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3 侯爵令嬢の突撃


 痛い。何だかお腹も背中も痛い。あと腰も痛い。


 テオに受けた助言、いや指示か、それらを元に、昨日寮に帰ってから、早速腹筋と背筋に挑戦してみた。

 私の部屋のベッドなんて、そんなに上等でふかふかというわけではないけれど、それでも、ベッドの上では腰が沈み込んで難しくなったので、床を掃いて綺麗にしてから、床で腹筋をすると、今度は床が固くて腰が痛くなってしまった。

 あれやこれやと試しているうちに、昨日は初めてだったにも関わらず、腹筋を合計四十五回やっていた。


 ちなみに背筋は三回だ。布団の上の背筋は、あまり頭が上がらないと息苦しいし、床に腹這いになるのは、何か嫌だ。床に仰向けも本当は嫌だ。

 うーん、どうするかなー。



「そこの貴女、ちょっとお話がありますわ」


 腹筋専用に小さな絨毯を買うとかしたら良いのかな。そこだけは日頃踏まないように綺麗にしておいて。

 あ。人にぶつかりそう。危ない危ない。


「聞いてますの? そこの貴女よ!」


 いっそ、腹筋の時だけ広げるようにするとか。でも腰が痛くならないように厚みが欲しいな。


「そこの焦茶色の髪の貴女よ! 私が声を掛けているのだから、止まりなさいよ!」

「えっ……!?」


 うわ。びっくりした。私に言ってたのか。

 耳元で大声を出されて、思わず耳を押さえて肩を竦める。これから音楽をやろうっていうのに、耳が壊れたらどうしてくれるの。


「いえ、まさか私に声を掛けられていたとは露知らず……」

「貴女以外に誰がいるのよ」


 えっ。他にも廊下を歩いている人はいますけど……。

 と、周りをきょろきょろと見回してみる。だって、知らないもん、この人。


「では、せめて正面からお声を掛けてくださいませ」

「……貴女、私の事を正面から避けられたわよね?」

「そうでしたか? 申し訳ございません。考え事をしていたもので」


 目の前にいるのは、レディッシュブラウンって言うのかな、赤い髪に翡翠みたいな緑色の瞳をした、目鼻立ちのくっきりしたご令嬢。睫毛もバシッと詰まって長くて、昨日私が存在を否定された胸がしっかりある、羨ましい要素満載の美女。

 誰なんだ。見るからに位が高そうなんだけど。


 腕を組んで。つんと澄ました顔で、私の顔を睨んでくる。

 この姿勢……。昨日の魔王の駄目出しを思い出して、少し気が重くなる。


「まあいいわ。私、一年のフレア・キャンベルと申しますわ」

「はい……、私は一年のアメリ・クラインと申します」


 以後、お見知り置きを……、とは言いたくないな。何か面倒臭そう。一応、スカートを持ち上げて、小さく礼をする。

 キャンベル、キャンベル……、確か侯爵家だったかな。そんな侯爵令嬢様が、私如き、一男爵令嬢にどんな御用が?


「単刀直入にお聞きしますわ。貴女、ハリー・メイリントンとは、どのようなご関係なのかしら? 私、彼の一番親しい幼馴染ですわ」


 ん? ハリーって誰だっけ? 

 私は、ふと視線を上に向けて思い出そうとする。


「ちょっと。しらを切るおつもり?」

「いえ、すぐ思い出せないという事は、大した関係ではございませんので、どうぞ、お気になさらず」


 あ、待って。聞いた事がある。ということは最近だ。

 では、楽団員かな。


「一昨日、貴女とハリーが、連れ立って校舎を出て行かれるところを、私がこの目で見ておりますわ」

「……あ!」


 やっぱり。そうだ。何故忘れていたのか。王妹の息子にして美貌の侯爵令息という、あのハリー・メイリントンだ。

 腹筋のせいで、頭からお腹に血が行ってしまったのかな。超有名人なのに、すぐに思い浮かばないなんて。あんなに親切にしていただいたのに。

 どういう関係かと聞かれたら、仲間だ。彼自身が、そう呼んでくれたから。でも説明するのは面倒臭いなぁ。


「やはり貴女、ハリーを好いて……!」

「いえ、思い出しましたが、やっぱりキャンベル様が、わざわざ気にされる間柄ではございませんので。では、失礼致します」


 侯爵家同士ですものね。ハリーも美しいけれど、フレアも美しい。婚約相手として、お似合いですよね。

 フレア様、ちょっと怖いけど。でも、恋しい人に妙な女が近付いていたからと言って、こうして突撃してくるあたり、可愛いものよね。


 まだ終わっていませんわよ、とフレアが言っていた気がするが、ここでもたもたしている訳にはいかないのだ。





「おい。二日目から遅刻か。お嬢様の貧弱な足ではここが遠ければ、誰よりも早く出て来い」


 何故ならば。フレアの猫みたいな可愛い吊り目よりも、私はこの魔王の、氷みたいな三白眼の方が怖い。




  * * *



 唇が腫れた。ひりひりする。

 

 今日の練習では、ひたすら基礎練習を行った。

 ロングトーン、レガート、スタッカート、アクセントをつけて長音階、短音階のスケール練習。三度の和音練習をそれぞれ一音、二音、三音とパートを変えて三通り。

 トランペットパートで音程をきっちり合わせて、全体練習の基礎練習だけ参加して、これだけで、今日の私の練習は終了した。


「和音は、チューニング通りに音出してれば良いってもんじゃないんだぞ。楽器は機械じゃない」

「一音の時は、今以上にしっかり音を鳴らせ」

「出せばいいってもんじゃない。がなり上げてどうする」


 まあ、他にもいっぱい言われたんだけど。

「大丈夫大丈夫、頑張ってついてきてるよ」って、慰めてくれるユージンが、神様に見えた。でも、彼の足も引っ張ってるなぁ、ってこの神様にも申し訳なかった。


 怒鳴られるわけではない。テオは、声を荒らげたりはしない。と言うか、通常運転で既に十分冷たく厳しい声色なのだ。

 吹いている最中でも、「あっ、しまった」と思って恐る恐るテオの顔を覗き見た時には、十中八九、ぎろりとあの冷たい目で見られている。怖いから知らん振りした時でも分かる。何か、冷気が突き刺さる。

 

 分かってる。私が力不足なのが悪いのだ。

 言われてもっともな事しか、言われていない。何なら、本当はもっと言いたい事があるんだろうなー。何か言いかけて、口を噤む姿も見た。まだ、テオなりに加減してくれている。本当は、魔王呼ばわりしてごめん、とも思ってる。


 合わせるって難しいのね。これまで叔父に教わりながら一人とか、叔父と二人でしか吹いたことがなかったから、和音とかこれ程に気にしたこともなかった。


 ただその分、トランペット三人の和音がばっちりはまった時、合奏で難しいフレーズを三人共が綺麗に吹き切った時、テオは笑わないまでも、表情を緩めて楽しそうな空気を醸し出す。私もそんな瞬間が楽しいから、彼等とそんな瞬間を共有できる事が、本当に嬉しい。


 良い音が出れば良いと言ってくれるし、個人練習では苦戦していれば丁寧に助言もしてくれる。何もずっと怖い訳じゃないんだけどなぁ。

 

 部内全体での練習では、基礎練習の後は、貰った楽譜を見ながら、皆の合奏を聴いていた。

 昨夜、一応譜読みはした。でも、読むと聴くでは違った。



 ちなみに、腹筋が痛いとつい背中を屈めてしまっていたら、


「最初から無理するなって言っただろ。姿勢を良くするための腹筋背筋で、何故猫背になっているんだ」


 とやっぱり怒られた。いや、あの細めた目は呆れていたのか?

 そうか。あれ、姿勢を良くするためのトレーニングだったのね。




 唇、二倍くらいになったんじゃないかなー、とか思いながら寮までの道を歩いていると、


「お疲れ様。管楽部の練習はどうだい?」

 と、背後から声を掛けられた。


 ハリー・メイリントンだ。弦楽部自慢の楽団の王子。


「お疲れ様です。克服すべき課題が多くて、頭もお腹も痛いです」

「はは。お腹は早速筋肉痛かな。どう? 念願の楽団は楽しい?」


 こうして改めて見ると、ハリーの笑顔は美しいだけではなくて、明るい上に優しいな。さっきまで、テオの氷の刃でぐさぐさ刺されていたから、この陽だまりみたいな笑顔が沁みるわ。


「はい。楽しいです」


 自然と私も顔が綻ぶ。

 唇もお腹も痛いけれど、楽しい。こうして同世代の色んな人と一緒に楽器を吹く事が。イベントでの演奏という目指す物がある事が。


「そうか。良かったね」


 ハリーも安心したように微笑む。案内して、入団の後押しをしてくれた手前、気に掛けてくれていたのかな。遥かに高貴なハリーの気遣いに、胸が温かくなる。


 あ、そうだ。ハリーと言えば、


「今日、フレア・キャンベル様とお会い致しました」

「えっ……? ああ、そうなんだ……」


 お。この露骨に引き攣った表情。どういう意味かしら。


「フレアは、何だって……?」

「いえ、先日、音楽棟にご案内いただいた様子を偶々ご覧になられたらしく、ハリー様とのご関係を聞かれましたので、ご心配されるような間柄ではない、とお伝えしておきました」

「そう……」


 あれ。ハリーとフレアは、婚約関係にあるわけではないんだっけ? 末端貴族にはご縁のない方々だから、情報が少ない。

 でも、同じ学園にいたらこんな事も有り得る訳だから、迂闊に声を掛けては駄目な人を把握しておくためにも、ある程度情報が必要だったわ。


「いや、親同士が友人で、僕達も幼馴染なんだけどね。時々、こうして他のご令嬢方に、ご迷惑をお掛けすることがあるから……。ごめんね」


 と、ハリーは笑顔だが、その口調はしどろもどろである。よく見れば、その笑顔もちょっと困って見える。


「迷惑ではございませんよ。可愛らしい方だと、思っておりました」

「そう……?」

「はい」


 大好きな幼馴染のために、こうして見ず知らずの男爵令嬢の前までですら、真っ向から突撃してくるのだ。可愛いものではないの。


「キャンベル様と、ご婚約されていらっしゃるんですか?」


 してあげたらいいのに。そうすればもう少し落ち着くのではないかしら。

 いや、むしろあの突撃に大義名分を与えるだけか。まあ、あってもなくても突撃するんだろうから一緒だけど。


「いや、婚約という話は出ていないよ。キャンベル家は、父方の祖母の生家でもあるんだ。政略結婚の対象ではない」

「そうですか……」


 いえいえ、政略結婚じゃなくて恋愛結婚でね。

 でもそうなると、ハリーの気持ちもあるから、そう一筋縄では行かないのでしょうね。難しいわね、結婚って。


 こんなところを誰かに見られていたら、またフレアの突撃を喰らうなぁ、と思いつつ、一応周囲の目がないか警戒しつつ、寮までの家路を歩いた。

 途中、学園の門前で、ハリーとは別れた。


 さて。明日は休日だ。

 髪を切りに行こう!




 

 



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