1.開店前日の婚約破棄
新連載始めました。
前向きな主人公が魔法パンを作成&販売するお話です。少し進むともふもふもでます!
ep7まで毎日19時更新です!
「すまない、エリーゼ。婚約を破棄させてほしい」
明日から開店する「パン屋」の準備を初めようとしているところで、幼馴染みの婚約者が、予想もしていなかったことを言い出す。
エリーゼは驚いて荷ほどきの手を止めた。
突然の婚約破棄というのは、王子が悪役令嬢などにやるもので、そんなのは、庶民のパン屋のわたしがされるはずがない――そんなことを思う彼女は転生者だ。
ここは剣と魔法の世界。
だけど、わたしは貴族でもなければチートのスキルも付与されない普通の村の娘だった。はて、婚約者は何を言ってるのだろう?
「まさか別の女性と一緒になりたいとか言うつもり?」
「すまない、その、まさか、なんだ……本当にすまない」
婚約者であるアイザックは、頭をかきながら、こちらに目を合わせることもなく、うつむいている。
この店は住居も兼ねているのに……嫌な予感がする。
「真実の愛が見つかった、とか言うつもり? 相手は誰?」
ここまでくるとテンプレ展開ではないか。
思わず転生者としての本音が口から出そうになるのをこらえつつ、エリーゼは腕組みをして深く息を吸い込んだ。
「パン屋ギルドのボス、トムじいさんの孫娘カレン……」
「ああ、あの上目遣いであなたに小動物のように懐いていた子ね。私より六歳も下だったわよね。ああ、そう。ふーん。へー……」
「理由があるんだ……」
「なに? 子供でもできたの?」
「実はそうなんだ」
「ちょっと……! ええ!? は? 何を考えてるの!」
二十四歳の婚約者を差し置いて、十八歳の子に手を出していたアイザックに対し、呆れと怒りが込み上げてくる。
「お店は? この家、あなたの名義で買ったわよね? もしかして、わたしに今すぐ出ていけとか言い出すの?」
「すまない……そうなんだ。新しい家族ができたんだ。出て行ってくれ。本当にすまない……」
エリーゼの前世は日本人だった。
大学まで淡々と進学し、そこそこの中堅企業に就職し、簡単な事務仕事を……と思ったら日付をまたいだ残業も当たり前の日々に追われ、深夜の職場で誰にも気付かれずひっそりと意識を無くしたのが最後の記憶。
気が付けば、この世界で三歳の子供になっていた。
この世界での名前は、エリーゼ・ローズマリー。
華やかなのは名前だけだ。
よく言えば落ち着きのある性格だが、悪く言えば地味で無愛想。
転生後の剣と魔法のこの世界での人生もぱっとしなかった。
前世で読んだ物語に出てくる貴族や特殊スキルをもった職人の出自ですらない。
普通の村人の子供として生まれた。
父親はパン職人、母親は別の男ができたようで六歳の頃に消えた。
十四歳の頃から、王立学園に通学しつつ父親の家業を手伝いはじめた。
本日、婚約破棄をしてきたアイザックとは幼馴染みだ。
父親同士が雑貨売りの共同経営者だった。
しかし、十六歳の時にアイザックの父が事故死した。
うなだれる彼をローズマリー家は新しい家族として引き取った。
アイザックとは、成り行きのように二人が結婚すればいいと父親が勧めてきた。
そのことに何の疑問もなく婚約する前提で同じ屋根の下で暮らしてきた。
だが、父親は二十歳で急死してしまった。
今後のことも考え、村ではなく王都でパン屋を営もうとアイザックと話し合ったのが二人が二十一歳の時。
それから三年間ずっと村の小さな自営のパン屋で働きづめだった。
父が死んでしまった悲しみを忘れようと必死になっていた部分も正直ある。
そして、どうにか資金を貯めて、王都で住居付き店舗物件も購入し、村のパン屋も閉店し、王都のパン屋ギルドに開業の挨拶も済ませ、さあ明日から……というところで先ほどの婚約破棄。
よりにもよって、パン屋ギルドの孫娘が相手では、慰謝料だの事を荒立てることも最善とは思えない。それが正当な権利だとしても波風立てるのは厳しいだろう。
二階の住居のテーブルに置かれた婚姻届――アイザックの名前は書かれているが婚姻相手の欄は空欄、を二人で囲む。
互いに黙り込んだまま交わす言葉もない。
時間だけが過ぎ去っていく。
エリーゼは、一度だけため息をついて、顔をあげた。
前に進まなければならない。
婚約破棄なのだから、もっと怒ったり泣いたりしても許されるのだろう。
でも、そんな気力もわかない。あるのはずっしりとした疲労感だけ。
しかし、ずっと黙って座り込んでも何も変わらない。
とりあえずこれからのことを決めなくては。
「財産の分割……お金はどうするつもりなの?」
「俺、実は借金があったんだ……博打で大負けをして……ほとんど残ってなくて……すまない」
エリーゼは愕然とした。
家だけでなく、婚約者も失い、貯蓄すら失うのかと、目の前が真っ暗になるような感覚に襲われる。
「トムじいさんは、カレンと結婚するなら当座の店の資金は貸してくれる、と……だから出て行ってくれ」
「わたしには、家も、お金もないの?」
「本当にすまない……」
謝ることしかしない無責任なアイザックに、頭痛がする。
「婚約破棄の手続きはどうするの?」
「それは、ここだけの話で済むだろう?」
済む訳がないだろうという言葉を、エリーゼはぐっとこらえた。
この国には共同名義での口座や不動産などは持てない。
だから、すべて代表として、アイザック名義で全て手続きをしてきた。
それが裏目に出てしまった。
「あなたを信用したお人好しのわたしの勉強代だとしても高すぎるわ……」
「すまない……これで許してくれ」
じゃらっと音を立ててテーブルに置かれたのは銀貨三十枚と銅貨八枚。
ちなみに金貨一枚は銀貨十枚分だ。パン屋を村で営んで月に金貨二枚つまり銀貨二十枚がこれまでの平均的な一人当たりの稼ぎだった。
「二ヶ月分の収入分も貯蓄してないの? どれだけ使い込んでいるの?」
「この家を買ったし、結婚資金とか、子供のこともあるんだ、すまない……」
アイザックは王立学園で会計を専攻していた。
だから信用していたのに、まさか、浪費癖があったとは。
これ以上、話しても、ろくな事にはならないだろうとエリーゼは諦めた。
「わたしはトランクに入る分だけの荷物でいいわ。他は置いて行くから、ぜんぶ処分して。どうぞカレンさんとお幸せに!」
エリーゼは着替えの洋服やクシなど最低限の日用品をトランクに詰め込む。
詰め込んでいるうちに悔しくて涙がこぼれそうになるので、空を見上げる。
ここで泣いたらダメだ、泣くな、エリーゼ。
「さようなら、アイザック」
エリーゼはうつむいているアイザックにそう言い残し、開店準備中で時間が止まったパン屋を飛び出した。
目指すは冒険者ギルド。もう、こんな王都にいたくない。帰る場所もない。
だったら、新しいことをしよう。
エリーゼは顔をあげて、歩き始めた。
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