Prolog
ルーフを叩く雨音は、もはや「降っている」という表現では生ぬるかった。無数の礫を叩きつけられているような密度で、中古車の薄い鉄板を通して腹の底にまで振動が届く。
ワイパーを最強速にしても視界は白く滲んだままだ。フロントガラスの向こうで街灯の光が滲み、輪郭を失った世界が流れていく。俺――菅田健介(32歳)は、ハンドルを握る指先から意識的に力を抜き、その水膜の揺らめきをどこか遠い映像のように眺めていた。
「……随分と降るな。まあ、急いでも家は逃げないし」
独り言が、エアコンの送風音と雨音に紛れて溶ける。
俺は、わざわざ誰かを誘って騒ぐより、一人の歩調で静かに過ごす時間を好んでいた。人付き合いを全否定するほど尖ってはいないが、自分だけの領域で「これ、面白そうだな」と仮説を立て、それを自由に試している時間が一番気楽だ。
そんな俺にとって、この十年、MMORPGでの時間は生活に馴染んだ「ほどよい趣味」だった。
今日の昼休み。オフィスビルの非常階段で一人、コンビニのパンをかじりながら一つの節目を迎えた。
メインパラメーター『アレン』のレベルカンスト。
武器を持たない、無垢な拳。装備を捨てて『AGI(敏捷性)』に全振りした、効率度外視の偏った構成。
(……やっぱり、この動かし方、面白そうだよな)
最強を目指すわけじゃない。ただ、自分の思いついた「変な面白さ」が形になる過程が楽しいのだ。周りの同僚が実績やランキングの話で盛り上がる横で、俺は誰に話すでもなくその達成を一人で咀嚼し、静かに納得してスマホを閉じ、午後の仕事に戻った。
――アパートの駐車場に滑り込んだのは、そんな一日の終わりだった。
エンジンを切った瞬間、車内に不自然なほどの静寂が訪れる。同時に、外の荒れ狂う雨音がその静寂を切り裂くように際立った。まるで世界の音量つまみが、車の中と外とで別々に設定されているみたいに。
ふと、鼻の奥に微かな違和感を覚えた。
金属を舐めたような、乾いた匂い。オゾン臭、というやつだろうか。同時に、二の腕の産毛が、ぞわ、と逆立つ感覚があった。静電気にしては妙に持続的な、肌の表面全体を撫でられるような感触。
(……気のせいか)
特に気にも留めず、車載ホルダーからスマートフォンを抜き取る。ひび一つない画面には、十年の歳月をかけてコツコツといじり続けてきた、素手の『アレン』を筆頭とする十五体のパラメーターが眠っている。どれも俺が「面白そうだ」と直感した浪漫の塊だ。
(さて、戻るとするか。続きを始めよう)
ドアを開け、一歩外へ踏み出した。
傘も差さず、雨の冷たさを肌で受け入れながらアパートの入り口へと歩き出す。数メートル先の自動ドアの明かりが、やけに遠く感じた。
――その瞬間だった。
視界の隅で、空気そのものが発光した気がした。
次に来たのは光ではなく、音のない衝撃だった。鼓膜が仕事を放棄したのか、あるいは処理しきれなかったのか、耳には何も届かない。ただ、頭蓋の内側で何かが弾けるような感覚と、全身の筋肉が一斉に硬直する痙攣だけがあった。
痛みという情報すら、脳に届く前に回線が焼き切れたのかもしれない。
視界が白から黒へ、コンマ数秒にも満たない時間で塗り替えられていく。その一瞬が、やけに間延びして感じられた。まるで世界が、健介にだけ丁寧な「終わり」を見せてやろうとしているかのように。
32歳の平凡な男の肉体は、自然界の雷という気まぐれな暴力に対して、あまりにも無力だった。
「あ」と思う暇すら与えられず、健介の意識は強引に電源を引き抜かれたように、唐突に、完全に、途絶えた。
大雨が降り続く駐車場。
そこには、水溜まりの中に力なく横たわる一人の男の死体があった。焦げた匂いが雨に洗い流されていく中、その輪郭だけが、ぼんやりと街灯に照らされている。
だが、事態はそこでは終わらなかった。
男の手から滑り落ち、濡れたアスファルトに転がったスマートフォン。
落雷の凄まじいエネルギーを吸い込んだその端末は、本来なら基板もろとも一瞬で焼き切れるはずだった。だが、異常な電磁パルスの影響か、あるいはもっと別の何かの介在か――筐体の内部で、ありえない挙動が始まっていた。
電源が落ちていたはずの液晶画面が、青白く、不気味に点灯する。
ひび割れたガラスの向こうで、狂ったような速度で演算が走っている気配があった。数字とも記号ともつかないノイズが明滅し、それが収束していく。
そして最後に一度だけ、あのゲームの根幹を成す一文が画面を埋め尽くした。
『Enjoy your Freedom』
自由を謳歌せよ――。
その文字がバグのように激しく明滅し、直後、スマートフォンは火花を散らして沈黙、完全に壊れた。
主を失ったスマホが、物言わぬ機械の残骸に戻ったその瞬間。
雨だけが、何事もなかったかのように降り続けていた。




