19 ハリーの婚約者(仮)
アメリが舞台上に立ち上がった瞬間、客席は俄かにざわついた。
「アメリだわ」「何かするなんて聞いてないわよね」と、これはきっとアメリの友人達だ。
「青百合の君だわ」「堂々とされてて素敵ね」と、これはきっと楽団で男装しているアメリのファンだ。
「あれが例の……」「一部の女子が騒いでいるだけだろ」と、これはアメリの事を噂で聞いていただろう野次馬だ。
青い衣装を着て楽器を構えるアメリは、目が生き生きと輝き、楽しさと自信に溢れたその様は、人目を引き艶っぽくさえある。その色気は何故か、男よりも女の子達を魅了していると言えば、アメリ自身は不本意かも知れない。
でも、女子学生だけではない。現に今、こうして僕も、アメリから目を離せずにいる。
「ハリー、あの子……、女の子にも見えるわね」
隣には母がいる。
「女の子ですよ」
「あら。ではあの子が噂の新入団員ね」
母は、午前中の弦楽部の演奏を聴きに来たが、「ついでに噂の彼女の演奏も聴いて帰ろうかしら」と、今までいる。お陰で、顔が広い母に付き合わされて、色んな人に挨拶に回る羽目になった。
かのロンドベル公爵とその孫娘であるアイリスも来ていた。
楽団の女子部員に否定的な公爵と、こども時代からテオにご執心だと噂のアイリス。二人はこのアメリを見て、どう思うんだろう。
「ふふ、あの子があの奇妙な刺繍を刺す子だと思うと、親しみが湧くわね」
母は、以前僕が刺繍を始めた頃のアメリの話を思い出し、つい笑いが漏れるようだ。
僕も、今そこで堂々たる姿でソロを吹くアメリと、日頃のどこか抜けていて親しみやすく調子の良いところもあるアメリと、印象が違いすぎて戸惑う。
この曲は、以前にも聞いた事がある。
作曲家が自分の娘の誕生の際、妻と娘に贈ったという曲だ。優しく暖かい曲調なのだが、本来、トランペットのソロはない。今回、アメリのために作ったパートだろう。
アメリが奏でる旋律は、元の曲のイメージも残しつつ、彼女らしい明るさと、ある種の騒々しさが加わって、この曲の娘はどうもお転婆に育ちそうだ。
「可愛い子ね。貴方も気に入っているみたいだし、あの子がハリーのお嫁さんになってくれると良いわね」
演奏に聴き入っていた。
だから、母の言葉を飲み込んで、理解するのに、少し時間を要した。
母は、何と言った?
アメリと僕が、結婚すれば良いと?
僕の頭が整理できないまま、舞台では管楽部の演奏が始まった。とりあえず、今はいいか。演奏を聴こう。
でも、母がそんな事を言うから、管楽部の演奏中、ついアメリの姿ばかりに目が行ってしまった。
そう言えば、これまでもこうしてついついアメリの姿を目で追っていたかも知れない。出会った時から、何としても入団してやるというあの勢いに圧倒されて、入団後も大丈夫だろうかとつい気になって、見かけたら声を掛けて。
やろうと決めたら全力で頑張る子だから、こうしてトランペットの腕もめきめき上げて、苦手な刺繍だって結局なんとか全部やり切った。
ただ、没頭してしまうと加減を知らないらしく、無理をしても気付かないようだ。それは、友人のロバートからも聞いた事があるし、以前弦楽部の助っ人として参加してもらった時にも感じた。
だから、つい気になってしまうんだろうな。
でも、それは僕だけじゃない。今も、ちらちらとアメリの隣で心配そうに彼女の様子を窺っているテオもそうだ。
アメリが僕の妻として隣りにいる未来、か……。
僕には生意気で愛想もない、天才と呼ばれる幼馴染の彼が、アメリを前にすると、些か感情的になってちゃんと同年代の少年らしく見えるのを思い出すと、何だか一抹の罪悪感のようなものを感じるが、それさえおいておくと。
確かに、悪くないな、と思えたりする。
* * *
本番前まであんなに小さく見えたのにな。
本番の舞台を終えて、楽器を片付けるテオは、いつになく上機嫌に見える。と言っても、実際には淡々と片付けをしているだけで、別ににこにこしているとかではない。何となく、目元が楽しそうに見える気がする。
「まあ、今日は急遽大役が回ってきたからな。最後まで音程も狂わせずにもっただけでも上出来だろ」
自分の楽器をしまい終わると、私が横たわるソファまで来て、今度は私の楽器を片付け始める。
「ごめんなさい」
「本番後のソファ、すっかりアメリの定位置だね」
ユージンもやって来て、譜面台や楽譜を片付けてくれる。申し訳ない。
「ロンドベルの爺さん、面白くなさそうな顔してたな」
「えっ? どこにいたの? 私しくじってしまったかしら」
「一番前の真ん中にいただろ。別にしくじってはない。馬鹿にしてたアメリが思ったより吹いて、観客にも受けてたから面白くないんだろ」
そう言ってにやっと口角を上げるテオは、魔王様というより悪童みたいだ。
「まあ、一番腹が立つのは、あの爺さんに逆らうかの如く、わざわざアメリを全面に出した俺とロバートの態度だろうけどな」
私は、この悪戯っ子の悪戯を遂行するに足る働きが出来たらしい。良かった良かっ……
「まあ、調子に乗りすぎて、そこは突っ込まれそうだけどな。曲の情緒が台無しだとか言って。何なんだよ最後のトリルからのグリッサンド。やり過ぎだろ」
うっ……。
いや、余計な仕事もしてしまっていたらしい。もう取り返すことは出来ないので忘れるけど。
「でもアメリすごいよ。僕ならあんな舞台で初っ端にソロなんて……」
「ユージンやめとけ。こいつが調子に乗るだけだ」
「えー。テオは厳しいなー」
同感だ。大仕事と言ってくれるなら、もっと手放しで褒めて労ってくれたら良いのにー。あ、頭痛い。
「大体、楽器回して喜ぶ曲じゃないだろ」
だって、やってみたかったんだもん。
「まあでも、初めてのソロにしては良かった。がちがちになりそうなものだけど、良い音だった」
ああだこうだと言いながら手だけは手際良く動かしていたテオは、そう言うとふっと笑って私の肩をぽんと叩いて、他のパートの手伝いに行ってしまった。
ずるいな。駄目だ駄目だと言われてるのかと思えば、こうして持ち上げて。素っ気ないなと思っていたら、あんな風に偶に優しい顔をして見せて。
どうしたいのか知らないけど、とにかく、よしまた頑張ろう、って思ってしまうじゃないの。
あー、とりあえず片付けを手伝おう。
こうして、王立学園に入学して初めての学園祭を終えた。
次は、歌劇場の舞台に向けて、気持ちを切り替えてまた練習しないと。
* * *
もう、音楽に集中して過ごしたいのにな。私の、王立学園の学生という立場は、それを許してくれないらしい。
中間考査だ。前期はここで点数が取れなくて、学期末に痛い目にあった。今回は、絶対にここで点数を稼いでおかないと。
ユージン曰く、「春休みには王宮音楽隊の特別講習があるからね。追試を取ったら受講出来なくなるよ」らしい。
単位を落としたら即除籍はこのせいらしい。王宮音楽隊隊員から直々に教えを受けるという貴重な機会をふいにする団員は、団員の資格はない、と。思った以上に上下関係の厳しい世界だった。
ただ、私を放っておいてくれないのは学業だけではなかった。
「ちょっと。お話いいかしら? アメリ・クラインさん」
毎度お馴染みの、フレア・キャンベル侯爵令嬢。
うわあ。怖い。いつもより声が低いんですけど。さん付けで名前まで呼んでくれちゃって、どうしたのよ。ていうか、私の名前知ってたのね。
一人で詰め寄って来たり、ご友人と現れたり、背後からじっと睨まれていたり、色々な登場をされてきたけれど、今日はお一人で来られたようだ。
何だかいつもより暗く見えるけれど……。仁王立ちは相変わらずなんですね。
ちょっとこちらへ、と場所を移すのも初めてだ。
そう言われてフレアについて行くと、食堂を抜けて、その先のサンルームのような場所からまた外に出て、薔薇園になっている庭に着いた。こんな所があるなんて知らなかった。
フレアはそこのベンチに腰を掛けると、私にも同じベンチに座るよう促す。何と言うか、フレアとその背景の薔薇が似合いすぎる。
フレアに促されるがまま、私もベンチに座る。
「貴女、ハリーと婚約するのね」
「は!?」
言うに事欠いて何言い出したの、このお嬢様!?
「また知らない振りを通すの? メイリントン侯爵家からクライン男爵家に婚約を打診すると聞いたわよ」
「婚約を打診!? 我が家に!?」
いやいや、知らない振りじゃなくて知らない事だから!
「まさか、本当に知らないの……?」
「……逆に、キャンベル様は何故そんなも……、ご存知なのですか?」
何故そんな妄想を、と聞きかけて途中で飲み込む。
随分積極的に行動されるお嬢様だと思っていたから、つい前向きなのかと思い込んでいたけど、危険なレベルで悲観的なんじゃない?
「フレアで良いわよ。メイリントン家は、祖父と先代の侯爵夫人が兄妹で親しいのよ。何かあればすぐに祖父に報せが来るから」
「はあ……、そうなんですか」
だとすれば、あながち誤情報ばかりでもない?
それにしても、今日のフレア様は勢いもないし大人しいな。いつも私の人権は何処に、ってくらい傍若無人っぷりが凄まじいのに。
……とか思っていたら、そのフレアの顔を、一筋の涙が伝っていき、やがて落ちた。えええええ!? 泣いた!?
「ここに来て貴女と婚約なんて、ハリーが貴女を愛しているからでしょう……?」
「えっ? 愛……? いえいえまさか! そもそも本当に?」
フレアの両目から、涙が止まらずぽろぽろと溢れ続ける。いつも勝気で私には怖くて迷惑なばかりのフレアだからこそ、余計に戸惑ってしまう。
「いやだって、うち、男爵家ですし……」
侯爵家、しかも王家と縁続きの侯爵家なんて、そんな身の程知らずな。更にハリーってば跡取り息子だし。私が侯爵夫人? 無理無理。ちょっと待って、その上義理でも国王陛下の姪になるんでしょ。何その成り上がり物語。無理無理無理。
「クライン男爵家といえば、国家有数の貿易商よね。知ってるわ。そんな国内外の多くの貴族と交易があって、男爵家とはいえそんな家と繋がりが出来れば、メイリントン侯爵家にも有益だわ」
「ええ……? 貴族ってよりも商家の色合いの方が強いですけどね……」
「それでも貴族じゃないの。この違いは大きいわ」
「そうですか?」
うーん。そんなものかしら。メイリントン侯爵よ、もっと良い家良いご令嬢はいっぱいいらっしゃると思いますよ。
「私の何が足りないのかしら。貴女に劣る点なんて、何一つないと思うのに……」
それは謙虚さではないですかね。
まあ、確かに。顔も家柄も成績もスタイルだって敵わないけど。私が勝てる事なんて、楽器がいくつか演奏できるくらい……。ああ、まずそれかしら。
「フレア様、ちなみに音楽は何か?」
「出来ないわ。私、音感もリズム感もないのよ。ピアノは先生がいらしたけれど、すぐに見切りをつけられて辞めてしまったわ」
ハリーも大概音楽漬けになっている人だ。私との会話だって、楽団に関するものがほとんどで……。ちょっと最近、手芸の割合も多めかな。
「色んな曲を聴いて、音楽の知識を身につけるだけでも、ハリー様との会話は広がると思いますけど」
「だって、ハリーの周りには音楽馬鹿がたくさんいるもの。そんな中で、私の話なんて聞いてくれないわよ」
音楽馬鹿……。音楽取ったら、っていう。何人か思う当たる人がいるわね。差し詰め筆頭は、うちのコンマスかしら。もっとも、テオとハリーが親しく話す様子が思い浮かばないが。
「それでも、自分が好きなものに興味を持ってくれる人って、嬉しいと思います。フレア様は、物語は好きですか?」
「ええ、まあ好きね」
「曲も、案外色んな物語が表現されてますよ」
「それは聞いた事があるわ」
「調べてみると、公表されているのとは違う、裏の物語もあったりして。案外面白いです」
「そうなの?」
「はい。例えば、先週管楽部が演奏した一曲目。あれは作曲家が妻と生まれたばかりの娘に贈った曲ですが、実は作曲家が不倫を有耶無耶にするために作ったとも言われています」
「え、本当に?」
「はい。だから大袈裟なくらい、甘く優しい旋律なのだとも」
「それは、興味深いわね」
「そうでしょう?」
涙が止まり、ふふふ、と面白そうに笑うフレアは、怒り顔よりも幼く見える。えー、可愛いかも。本当に同一人物?
いつもこんな感じなら、ハリーだって逃げ回らないだろうに。
「そう、だから貴女のソロの終わりは、あんなに色々ぐにゃぐにゃで派手に終わっていたのね。実は波乱の幕開けって」
「えっ。いや、どうでしょう……」
ぐにゃぐにゃって! 派手は狙っていたけど、そんな風に捉えられていたとは! えええ、何だかショックよー。
「……ん? 私のソロ?」
「貴女なのでしょう? 青百合の君」
知っていたのか。てっきり、フレアは全く気付いてないかと思っていた。
「学園祭の周りの声で気付いた時はショックだったけれど、その後の婚約の話で、ショックも吹き飛んでしまったわ」
そうですか。
「でも待って。よく考えたら、ハリーも青百合の君も、私の憧れの方は、どちらも貴女に奪われているのね……。貴女の分際で、青百合の君だなんて持ち上げられて浮ついて!」
「えっ……」
ええ。待って。何かまたちょっと怖くなってきた。
しかも青百合の君なんて、奪うも何も元々私だし、誰も呼んでくれともちやほやしてとも言っていない。
でもフレアは、「まあ良いわ」とそのまま大きく溜息をつくと、何かを悟ったように微笑む。
「私、これまでハリーにこちらを見て欲しがるばかりで、歩み寄る事が出来ていなかったのね」
それは、これまでの二人をよく知らないので分からない。
聞く話から察するに、メイリントン侯爵家もハリーも、政略結婚に傾いているので、既に親戚であるフレアが選ばれる可能性は、そう高くないのかも知れない。
けれど、二人の関係が良くなってくれれば、これ以上とばっちりを受ける事も少なくなるので、どうか仲良くなって欲しい!
「あ、あと刺繍もやっておくと良いですよ」
「刺繍? 何? 貴女まさか刺繍した何かを、ハリーにあげたの?」
「いえ、あげてないです……」
もらっただけです。とは言えない。