絵を見ながら
色々なことがあった一週間。今までなら報告したいことが盛沢山で、話しきれなかったかもしれない。だけど今週は昨日も一昨日も栄お兄ちゃんの部屋に泊まったため、その日の出来事についてはおおよそ話せている。
特に何を話すでもなく、ただ画集を眺める。今日は私の見たことのない絵ばかりだ。青空が広がっていたかと思うと、籠の中の果物が描かれており、そうかと思えば蝋燭の火が現れる。
「先週言ってた、羽衣が恭弥と付き合うかって話だけど。」
何やら話し始めた栄お兄ちゃんは真剣な表情だ。その話は、そういうことがあったという報告のため、改めて話すようなことはない。
「うん、何?」
「羽衣が本当に恭弥のことを好きなら、望むようにしたらいいと思うよ。それからもう一つ。」
大事な話をしているとは分かる。分かるが、既に結論の出ている話だ。付き合っているという嘘を吐く必要が今はない。今後もなさそうだ。葉月くんの身の潔白のために侵入しても零ちゃんは怒ったのだから、付き合っていることにして偶然入り込んだという言い訳をしても聞き入れてもらえないだろう。
真っ直ぐに目を合わせて、深呼吸までして、もはや画集も机に置かれている。何を言うのだろう。
「俺は世界を越える方法を見つけるために最善を尽くす。けど、見つからないことだってあり得る。その時は、羽衣もこの世界で生きていくことになるって覚悟だけはしておいて。」
そんな覚悟できない。見つけられないということは、鏡の向こうの家族や友達に二度と会えないことなのだから。お母さんの作るご飯も、お父さんの作る炒飯も、お姉ちゃんの少し冷たい言葉も、お兄ちゃんの優しい温もりも、ここにはない。私は必ず帰るというつもりで世界を越える鏡を探しており、禁域のことだって探っている。
どうして急にこんなことを言うのだろう。見つからなかった時のことなんて、探している今考える必要はない。
「私は帰るの、絶対に。」
「もちろん俺もそうしてあげたいけど。色んな人がずっと探し続けて見つかっていないんだ。俺たちの生きている間に見つかる保障もない。」
それはそうだが、そんなことを思っていては調べられない。私はきっと帰れると信じていなければ、笑ってなんていられない。信じているからこそ、授業に出て、こちらでの友達と交流し、休日を楽しむことができているのだ。
「帰るもん。」
「うん、そうだね。」
再び画集を手元に寄せた。私にも見えるようにしてくれるが、あまり見る気にはならない。こんな時間も嫌いではないが、鏡の向こうでの時間を犠牲にしても良いと思えるほどのものではない。鏡の向こうに帰れるまでの間、寂しさを埋めるための時間だ。あくまで、隙間を埋めるための時間。
帰る方法がないかもしれないとは思いたくない。細い希望だと最初から分かっていたはずだ。それでもないと分かっているわけではないから、探しているのだ。それは探し始めた時から変わらないはず。それなのになぜ今、見つからない可能性があるという話をしたのだろう。ないかもしれないと思う何か、あるいは、ないと確信する何かがあったのだろうか。
「栄お兄ちゃんは、何か見つけたの?」
「いや、羽衣の帰り道に繋がりそうなものは何も。」
「嘘吐き。」
禁域への侵入方法についての本を、栄お兄ちゃんも見つけているはずだ。それを赤坂くんは教えてくれた。私には教えたくないと言っていたことも伝えてくれた。その方法を利用するかどうかは別として、手段として知っておくことは悪くない。それをただ伝えないだけでなく、教えたくないと言って、何もなかったと嘘を吐く。何かを見つけたとして、栄お兄ちゃんは本当に私に帰り方を教えてくれるのだろうか。
私の端的な言葉に、一瞬だけこちらを見たが、すぐまた逸らされてしまう。本を見ることもなく、ただ黙って何かを考えている。どんな言い訳をするつもりなのだろう。
「羽衣は、何を知ったの。」
「再構成で禁域に入れるってこと。」
「あれは駄目だ。危険すぎる。再構成前と後がどちらも自分だと認識できるか怪しい。羽衣だって、発狂はしたくないでしょ。」
赤坂くんが教えてくれたものは一部だったのだろうか。それとも栄お兄ちゃんの推測なのだろうか。しかし今問題にしているのはそのことではない。情報を私に共有せず、選択肢すら与えてくれなかったことだ。
「教えてくれても良かった。なんで教えてくれなかったの?」
「その調査記録があるってことは、実験がされてるんだよ。いったいいつから、実験はされてたんだろうね。行方不明になった子たちは、禁域にいるのかな。それとも……」
言葉が区切られる。言われなくても私にも想像できた。あの研究所跡に連れて行かれ、実験台にされた可能性を提示しているのだろう。『被験体記録』には人間についての記述もあると聞いた。それは禁域で行方不明になった子たちが、実験台にされていたのではないか。
ぞっとする想像だ。しかしあり得ないとは言い切れない。誰にも見つからずに禁域から研究所跡まで移動することも可能なのだから。寮の外側を大回りに移動すれば、特に夜間なら探索する者もいないだろう。
「羽衣には辛いと思うよ、あの研究所の内容は。知らないほうがいい。羽衣だけじゃなくて、今の葉月実にとっても辛いものになる。二人で調べようなんて思わないように。」
優しく言い聞かせるような声色。しかし、するなと言われるとしたくなる。あの研究所跡の本はまだまだ調べるつもりが元々あった。さらに葉月くんを連れて行くなと言われれば、なお何が隠されているのか知りたくなる。ただ鏡の向こうに帰る方法というだけではないのか。
「栄お兄ちゃんは何を見つけたの?」
「何も。羽衣は知らなくていいよ。」
何か見つけたからこそ、私や葉月くんが知ればどうなるか想像できた。自分は知っているからこそ、私は知らなくていいと言える。私だって自分が帰るために頑張っているのに、除け者にされているようだ。
「ほら、そんなふうに唇尖らせないの。今日も一緒に寝ようか?」
「いい。」
家にいるのだからそんなことしなくても桃園さんは来ない。ぷいと横を向いて、クッションを抱える。鏡の向こうにいた時だって去年私のお兄ちゃんが就職してからは一人で寝ていたのだから、今日も一人で寝られる。
クッションに顔を埋めて、ちらりと目だけを栄お兄ちゃんのほうに向けた。もう画集を見ており、私には目もくれない。何となく気に入らず、そちらに凭れ掛かる。
「どうしたの?」
それには答えず、さらに体重をかけた。戸惑ったような声は続くが、それにも答えない。こんなことをされれば画集を落ち着いては見られないだろう。
「もう、何?」
「別にー、何でもー?」
諦めたように画集を机に置き、私の頭を撫で始めた。こんなもので誤魔化されはしない。誘惑を振り切るように手を払い、向かい合って足の上に座る。ここからは私の真剣な話だ。
「栄お兄ちゃん、私だって小さい子じゃないんだからちゃんと知りたい。自分が鏡の向こうに帰るためなんだから、辛いからってその情報があるかもしれない所から目を逸らしたりしない。」
自分で調べて、知って、帰るためには必要のない情報だと思ったなら、無理にそれ以上調べることはしない。しかし、一部でも知らなければ、それが関係のある情報かそうでないかの判断すらできない。私は知りたいのだ。
そんな強い思いも通じなかったのか、眠る時のように抱き締められる。背中までとんとんと叩かれ、寝かしつけようとしているかのようだ。
「俺も全部調べられたわけじゃないし、分からない部分も多いんだ。事実が整理できたら、羽衣にも伝えるよ。」
本当に伝えてくれるのだろうか。本当に事実を整理しただけで伝えてくれるのだろうか。既に栄お兄ちゃんは何もなかったと嘘を吐いている。この短期間で書庫の書物を全て調べられたわけではないことは本当だろうが、この言葉で納得して良いものだろうか。
答えに迷っていると、さらに言葉を続けてくれた。
「羽衣も一緒に見よう。それでいい?」
抜粋して見るのなら、嘘の吐きようがないだろう。私にとって必要な情報を省くことはできるが、栄お兄ちゃんが私をここに留めようとする理由はないはずだ。私も私で調べるつもりのため、栄お兄ちゃんから知ることになるのは私が理解できなかった部分になるだろう。まだ疑う余地はあるが、疑心暗鬼になっても仕方ない。
「うん。嘘吐いちゃ駄目だからね。」
「分かったよ。それと、羽衣。真剣な話をしたいんだったら、それ相応の格好で話そうか。」
真剣な話だと分かるように、向かい合って、目を合わせて話した。他の物を見てしまわないように、体ごと正面に回って、私の話だけを聞いてもらえるようにした。それなのに、それ相応の行動を取っていないかのような言い草だ。
「ちゃんとしてたでしょ?」
「他の人にしたら誘惑してるのかって思われるだろうね。」
「誘惑?」
何の話だと首を傾げると、抱き締め、頭を撫でられた。栄お兄ちゃんも人の頭を撫でるのが好きなのだろうか。
「分かるまでこういうことはしないように。」
「うん。」
言われなくても、こんなふうに近づくことなどないだろう。学校では向かい合って真剣に話しても、椅子に座った机越しだ。寮の部屋でも机越しになるだろう。こういった家で話す場面が来そうなのは赤坂くんくらいだが、ゲームをしながらそんなに真剣な話はしない。
真剣な話は終わりだ。それを明らかにするように、体を反転させ、画集を膝に乗せる。今開かれているページにはガラス瓶が描かれていた。
「俺が見にくいんだけど。」
「いいの。」
「いや、羽衣は良くても俺が良くないって話を、まあ、いいか。」
散らばったガラス瓶一本一本に特徴がある。細長い物から真ん丸の物、中身の入っていない物や液体やガラス玉が入った物など、一つとして同じ物はない。影になっている部分と光の当たっている部分で雰囲気も大きく異なり、一つの絵の中に二つの世界が入っているようだ。
ほう、と見惚れていると、ページが捲られそうになる。手を掴んで、急いで止めた。
「ちょっと、まだ見てる!」
「ごめんごめん。この絵、そんなに気に入った?それならこっちも気に入るんじゃないかな。」
何ページだったかな、と結局ページを変えられてしまう。一瞬で通り過ぎてしまうページにも水面や時計、ガラス玉といった物が見え隠れした。後でゆっくり見させてもらおう。
後ろのほうのページに辿り着くと、見やすいように大きく広げられる。騙し絵のような、万華鏡のような、なんだか目を逸らしたくなるのに見てしまう作品だ。何重にも同じ絵が続き、水やガラスのような透明感や光沢まで見えるような錯覚に襲われる。
「何?これ、なんか怖い。」
「『鏡の迷路』ってタイトルだね。作者も鏡操士で、今の基準で言うと特級に該当したんじゃないかって言われてる。不完全な対の鏡に迷い込んだ時の風景、って手記には書かれてたそうだけど、そんなイメージってことかな。」
見れば見るほど、この絵に吸い込まれるようだ。ここから、鏡の向こうに帰ることができないだろうか。そう一瞬でも考え、絵に触れてしまうほど。印刷され、実物より小さいはずなのにこう感じるなど、実物を見ればどうなってしまうのだろう。触れることはできないだろうが、直視すらできないかもしれない。
「実物って見たことある?」
「いや。今度展示が来たら、見に行ってみようか。ちなみに、羽衣が通って来たのも不完全な対の鏡だね。通常は通り抜けられないんだけど。」
この絵の作者も私と同じだったかもしれない。最初のページに戻し、作者に関する説明を見れば、没年まで記載されていた。聞いて確かめることは、もうできない。
再び『鏡の迷路』を眺める。こちらも別世界のようで、目を奪われる。それと同時に既視感を覚えた。絵ではなく、この風景を私は知っている。右も左も分からなくなる鏡の壁と柱に天井、唯一床だけが白い石でできており、一歩動くことすらできなかった。お母さんに抱かれてそこから出た記憶はあるが、あれはどこだったのだろう。
「こんな風景だった?」
栄お兄ちゃんの家に初めて来てしまった時は何も見えなかった。水面を抜けるような感覚があっただけで、鏡の向こうの家とこちらの家の間には何もなかった。本当にただ鏡一枚で隔たれているだけだ。そのたった一枚が、今は大きな障害となっている。
「ううん、一瞬だったよ。早く帰りたいなぁ。」
こんな風景の中を歩かなくてはならないとしても、成長した今の私ならきっと一人で出られる。しかし、何度洗面所の鏡に触れても、ここから出ることができないでいる。地道に別の方法を探すしかないだろう。また来週、禁域についても聞こう。大谷先生も来てくれれば、鏡操についての知識が増やせる。来週、いつ頃戻って来られそうなのか確認するのも良い。
今は休む時間だ。また一枚と絵を眺めていった。




