中間試験二日目
零ちゃんも一緒に時間を過ごし、期限には余裕を持って課題も提出した。時間ぎりぎりでは慌てて提出物を片付けた人と鉢合わせるという懸念があったのだ。
そして今日の試験も何とか終了させ、すぐに教室を出た。昨日の場所で待っているよう伝え、自分は教室へと戻ろう。しかし、二日目にもなると悪意が降り積もっているのか、葉月くんは非常に疲弊しているように見えた。
「また、課題を提出するためだけに、戻ってこないといけないんだね。」
昨日はその時、誰にも会わなかった。しかし今日もそう上手くいくとは限らない。一方で、雨の中、濡れることも厭わず立ち尽くす葉月くんを一人置いて行く気にもなれない。
「ごめん。花房さんは俺のためにしてくれてるのに、我が儘言っちゃいけないね。こんなんじゃ立派な鏡操士なんて夢のまた夢だ。」
「その辺で待ってて。すぐ提出して戻って来るから。」
自分の傘を開いて押し付け、教室に戻ろうと行きかける。試験に向けた課題は葉月くんも同じはずだ。つまり、提出する物も同じ。しかし鞄の中から勝手に出すことになってしまう。自分の鞄の中を見られても嫌ではないだろうか。自分で開けて見せることや、見せてと言われることは親しい間柄なら嫌ではないが、勝手に開けて見られるのは不愉快だ。
もう一度昇降口に戻る。隠れることもせず、葉月くんはぽつんと佇んでいた。時折通る他の生徒に見られているが、両手で傘を握っているだけで、動きはしない。
「葉月くん。」
「えっ、早いね。」
「私が一緒に提出しようか?鞄の中から葉月くんの提出物探してもいい?」
傘の影から驚いた表情が覗く。戸惑うように視線は彷徨い、口は開閉を繰り返す。そんなに迷うことだろうか。嫌か駄目か、良いか、そのいずれかを答えれば良いだけだ。
「えっと。でも、さすがにそれは悪いよ。提出物くらい、きちんと自分で出さないと。」
「自分で解いたんなら、出すくらい誰がやっても同じだよ。」
問題を自分で解くことは問題への慣れや、理解力を試すためにある。解いているかの確認のために提出物として課されている。提出物は集配棚に出すことになっており、提出期限の時間が過ぎた時、それぞれの教科担当の先生が回収するそうだ。先生も誰が提出したか、していないかは、そこに提出物があるかどうかで判断している。つまり、提出棚まで自分で持ったか行くかどうかは当人たちにしか分からない。
自分の物だから自分でという考えも理解できるが、それ以上に今は他の生徒や特に同じクラスの生徒と遭遇したくないという思いがあるはずだ。私も会わせたくない。私からの提案なのだから遠慮せずに頼ってほしい。
しかし葉月くんはまだ躊躇している。
「私も出しに行くし、ついでだよ。午後にひやひやしながら二人で来るより楽でしょ?」
「そう、だね。わざわざ戻らせることになっちゃうし。お願いしてもいい?」
「任せといて!」
今度こそ教室に戻る。朝に提出したのか、午後からも課題をこなす気なのか、同じクラスの子たちともすれ違う。葉月くんは彼らに近づかれてもあの場に立ち続けるのだろうか。昨日や今朝のように何かを言われなければ良いが、心配し過ぎだろうか。他のクラスの生徒もいる前ではさすがに何もしないだろうか。
二人分の鞄を漁り、足を速める。今日の提出物は多くない。家庭科は試験こそあるものの問題も易しく、提出物もないため、荷物も少ない。その代わり、授業の中で実技があった。
「花房さん、そんなに急いでどうしたの?」
「人を待たせてるの。」
木葉くんに声を掛けられた。私が持っている提出物の一番上は、私の世界史の問題集だ。葉月くんの物ではないことを確認し、足を緩める。急いではいるが、理由は答えなければ。
「そんなに急がなくてもいいんじゃない?花房さんのためだったら、誰でもずっと待っててくれるよ。」
何のつもりだろう。私が待たせたくないから急いでいるのだが、そう受け取ってはくれなかったようだ。提出物を出す程度の時間なら、ゆっくり歩いて行ったとしてもそう長くはかからず、時間の予測も付く。私のためでなくとも待つと言ってくれた相手なら待っていられるだろう。長いと感じる人なら最初から待つと言わない。
急いでいるからか、木葉くんの歩く速度が非常に遅く感じられる。返事はしたのだから、一緒には行かなくて良いだろう。
「ごめんね、急いでるから。」
呼び止める声は無視し、早足で人の隙間を縫って行く。走ると生徒指導室の世話になりかねないため、両足を同時に浮かせることはないよう、最大の速度を出した。
提出棚の前は混雑している。この時間に提出する人は多いようだ。試験開始前に出しても良いが、その時間はなるべく葉月くんと一緒にいたい。多少混んでいてもこの時間にするか、午後にもう一度来るかの二択になる。
自然と人の流れができているようでもある。バイキングなどのように右から左に流れていき、その途中で自分のクラスの該当科目の棚に提出物を置いている。左手で提出物を抱え、右手で一冊ずつ入れやすい動きに自然となったのだろう。学年ごとにその流れが形成されているため、潮の流れのようだ。
その流れに私も乗り、無事提出を終えた。急いで昇降口まで戻らなくては、と思っていたのに今度は瀬名さんに呼び止められる。
「あら、花房様ではありませんこと?わたくしも今朝、提出することを失念しておりましたの。ハエのように群がるこのような人混みの中に入りたくはありませんけれど、これはわたくしの失態ですわ。花房様も早く明日に備えたほうがよろしくてよ。」
「うん、早く戻ろうとしてたところなんだ。」
一言だけ返し、足を速めて振り切る。走るような速さで歩いている人を呼び止める人なんていないだろう。行きと違い荷物もない。教室までは迅速に戻れるはずだ。
そんな期待も空しく、待ち構えていたかのような水島くんによる足止めを食らった。
「花房さん、時間はあるかな?鞄はあるから戻って来るとは思っていたのだが。先週、古賀さんが英語は文化という話をしていただろう?そのことについて共に見識を深めようじゃないか。」
「ごめん、時間はないの。また今度ね。」
廊下のロッカーの上から鞄だけ取って行こう。そう通り過ぎようとすれば、目の前に有瀬さんが立ちはだかった。今日は一体何なのだ。するりと横を通ろうとしても腕を掴まれる。優しいものではなく、私の動きを拘束しようという意思を感じる。非常に不快だ。
「離して。」
振り解こうとしても強く掴まれているため離れない。水島くんに時間はないと答えていた声も聞こえていたはずではないのか。
「何をそんなに急いでいるのかしら。勉強というのは焦っても良い結果を生まないわ。落ち着いて見聞を広げることが、単純な試験では測れない知恵を授けてくれるのよ。」
有瀬さんは焦っているようだ。試験の結果は良いと聞いているのに、こんなことをしているのだから。掴まれているほうと反対の手で引き剥がそうとすれば、ようやく離してくれた。しかし、前後を有瀬さんと水島くんに挟まれている形だ。何だか不安で、距離を取った。
「廊下で騒ぐなど非常識な連中だ。」
抵抗している間に廊下の真ん中に出てしまっていたのか、清水くんに突き飛ばされる。壁にぶつかるが、誰も助けてくれない。中学までは一人で足を滑らせても、親しくない人ですら大丈夫かと声をかけてくれていたのに。
「ごめんねー、羽衣ちゃん。私も暇じゃないから。」
染谷さんも、とん、と私を押しのけて行った。葉月くんはこんな扱いを受けていたのか。私は既に泣きそうだ。涙を堪えて俯く私の前を、やはり興味なさげに音無くんが通り過ぎた。
「何が正しいのか、きちんと自分で見定めることね。情に流されるなんて愚かしいわ。」
吐き捨てた有瀬さんが遠ざかる。噂を鵜呑みにした子が何を言っているのか。水島くんもあれだけ対抗心を剥き出しにしていたのに、その有瀬さんの言葉には頷いた。
「君たちにも僕たちのように冷静な判断ができるのか、見ものだな。」
鞄を持って、その場を立ち去る。今度は引き留められなかった。このようなことをしている水島くんたちが冷静な判断をできているとは到底思えなかった。しかし、感情に支配された今の私の言葉では、ただの口論になってしまう気がした。
どうすれば冷静に訴えられるのかも分からず、ただ昇降口へ向けて歩いた。
「羽衣、ごめん。助けられなかった。俺も聞いてはいたんだけど。」
背後から掛けられた声。古賀さんとの約束を守ろうとして何も言えなかったのは仕方ない。しかし、せめて隣に立ってくれていたなら、せめてよろめいた時に触れてくれたなら、少しだけでも安心できただろう。そんな私の思いもただの勝手な期待で、実現しなかったからといって文句を言う筋合いはない。
「ううん、赤坂くんが悪いわけじゃないから。でも、昇降口まで手繋いでもらってもいい?」
「もちろん、それくらいならいくらでも。」
葉月くんの鞄を持ってくれて、しっかり手も握ってくれた。大きくて温かな手は、ほんの少しだけ私を安心させてくれる。むしろ涙腺が緩みそうになってしまうが、そこはお腹に力を入れて耐える。
歩く速度も遅くなってしまっていたはずなのに、短い廊下はすぐに終わってしまう。葉月くんを待たせているというのに、この手を離したくないと思ってしまった。
「手、離してくんないと履き替えられないだろ。」
「うん。」
困ったように私を見ているとは分かっている。だけど、今すぐに葉月くんに会っても支えてあげられる気がせず、気を遣わせてしまうだけになる気がして、むしろ手の力を強めた。私が鏡の向こうに帰るためには、葉月くんの持つ情報が必要なのだ。だから彼らとの対立だって避けられないのだと自分に言い聞かせ、深呼吸をする。
手を繋いだまま赤坂くんは他の生徒の邪魔にならないよう、廊下の端に寄った。葉月くんを待たせているというのに、私もその誘導に従うだけだ。
「この後、さ。どうする?栄先輩のとこ行くか、」
言い躊躇う赤坂くんの体温を感じながら、私はただ黙って俯く。私の頭に一回伸びて、結局そのまま下ろされた手が、私の手を包み込んだ。私も自分の鞄を床に落とし、そこに自分の手を重ねた頃、ようやく続きを話してくれた。
「俺の部屋、来るか。羽衣だって頑張ってるんだから、たまには休んだっていいだろ。その、誰にも言わないから。」
泣きたいんだったら泣いてもいい、と小さな声で続けてくれる。今の私は一人で頑張らなくてはいけないのだから、泣いている暇なんてない。今だって毎週休んでいるから、平日にまで休んでいては鏡の向こうに帰る日が遠ざかってしまう。だから私は泣かずに頑張らなくてはならない。
そう気を引き締めていたのに、答える声は震えた。
「だい、じょうぶ。葉月くん、待たせてる、から。」
「全然大丈夫には見えねえけど。そんな顔で行ったほうが心配かけるだろ。ほら、空き教室ちょっとだけ借りよう、な?」
一年生の昇降口から最も近い、Gクラス隣の空き教室に連れて行かれる。椅子に座らされて、鞄は持って来てくれた。正面の椅子に座って、両手を包み込み、優しい指が撫でてくれる。心配そうな目が私を覗き込んだ。
「どうしたら、いいんだろうな、ああいうのって。自分が正しいって思ってる連中って厄介だからさ。いや、間違ってるけどやるんだって変な腹の括り方してる奴も厄介だけど。って、羽衣、俺煩い?黙ってたほうがいいか?」
慰めてくれようとしているのだろう。話の内容は全く頭に入って来ないが、その意図は伝わった。冷えた手も体温を取り戻したようで、やっと息が吐ける。それでもまだ全身が冷えているような気がして、手を握り返す。そしてその手を自分の頬に付けた。触れた所から、先ほどの人たちの言葉や態度で凍った体を溶かしてくれる気がした。
「あったかいね、赤坂くんの手って。」
「え?ああ、いや、羽衣の体温が低いんじゃねえの。」
手を撫でてくれていた指も止まり、目も逸らされる。先ほどまでの心配そうな表情も無くなり、緊張の色を表している。
抱き締めてもらえば、もっと呼吸が楽になるだろうか。鏡の向こうにいた時はいつだって、家族や友達の誰かが私に体温や鼓動を教えてくれた。
「ねえ、ぎゅっとして?」
はっと息を飲んで、深く吐き出したが、返事はしてくれない。目も泳いでいて、私の要求を検討してくれているのかどうかさえ怪しい。私がその手に頬を摺り寄せる度に呼吸が止まっている。手に力は入っていないため、拒んでいるわけではないのだろう。一昨日は自分で私を抱き寄せたのだ。あの密着は良くて、これが駄目なわけはないだろう。
なんとなく楽しくなってきて、自分から抱き着く。しかし、肩を手で押し返され、それは未遂に終わった。抱き着かれるのは嫌だったのだろうか。
「羽衣、あの、ここ、教室だから。」
頬がほんのりと染まった赤坂くんの言葉ではっと我に返る。扉からは見知らぬ生徒が数人覗いていた。




