9 王子は意外と手芸がお得意
早朝の勉強会は、私とユージンとシャーロットの三人で、図書室横の休憩スペースを使って行った。
王立学園の成績は、中間考査と期末考査の合計点で決まる。基本的には各百点で、合計二百点満点中、百点取れれば単位は取得できる。
そして、専攻科目により難易度も個人により大きく異なるが、全教科の平均点で学年順位が決められる。難しい科目を専攻している学生には厳しくなるため、実際のところ、全体順位はそう重視されていない。科目毎の順位も個人に知らされるため、政策や外交など難しい科目を専攻する学生は、そちらを目安にしている。
目下、順位はどうだっていい。目指せ合計百点以上、が今の旗印である。
「そもそもが簡単な科目を選択しているから、期末で高得点を取って挽回も、不可能ではないかもしれないわ」
「でも、数学は厳しいね。この際、数学は捨てて他に集中するかな」
「教養と文学は私が見ますわ。ユージン様、コルド語はお得意かしら?」
「普通かな。でもいいよ。じゃあ僕が、コルド語と国史を見よう」
こうやってシャーロットとユージンは、さくさくと私の試験対策を立ててくれる。
私はそんな彼等にせめてものお礼、と軽食と飲み物を準備している。これでも料理は結構得意なのだ。
「他は……。音楽のピアノに、声楽、裁縫ですわね。どれも実技だわ」
「あっ。音楽は多分大丈夫。ピアノも声楽も、中間評価で九十点台だったし」
「へえ。さすがね」
あの日々の自主訓練が活きたと思うのよ。だって、声楽では歌う時の姿勢が良いって褒められたもの。ふふふ。
「じゃあ、やっぱり記述試験が問題だね」
「あと、授業はちゃんと聞いた方がいいわよ。よく叱られているものね」
「……それは、当然だよ」
気のせいかしら。ユージンの声がテオ並みに低いんだけど……。
という訳で、寮に帰ってからの時間を潰したくない私は、ユージンとシャーロットからの課題を、休憩時間を潰して頑張っている。つまり、休憩など皆無。
それをまた翌朝持って行って、二人に見てもらって。
そんな風に、七月末の試験に向けて、ひたすら勉強した。絶対に楽団は辞めたくない。そのためだったら、勉強だってしなくては。
申し訳ない気持ちでいると、シャーロットは、「アメリに教えながら、私も勉強になるから丁度良いのよ」と笑ってくれた。
本当にありがとう、シャーロット、ユージン。
* * *
ただ、裁縫は別だ。
音楽の話をして躱したが、刺繍の課題は先生に受け取りを拒否されるレベルで出来ない。
しかも、嫁入り修行のような目的で入学した学園で、裁縫の単位も取れないと聞くと、両親は何と言うか……、うん、想像するのはやめにしよう。
音楽棟の裏庭で、一人でベンチに座って、刺繍の教科書を広げてみる。
練習に来てみたら、今日と明日は練習が中止になっていたらしい。何でも、明後日の弦楽部のサロンコンサートに、王妃陛下がいらっしゃる事になったとかで、弦楽部が集中して練習したいかららしい。
「管楽器の喧しい音が混ざっては練習にならない」とか、あんまりな言い種だと思う……。
かと言ってこちらも、暑くなってきたこの時期に、窓を閉め切って吹くなんていう拷問は、願い下げだ。
ハリーが友好的だったから気付くのに遅れたが、どうも、管楽部と弦楽部は仲が悪い。
弦楽部は管楽部に対して「喧しい」と言い、管楽部は弦楽部に「お高く止まっている」と言う。
楽団の外の生徒達には、同じ「楽団」と呼ばれる私達にも、どうやら色々あるらしい。
私個人としては、ヴァイオリンも好きだし、何もお互いそんなに嫌わなくても、と思うけど。
多分、テオもそうじゃないかな。テオからは、弦楽部に対する否定的な言葉は聞かないし、そもそも、そんな学生間の諍いには目も呉れていなさそうだ。
…………。
私にとっては、無理にでも入れてもらって、必死に食らいついていたい楽団だけど、きっと、この先も王宮に召し抱えられて演奏を続けるテオには、たった四年間の通過点に過ぎないのだ。
あ。なんか寂しくなってきた。
何だか落ち込んできたな、と気持ちを切り替えるべく、手元の図案を見る。
……まあ、あっちのもやもやから、こっちのもやもやに飛んできただけなんだけど。
著者のオルガ先生とやらよ、どうしてこの図案集のページ数を、もっと少なく三分の一くらいに抑えてくれなかったのか。最早、顔も分からない刺繍界の著名人ですら恨めしい。
一年前期の裁縫では、この本の図案をすべて刺繍することで、単位を認められる。
授業や課題で、半分まではやってあるのだ。終わった物の出来栄えはこの際もういい。あと一月半で、残り半分を仕上げなくてはならない。
「アメリ、音楽棟に来ていたんだね」
不意に、棟の陰から明るい声音が聞こえてくる。
「ハリー様。弦楽部は練習中なのでは……」
「今、休憩中なんだ。アメリっぽい姿が見えたから見に来てみたら、本当に来ていたんだね。何をしてるの?」
ハリーはそう言ってこちらに歩いて来ると、ベンチの私の隣に腰を下ろした。
そうか。休憩中か。それでわざわざ私なんぞの様子を見に来てくださるなんて、活動的なお方なのね。
「いえ、練習がお休みなのを知らなくて。せっかくだから、ここで弦楽部の練習を聴きながら、刺繍の課題をしようかと」
「へえ。聴いてくれていたんだ。どうだった?」
「あ、まださっき来たところなので」
それも本当だけど、どうだったも何も。まだ個人練習だったし。何と答えたら良いのか……。
ヴァイオリンは独奏しか知らないけれど、弦楽の合奏って、どんな感じだろう。あの中に入って演奏してみたら、やっぱり、今みたいな楽しい刺激がたくさんあったのだろうか。
しかも、ヴァイオリンなら多分人並みには弾けるし、先輩の一人はこの陽だまり王子ハリーだしね。今の、魔王様のブリザードに固まる日々とは、少し違ったかもしれない。
まあ、入団前はトランペットもそこそこ吹けると思っていたのだ。無知って恐ろしい。そう思うと最早、ヴァイオリンは人並み、もちょっと自身がなくなってきた。
「刺繍か。頑張り屋のアメリのことだから、完璧に仕上げようと、根を詰めすぎてはいないかい?」
ほら。このにこにこした微笑み。こっちまでつられて微笑んでしまう。
「いえそんな。完璧を目指すだなんて。私にはそのような腕前がないのです」
「刺繍も君達女性の言う、腕がないとは、僕等男にとってはそうでも……、えっ……?」
どうした王子。私が取り出した布を見て、笑顔が曇ったではないですか。
なんとか辛うじて口角だけは上がっているものの、目は瞬きが増えて、眉なんて完全に下がっている。
そうか。この優しい人を戸惑わせてしまうくらい、私の刺繍の出来は酷いのか。
「これは……、個性的だね」
別に、アレンジして個性を出したわけではない。
へえ、とハリーは図案集と私の刺繍をまじまじと見比べている。もうやめて欲しい。ああー、恥ずかしいー。
図案集の巻頭には、それぞれの刺し方について、細かい説明付きだ。今度は、そこを見ながら、「ふーん、なるほど。こうなっていたんだね」と、興味深そうにまた私の刺繍を観察している。
「いつも、完成した物しか見た事がなかったから、興味深かったよ」
お。王子の陽だまりスマイル復活。
いやそれ、一応完成品なんだけど。……とは、言えない。
「刺し方が分かりましたか? お試しになってみます?」
そんな出来損ないをじろじろと見られてしまった恥ずかしさからか、少々、嫌味っぽくなったか? でも分かったなら、教えて欲しい。
「僕が? いやさすがに無理だよ……」
「興味深そうにご覧になられていましたし、ぜひどうぞ」
「えー……?」
何だか、ついやさぐれて意地悪になってしまう。
そう言いながら、刺繍枠に嵌めた新しい布と針を渡すと、ハリーはおずおずとそれらを手に取る。押しに弱いな、この人。どうぞ遠慮なさらず。失敗を見越して、シャーロットがたくさん彼女の残りを譲ってくれたので。
「ええと?最初は……」
「最初は、一針くらい進んだところに裏から刺して……」
「一針ね。裏から……と」
そのまま本当に針を持って、実際に刺し始めたのは、さすがに想像を超えていたけれど。
「次は……?」と笑顔も忘れて、真剣な面持ちで、目の前の布と本を交互にじっと見つめて、刺繍に取り組むハリーは、色々と彼のイメージと違いすぎる。ニ歳上の侯爵令息に、失礼にもちょっと可愛いと思ってしまった。
が。
「うーん。もう少し布をしっかり張った方がいいかな」
「目が均一で真っ直ぐにするには……」
「ここの力加減かな……?」
とかぶつぶつ呟きながら、十分もすれば、私よりも格段に綺麗なバックステッチとチェーンステッチを刺してしまった。
その間になんと、二階からは弦楽部の全体練習が始まった音が流れ始めてしまった。ねえ、没頭しすぎじゃない? 途中で「あの、練習……」と声を掛けても、全く気付きやしなかった。
「意外と面白いものだね。この布、良ければいただいてもいいかな。今度代わりの布を用意するよ」
「それは全然構いませんが……」
「あっ。合奏始まってるね。じゃあ、僕は行くから。またね、アメリ」
そう言って、ハリーは音楽棟の中に帰って行った。
そこはかとなく、生き生きしていたな……。私、ハリー王子の新しい扉を、開けてしまったかも知れない。
* * *
翌日は、元から練習がないことを知っていたため、音楽棟に行くつもりはなかったが、食堂ですれ違ったハリーに、
「今日、渡したい物があるんだけど、少しだけ来れる?」
と言われ、練習前の時間に音楽棟に寄ってみた。
私が中まで入るか迷っていると、丁度ハリーがやって来て、「アメリ、こっちに来て」と促すままに、昨日と同じベンチまで来た。
何だろう。いつもと同じ笑顔に見えるけど、いつもより更に明るいような……。
「これを見て欲しい」
と、ハリーが差し出した紙袋の中を覗いてみれば、中には新しい白色の端切れと、何か刺繍された端切れが。
「昨日、あれから僕が刺したんだ。どうかな」
えっ。あれから?
紙袋から取り出した布には、仕上がりも美しい葉っぱの刺繍。ご丁寧に、それを囲むようにチェーンステッチで楕円にも刺してある。裏から見ても、結構綺麗。
「母に話すと、道具を一式貸してくれてね。まだ、このくらいの図柄しか刺せないけど」
開いた口が塞がらないとは、まさにこの事。失礼遊ばせ。下っ端とはいえ貴族令嬢が、呆けた顔をしてしまいましたわ。でも仕方ないと思う。
このくらいって。十分でしょ。一晩でどこまで覚醒してるの、この刺繍王子。
「君の事も話すと、ぜひ今度教えてあげるよって言っていたよ。刺繍が得意なんだ、僕の母」
そんな害がなさそうな顔で、にっこり笑っちゃって。
何て事ー! 私の不器用が、メイリントン侯爵夫人、いえ、国王陛下の妹にまで伝わっちゃってる。
「課題、もし良かったら僕が一緒に見てあげようか?」
と、にこにこ笑いながら提案するハリー。
うん、そうね……。
一晩でここまで上達したその奥義、私にも伝授してほしい……。




