れないのだ。
夜風は相変わらず冷たいはずなのに、足取りはとても軽い。
胃の奥には心地よい重みがあり、幸せな満腹感を体全体で感じていた。
「確か、昼も開いてるって言ってたわね……」
そう呟く。
「明日も、行ってみようかしら」
今まで経験したことのなかった温かみ。
あそこに行けば、またそれを感じることが出来るかもしれない──そう思うと、明日への活力が自然と湧いてきた。
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