20 音楽は友を呼ぶ
もう少ししたら、歌劇場での舞台を控えている。練習に勉強に、あとやっぱり溜まりつつある裁縫の課題に、それなりに忙しい日々を送っているのだが、その中に、もう一つ。
「まあ、この方、とても綺麗な曲をたくさん遺されている方なのに、随分奔放な方なのね」
音楽史の本を読みながら、驚いたとその大きな吊目を更に大きく真ん丸にするフレア。
空き時間が合えば、こうして食堂奥のサンルームで、フレアの音楽の勉強に付き合う時間が追加された。
「シャーロットも見てご覧なさい。王宮で即興で弾いた曲が、鼻水をテーマにした曲だったなんて。信じられないわ」
「ふふ、さぞ美しい鼻水だったのでしょうね。面白い方ですわね」
多分違うと思う。
あれね、即興演奏を言いつけられたけど、鼻水が止まらなかったピアニストが、鼻水がこぼれ落ちないように堪えながら弾いたっていう。右手が上に下に白鍵黒鍵も入り乱れて忙しなく動き、ピアニストの焦りが見えるような曲だ。
今日はシャーロットも一緒だ。ここに時間が合えば、ナディアやメアリー、フレア様のご友人が加わったりする。
金色の髪をふんわり揺らしながら穏やかに微笑むシャーロットの前では、フレアも毒気なく無邪気に見える。
緑色の吊目で猫を思わせる容姿のフレアには、これまでさんざん威嚇されてきたけれど、一旦慣れてしまえば、今度は随分と人懐っこい。
人馴れしない猫がやっと懐いてくれたみたいで、妙に可愛く見える。
ちなみに、私はその横でシャーロット監修の元、裁縫の課題に取り組んでいる。
「アメリ。貴女、その腕でよく私に刺繍も練習しておくと良いなんて助言出来たわね」
「まあまあフレア様。これはこれで味があって私は好きなんですよ」
シャーロットのフォローとも言えないフォローを受けて、フレアが私が縫ったコースターを眺める。「ほつれてるわよ?」と怪訝な顔をしているが、一つは一つだ。せっかく仕上がった貴重な作品なので、壊れないようそっとしておいて欲しい。
「何故、刺繍なのかしら?」
「ハリー様のお母様は、刺繍が大層得意だとお聞きしましたので」
「まあそうね。メイベル様の刺繍の腕は素晴らしいわ。私も小さい頃、刺繍入りのポシェットを頂いたわね」
「随分可愛がってもらっていらしたのですね」
「そうね。親戚だからでもあるかも知れないけれど。メイベル様は、お上手なだけではなくて、仕上げるのがとても早いの。だから作品も多いのよ」
なるほど、それはハリーにしっかり遺伝されたのですね。
ハリーの母君は、メイベルという名だ。メイベル・メイリントンか。駄洒落みたいな名前ね……っと、失礼だったわ。いけないいけない。
「ねえ、ところで気になっていたのだけれど……」と、フレアが話題を変える。女子が集まれば、次から次に話題って湧いてくるわよね。これぞ女子トーク。
私は丁度、糸と針に向かい合って玉結びに取り組んでいる最中だったので、「はい何でしょう」と生返事を返す。
「貴女、ハリーとは違う別の方をお慕いしてるって話していたわよね?」
はい? 急に何を??
「あら、テオ・エドワーズ様ですわよ、フレア様」
こらー! なぜそんなに簡単に喋っちゃうの、シャーロット! あ、痛い! そっちに気を取られていたら針が指に刺さってしまった。結び目も解けちゃうし、もう……。
「やっぱりね。同じトランペットだし、親密そうに見えたものね、貴女達」
「親密そうに見えましたか?」
「まあ、気にしてみたら、そう言えばテオはアメリの事を気にしているように見えるかしら、ってくらいだけど」
あ、それは私がしくじったりしないか監督している目ですね。親密というより、心配とか、場合により警戒とか。
「そう、テオなのね。昔から知っている者とすれば、テオなんて、目付きが悪くて愛想も生意気で礼儀もない人くらいにしか思えないけど」
「昔から親しいのですか?」
「親しくはないわよ。ただコンサートに行けば大体いたし、エドワーズ家の三兄弟は有名だったもの。歳も近いから空き時間には一緒に遊んだ事もあるけれど、そのくらいだわ。向こうは私の事なんて覚えていないかも知れないわね」
小さい頃からあんな感じなのね。生意気ってテオの方が歳上では、と思ったけど、高貴な方々は爵位とかも関係ありそうだし、黙っておく。
「ああでも、テオといえば、大抵アイリス様が傍に置いて可愛がっていたわね。あんな愛想無しを可愛いだなんて、アイリス様は物好きだと思っていたけれど」
思いがけずと言うか、急にアイリスの名まで飛び出してきて、ぐっと息を飲み込む。すかさずシャーロットが応じる。
「アイリス・ロンドベル嬢は、テオ様と婚約予定なんて噂がありますが、本当なのでしょうか?」
シャーロットもここ最近ずっと、聞きたくてそわそわしてたしね。絶好の機会が来たと、ここぞとばかりにフレアに尋ねる。
「さあ、知らないわ。そんな噂もあった気がするけれど。でもアイリス様が、テオを一方ならず気に入っている事は確かだと思うわよ」
「では、いずれ……?」
「どうかしらね。私、あの方苦手なのよね。私だけヴァイオリンの話もついて行けないし、どうも馬鹿にされている気がして」
はあ。最初は随分と高慢なお嬢様だと思えたフレアが馬鹿にされるとは、更に偉そうって事かしら……。気が重いなぁ。何しろ、
「今日の放課後、管楽部の練習を見たいって、アイリス様がいらっしゃるんですよね……」
アイリスが私に会いたいと言っていると、テオに告げられたのだ。
お気に入りにテオに近付く私の品定めかな。いや牽制?
前回来た時に、もう十分見たんじゃないかな。ちょっとしか目を合わせてないけど、十分威圧して帰って行ったじゃない。あー、会いたくないー。
* * *
そんな心配をよそに、放課後の練習はやってくる。
その練習に、アイリスもやってくる。
「貴女がアメリ様ね! 普通の女の子だと思っていたら、舞台の上ではあんなに素敵だなんて。私、貴女と仲良くなりたいわ」
のっけから予想外のアイリスの様子に、私は呆気にとられる。やっとの事で「はあ……どうも……」と返すが、開いた口が塞がらないとはこの事だ。
うわー、俺もソロ吹けば良かったー、とか後ろで誰かが騒いでるが、アイリス様は丁寧にそちらにも「ふふふ、次楽しみにしておりますわ」と微笑んで見せて、今日も部員達を着実に骨抜きにしていっている。
あら。意外と友好的……??
ただ、「よろしければ、私達の練習も聴いていって下さいな」と、部の練習後のアイリスとテオの個人練習に誘われた時は、少々冷ややかな空気を感じた。
冷気を出すのが得意技のテオからではないな。
さっき可愛らしく「仲良くなりたい」と話した、アイリスの紫色の瞳が、私に向けて冷ややかな光を放つのを見て、思わず緊張する。全然、仲良くなりたそうじゃないじゃない!
何よ何よ、二重人格なの?
訳が分からないまま、「では、是非」とこれも何とか返事をして、今日もテオの手を取ってピアノ室に向かうアイリスについて行く。
「アメリ様は、ヴァイオリンも嗜まれるとお聞きしましたわ。是非、何かご意見があればお聞かせ下さいませね」
そう言ってにっこり微笑む顔も、どこか好戦的に見える。いや、ぱっと見は天使なんだけどね。
これは、トランペッターの私とは仲良くなりたいけれど、ヴァイオリニストの私には負けないわよ、っていう、一種の縄張り争いなのかしら。ややこしいな。
アイリスは、私には笑顔で冷ややかな視線を投げかけるけれど、テオには親しげに優しい視線を向ける。何て器用なのでしょう。その切り替え凄いわ。
チューニングを済ませると、「一回通してみましょうか」というアイリスの合図で、演奏が始まる。
二週間以上も前から毎日合わせているためか、そもそも昔から一緒に演奏する機会が多かったからか、息もぴったり合う。
アイリスは曲の世界に入り込みながら、時折柔らかい表情でテオを見る。その顔が何とも幸せそうで、可愛らしくて。テオもアイリスの動きを見逃すまいと集中している。
それにしても、アイリスって本当に小柄なんだと、ヴァイオリンを構えると、尚更思う。手も小さい。全体的に線も細くて華奢だ。
手が小さければ、指が届きにくい所も出てくる。あ、随分大きく手が開くんだわ。あれって、練習で指を解して日々開いていったのかしら。弓だって、あの細い腕で力を乗せて音を出すのは大変そう。
たくさん弾き込んでいるのかな。細かいパッセージも一つ一つの音が丁寧に鳴らされていて、それでいて優美な感じ、アイリスのイメージとも相俟って、本当に綺麗な音。
音色がそもそも、繊細で、細いようでいて深みもあって、私にはこんな音出せないかも。テオの伴奏は、そんなアイリスの演奏を支えるように、曲調もあってか柔らかい音で、いつも練習室で聴く独奏とまた違う弾き方に見えた。
私なら、このアイリスの演奏にどう合わせるのかしら。実家で姉とヴァイオリンとピアノで演奏する時、私はいつもヴァイオリンだったから、改めて考えてみれば、私はピアノで伴奏なんてした事がなかった。
もっと、軽やかな音にするかしら。あの十六分音符の動きはもっと目立たせたいかも。あと……
「……ちょっと。そんなにじろじろ見られたら弾き辛いわ」
あら。残念。止まっちゃった。
アイリスが元々は形の整った眉を歪ませて、変質者でも見るように私の顔を見ている。テオはそんな私達を、主に私を呆れ顔で見ている。心做しか、苦笑しているようにも見える。
「何よ。何か言いたい事でもありまして?」
「あ、いえ、とっても優しくて、綺麗な音で、素敵な演奏でした!」
「あ、ああ、そう。ありがとう……」
「アイリス様の音って、繊細だけどしっかり響きますよね。手も小さいのに指が大きく開くし、ポジションに合わせて細かく手を動かしているんですね。でも余裕があってゆったりしたイメージはそのままで」
「え……、そうかしら……」
「アイリス様にしか出せない音、って感じがします。演奏会、楽しみです!」
今はまだ、私も含めて、一部からは風当たりの強い女性音楽家だけど、アイリス様のような知名度のある方が、どんどん世に出ていってくれれば、もっと音楽会の住心地も良くなると思うのよ。もちろん私も。それが、
…………えっ。何故。
アイリスが、ヴァイオリンを抱いて、ぽろぽろぽろぽろ、涙を流し始めてしまった。テオが珍しくぎょっとした顔になる。いや、あんまり珍しくないかな。意外と表情豊かよね、この人。
「そうよ。私だって、私だけの演奏をもっとしたいわ……。楽団だって、入りたかったのに、皆、取り合ってくれなくて……」
アイリスが、こどもみたいにくしゃくしゃに泣き顔を歪めて、声を途切れさせながらも、ゆっくり話す。
「貴女は良いわね。楽団の活動も、ご家族が、応援してくれるのでしょう?」
「あー……、そっとしてくれると言うか、何も知らせてないと言うか」
「黙って入団したの? 呆れるわね」
「はあ……」
アイリスは泣き顔のまま、ふっと小さく笑う。
「テオだけが認めてくれたのよ。いい音だって。また一緒に演奏してくれるって。だから、何とか絶望せずに生きてこれたの」
「え、俺……?」
アイリスが泣き出すという状況に、最初驚きつつも静かに話を聞いていたテオが、自分の話になって再び驚く。
「俺だけじゃないと思いますけど。公爵閣下も、アイリス様に大舞台を用意して、公爵家の方々も、練習する場を確保して下さったのでしょう? 公に音楽家として活動するかは別として、アイリス様が音楽を続ける事には好意的だったのではないですか」
「そうね。きっとそうだわ」
「私も、アイリス様と演奏してみたいです! テオより私の方が、アイリス様と合うかも知れないって思いました」
「おい。どう聞いたらそうなるんだ」
「そうね、いつかアメリとも一緒に演奏しましょうね」と、アイリスは言ってくれた。
練習と言いながら、その日は曲の解釈とか、表現方法の工夫について、ああだこうだと語り合って終わった。それについても、また一緒に話しましょう、とアイリスは晴れやかな顔で言ってくれた。
練習後、馬車で送ってくれるというアイリスの申し出を、テオは、「いえ、ちょっと頭を冷やして帰りたいので」と断ってしまった。「送っていくから、ちょっと付き合って」と言われて、私まで公爵家の立派な馬車を見送る羽目になった。うーん、ちょっとだけ残念。
「頭を冷やすとは?」
「いや別に。頭を冷やすというより、肩の力を抜くというか」
「ああ、テオって、アイリス様の前じゃ大人しい……」
「うるさいな。でもまあ、そうだな。緊張するんだよな。三歳上で、後ろにはあの爺さんが睨みを効かせてるだろ。アイリス様はああ言ってるけど、あの爺さん、孫を溺愛してるからな」
三歳上って、世間じゃ恋愛対象になってもおかしくない年齢差だけど、知り合った頃は六歳と九歳だから、まあ、テオには大きいのかも知れない。
「管楽部の魔王様が、素直に手を引かれていているんだもの。驚いたわ」
「だから誰が魔王だ……」
疲れた顔で溜息をついて、テオが「はい」と右手を出す。
何かと思ってその手をじっと見ていると、テオは何も言わず、差し出した右手で私の空いた左手を取って歩き出す。
ああ、そういう……。
テオと手を繋いで見れば、案外、アイリスとテオの距離の近さを気にしていたんだな、と気付く。
「テオとアイリス様が、婚約するって聞きました……」
「は? 何だそれ。どこから? ないだろそんな話」
予想以上に一刀両断されて、これはこれで驚く。
あの美女に特別扱いされて、心の拠り所どころか、唯一の生きる希望とまで言われて、これまで一度も心が傾かなかったと?
「絶対にあり得ないな。うちの父親とあの爺さん、ほとんど知られてないけど、昔から犬猿の仲だから。間違って話が来ても、平気で握りつぶすだろ」
ああ、そうですか……。
そうなんだ。もっと早く聞けば良かったかも。いやでもどんなタイミングで? そんなの、どう聞いても意味深になってしまいそうよね。あ、でも今聞いちゃった。何だか聞けそうな気がしたから……。
それにしても、エドワーズ家という特殊性はこんなところにもあった。爵位にすれば伯爵家のエドワーズ家が、遥かに格上のロンドベル公爵家からの話を、あっさり反故にするだろうとか。テオのこの人間性って、間違いなくエドワーズ家で培われたものなんだわ。
テオが「婚約か……」と、ぽつり呟いたその声は、私には届かないまま。




