ヒュドラ討伐ガイウスの死
沼の水面が、ごぼりと盛り上がった。
緑色の泥水が滝のように流れ落ち、その下から、幾つもの黒い影がせり上がってくる。一本、二本、三本――。人の胴ほどもある太さの首が、次々と鎌首をもたげ、空へ伸びていく。滑らかな鱗は泥と毒液に濡れて鈍く光り、金色の眼が、それぞれ別々の方向を睨んでいた。
九つの首を持つ、巨大な蛇。
全長は、荷馬車を縦に五台並べても足りないだろう。沼に沈んだままの胴体が、わずかに身じろぎするだけで、窪地全体の岩盤がびりびりと震えた。
「……こりゃ、本物だな」
ロイドが、低く唸った。
「並の騎士団なら、一個中隊が丸ごと食われる相手だぜ。……ま、俺たちからすりゃ、準備運動にもなんねぇけどな」
「左様。されど、今のアーロンにとっては、荷の重い相手にございましょう。……それを、あの男は」
五明丸の視線の先で、ガイウスは宝石飾りの長剣を握りしめたまま、一歩も動けずにいた。
「ひっ……ひ、ヒュドラ……? ほ、本物……?」
つい先ほどまでの威勢は、跡形もない。青ざめた唇が、わなわなと震えている。
「ネヴィル! き、聞いていないぞ! こんな……こんな化け物がいるなんて、聞いていない!」
「おや。勇者様の腕なら、造作もないお相手のはずですが?」
ネヴィルは、涼しい顔で木箱を抱えたまま、後ろへ下がった。
九つの首のうちの一本が、ぐるりとガイウスの方へ向いた。金色の眼が、獲物を見定めるように細まる。
「う、うわあああっ!」
ガイウスは、剣を放り出して背を向けた。深紅のマントが泥に絡まり、無様に転びながら、岩陰へと這いずっていく。
「ぼ、僕が!」
その時、アーロンの姿が、岩棚の下から飛び出した。
首が振り下ろされる。巨大な顎が閉じかけた瞬間――甲高い金属音が響いた。
アーロンの盾が、正面から顎を受け止めていた。足元の岩が、衝撃で蜘蛛の巣状に砕ける。それでも、細い体は一歩も退かなかった。
「みなさん、後ろへ! 僕の後ろに下がってください!」
盾の縁を傾け、牙の軌道をわずかに逸らす。顎が空を噛んだ隙に、右手の剣が閃いた。
一閃。
太い首が、ずるりと滑り落ち、沼の泥へ沈んだ。
「やった……!」
バルドたちが、息を呑む。
だが――。
「アーロン、油断するでない。まだ終わってはおらぬぞ」
五明丸の声が、岩棚から鋭く響いた。
斬り落とされた首の断面が、ぼこぼこと泡立っていた。赤黒い肉が盛り上がり、骨が伸び、鱗が生え揃っていく。ものの数拍で、首は元の姿に戻っていた。
「再生……!」
アーロンが、唇を噛む。
九つの首が、一斉に動いた。
左右から、上から、同時に牙が迫る。アーロンは盾を斜めに構え、一つ目の顎を受け流し、体を沈めて二つ目をかわし、三つ目を剣の腹で弾いた。流れるような動きだった。けれど、手数が違いすぎる。弾いた首の陰から、別の首が死角へ回り込んでくる。
視界の端で、緑色の霧が立ち昇った。
「毒だ! 息を止めろ!」
首の一本が吐き出した毒霧が、窪地に薄緑色に広がっていく。バルドとミーナが咳き込み、膝をついた。ドルンが、慌てて杖を振って風を起こそうとするが、霧は払えない。
「ミーナさん、ドルンさん、荷馬車の陰へ! バルドさん、二人を連れて下がって!」
アーロンが盾を掲げ、毒霧と牙の両方を、体一つで受け止めている。その背中で、仲間たちが這うように後退していく。
「……アーロンが、時間を稼いでいるのですね」
ケイトが、静かに呟いた。
「お兄さま。あの首、斬られた瞬間から再生が始まっています。切断面を焼き固めれば、止まるはずです」
「できる?」
「はい。手持ちの材料で、焼夷薬を調合できます。――ただ」
ケイトは、俺の顔をまっすぐに見上げた。
「戦うのは、アーロン本人です。私たちが出るのは、必要最低限に」
「うん。それでいこう」
ケイトは頷くと、腰の鞄から小瓶をいくつも取り出し、岩棚の上で驚くほど手際よく液体を混ぜ合わせていった。白い指の間で、赤い光がぽうと灯る。
(……お兄さまの弟のためなら、手間など惜しくありませんとも。ふふ、デュフ)
……最後の方は、聞かなかったことにしよう。
「アーロン、受け取ってください!」
ケイトの腕が、しなった。
三つの小瓶が、一直線に岩棚から飛んでいく。信じられない速度と精度で、アーロンの足元へ、ぱしん、ぱしんと突き刺さった。
「それを、斬り口に塗るか、直接ぶつけて! 火が上がります!」
「は、はいっ!」
アーロンは、迷わなかった。
次に首が襲いかかってきた瞬間、盾で顎を受け止め、返す刃で首を斬り落とす。そのまま、断面へ小瓶を叩きつけた。
ぼうっ、と紅蓮の炎が上がる。
焼け爛れた断面は、肉が盛り上がろうとしては弾け、再生が止まった。首が、沼の泥に沈んだまま動かなくなる。
「効いた!」
歓声が上がった。ミーナも、バルドも、荷馬車の陰から身を乗り出している。
これで、一本。残りは八本。
アーロンは、荒い息のまま、次の首へ視線を向けた。
……その時だった。
「ふむ。予定とは少々違いますが……これもまた、一興ですね」
背後で、妙に落ち着き払った声がした。
振り向くと、ネヴィルが木箱の蓋を開けていた。中には、黒光りする液体を満たした大瓶がぎっしりと詰まっている。男はそれを、一つ、二つと、窪地の縁から沼へ投げ込んでいく。
「ネヴィル、貴様!」
「何をしている!」
五明丸とロイドが同時に動いた。
だが、ネヴィルは、岩棚を駆け下りる二人を見ても、慌てる様子がなかった。ゆっくりとこちらを振り返り、細い目を開く。
その瞳は、血のように赤く染まっていた。
「ご心配なく。いずれまた、お目にかかることになるでしょう」
影が、ネヴィルの足元から膨れ上がった。黒い靄が男の体を包み、五明丸の刃が首筋に触れる寸前、弾けるように散った。そこには、もう誰の姿もなかった。
「……逃がしたか」
「兄上、あれは――」
「ああ。間違いねぇな」
ロイドが、面白くなさそうに舌打ちした。
「力は大したことねぇ、雑魚もいいとこだ。……そのくせ、逃げ足と小細工だけは一人前じゃねぇか」
「左様。斬り合えば、取るに足らぬ相手にございます。ただ、毒霧の中にバルドらを残して追うわけにもまいりませぬ。……あの気配、すでに覚えました。いずれ、追えば済むこと」
五明丸が、刀を鞘へ収めながら、短く息を吐いた。
……魔族。
その二文字を、俺はようやく、はっきりと意識した。この世界の住人にとっては脅威なのかもしれないが、少なくとも俺たちにとっては、手強い相手ではなさそうだ。ただ、あれが「手先」だとしたら、その後ろには、もう少し面倒な何かがいるのかもしれない。
だが、今は考えている余裕がない。
沼が、紫色に泡立ち始めていた。
黒蓮の抽出液が、毒沼の水に溶け広がり、ヒュドラの全身を侵していく。金色だった八つの眼が、一斉に血走った赤へ染まっていった。首の付け根が、ぼこりと膨れる。裂けた皮膚の下から、新たな首が、一本、二本、三本と生え出した。
十一本。
全長が、さっきよりもさらに膨れ上がっている。
「グルアアアアアアッ!」
咆哮が、窪地を揺らした。
首の動きが、速くなった。今までのような「狙って噛む」動きではない。ただ、目の前にあるものすべてを、噛み砕き、叩き潰す。そういう暴れ方だ。
アーロンの盾が、衝撃で大きく弾かれた。
「くっ……!」
体勢が崩れたところへ、横から別の首が薙ぎ払うように襲いかかる。咄嗟に剣で受けた腕が、骨まで響く音を立てた。身を捻って致命傷を避けたものの、肩に牙が掠め、鮮血が飛び散る。
「アーロン!」
「だ、大丈夫です……! まだ、やれます……!」
メガネが割れ、片方のレンズが欠けていた。額から流れる血が、頬を伝って顎から滴る。毒霧を吸い込んだのか、足元がふらついている。それでも、アーロンは盾を構え直した。
――下がれ、と言いたかった。
ここで俺が出れば、一瞬で終わる。だが、それはアーロンの戦いを奪うことになる。奥歯を噛みしめ、拳を握りしめて、俺はただ見ていた。
(……頼むよ、アーロン)
窪地の底に、細い光の帯が差し込んだのは、その時だった。
頭上の空は、峡谷に切り取られた一本の細い帯だ。普段は岩壁の影に沈んでいるそこへ、太陽が、ちょうど真上に昇った。正午。真っ直ぐに降り注ぐ陽光が、窪地の中央を照らす。
その光の中心に、アーロンが立っていた。
「……あ」
アーロンが、小さく声を漏らした。
盾を握る手が、淡く光っていた。体の奥から、何かが溢れ出してくる。熱いものが、血管を駆け巡る。
(……ああ、そうか)
昨夜、見張りを交代する時にアーロンがぽつりと言っていたのを、不意に思い出した。
『明日で、十六歳になるんです。生まれたのは、お昼だったそうで』
――成人の日。
ティムラルトの現在値と潜在値が、一つに統合される、あの瞬間だ。
「これ……、これが……」
アーロンの瞳が、大きく見開かれた。
光が、体を包む。傷だらけの腕に、見えない力が満ちていく。割れたメガネの奥の瞳が、澄んだ緑色の光を宿した。
視界が、変わった。
首の動きが、ゆっくりに見える。いや、違う。自分が、速いのだ。盾を持つ手の重みが、まるで羽のように軽い。傷の痛みも、毒の熱も、遠くへ追いやられていくようだった。
十一本の首が、一斉に襲いかかる。
アーロンは、盾を構えたまま、前へ踏み出した。
牙が降る。それを、盾の縁で受け流す。弾いた首の下をくぐり、別の首の側面を駆け抜ける。剣が閃くたびに、首が一本、また一本と、胴から離れて落ちていく。
速い。さっきまでとは、別人のような動きだった。
斬った瞬間、首の断面が燃え上がる。残りの小瓶の中身を、あらかじめ剣の刃に塗り込めていたのだ。炎を纏った刃が走るたびに、切り口が焼かれ、再生が止まる。
二本。四本。七本。九本。
首が落ちるたびに、沼が揺れ、巨体が悶える。
別の首が、背後からアーロンを襲った。盾を構える暇もない、完全な死角。
――だが、牙は届かなかった。
アーロンがとっさに構えた盾が、見えない膜に覆われたように、衝撃のすべてを、ぴたりと消し去った。
「……っ!」
その隙に、アーロンの剣が、首の付け根を貫いた。
残るは、一本。
沼の中央、胴体の中心から生えた、他のどれよりも太く、黒ずんだ首。脈打つ喉の奥に、紫色の塊が、不気味な光を放っている。黒蓮の結晶が、体内で凝り固まったものだ。
(あれが、核か)
アーロンも、同じものを見ていた。
わかる。どこを突けばいいのか。どうすれば、この怪物が止まるのか。
盾を前に構え、腰を落とす。
次の瞬間、アーロンは地面を蹴った。
一直線の突進。盾の影から、剣の切っ先が、閃光のように伸びる。巨大な首が大口を開け、迎え撃つように襲いかかる。
盾が、巨大な牙を受け止めた。
剣が、喉の奥の結晶を貫いた。
世界が、静止した。
数拍の沈黙の後、結晶が、ぴしりと音を立ててひび割れた。
そして、窪地全体に響き渡るような、断末魔が上がった。
巨体が、ゆっくりと傾いていく。首が、一本ずつ、沼の泥へ沈んでいく。紫色の泡が弾け、毒沼から黒い靄が立ち昇って、やがて、静かに消えていった。
「…………」
誰もが、言葉を失っていた。
アーロンは、剣を引き抜いたまま、その場に立ち尽くしていた。割れたメガネの奥の瞳が、信じられないというように、倒れ伏したヒュドラを見つめている。
「……倒、せた……?」
「うおおおお! やったな、アーロン!」
ロイドが、岩棚から飛び降りて駆け寄った。
「見事にございました」
五明丸が、深く頭を下げる。
俺も、ようやく息をついた。全身から、力が抜けていく。
その時だった。
「はははは! 見たか、みなの者! これぞ、勇者ガイウスの力だ!」
岩陰から、場違いな高笑いが響いた。
深紅のマントを泥まみれにしたガイウスが、這い出してきたのだ。さっきまで、岩の隙間に頭を突っ込んで震えていた男が、倒れたヒュドラへ向かって、勢いよく駆け出していく。
「怪物の首が落ちたのだ! とどめは、この俺様の剣で刺してくれる! 誰が倒したか、後世に伝えねばな!」
「ガイウスさん、待ってください! まだ、危ないです!」
アーロンの叫びも、耳に入らない。
ガイウスは、拾い上げた宝石飾りの剣を振りかぶり、横たわる最後の首へ駆け寄った。
――その首の、閉じていた瞼が、ゆっくりと開いた。
赤く濁った金色の眼が、ぎょろりと動く。
「え……?」
ガイウスの足が止まった。
首が、跳ね上がった。
「ぎ……っ、ぎゃあああああああああっ!」
大きく開いた顎が、深紅のマントごと、ガイウスの体を飲み込んだ。
一瞬だった。
ばきり、と鈍い音が、窪地に響いた。
「ガイウスさん!」
アーロンが駆け出した時には、もう遅かった。
核を破壊されてもなお、ヒュドラの最後の首は、わずかに動く力を残していた。喉が、一度だけ、大きく波打った。その中で、何かの叫びが、くぐもって途切れる。
……俺様の、手柄だ。
そう聞こえた気がしたのは、きっと、気のせいではなかった。
アーロンの剣が、最後の首を断ち切った。今度こそ、巨大な首は、動かなくなった。
窪地に、静寂が戻る。
毒沼の水面が、ゆるやかな波紋を残して、静かに揺れていた。
「……助けられませんでした」
アーロンが、剣を握ったまま、ぽつりと呟いた。
「……アーロン」
「あの人は、ひどい人でした。手柄も、奪われて……でも」
アーロンの肩が、小さく震えていた。
「死んでほしいなんて、思っていなかったんです」
俺は、静かにアーロンの隣へ歩み寄り、その肩に手を置いた。
「アーロンのせいじゃないよ。自分の選んだ道の結果だ」
「…………はい」
アーロンは、深く息を吐いた。それから、ゆっくりと顔を上げて、割れたメガネ越しに、俺を見つめた。
「兄さん。僕……強く、なったみたいです」
「うん。見てたよ。すごかった」
俺は、にっと笑ってみせた。
「アーロンが、一人で倒したんだ」
その言葉に、アーロンは、泣き笑いのような顔で、深く頷いた。
岩陰では、バルドたちが呆然としたまま座り込んでいる。事の次第を、どう説明すればいいのか。ガイウスの偽りを、街でどう暴くのか。魔族と思しきネヴィルの行方も、五明丸たちが何かを掴んでいるかもしれない。
やることは、まだ山積みだった。
……ただ、今は。
頭上の細い空から降り注ぐ陽の光が、ようやく窪地の底を、あたたかく照らしていた。




