有瀬智慧の母
唐突に得られた休日。土曜日の朝なら栄お兄ちゃんが迎えに来てくれていたけど、休日とはいえ今日は金曜日。来てくれるのだろうか。有瀬さんに確かめたいこともある。あの『被験体記録』の記述者として書かれていた名前は、本当に有瀬さんのお母さんのものなのだろうか。同姓同名の他人なのか、本人なのかが気になる。今あの場に誰もいないこと、有瀬さんのお母さんはSA生徒連続行方不明事件のあった一昨年に亡くなっていること。これは偶然の一致だろうか。
豹寮に行って聞いてみよう。不在なら栄お兄ちゃんを訪ねて、一緒に調査でも帰宅でもすれば良い。行き違いになることもないだろう。調査に備えて、探索の装備を整えた状態で寮を出た。
あの研究所跡のことは秘密。有瀬さんには言えない。唐突に有瀬さんにお母さんのことを聞けば、どうして突然聞くのだと疑問に思うだろう。同じ寮の桃園さんや木葉くんではなく、あえて豹寮の有瀬さんに聞きに行く理由が必要だ。美衣という名前がなぜか気になったとか、赤坂くんのおばあちゃんのことが気になるとか、その程度の言い訳で足りるだろうか。しかし、知りたいのは赤坂美幸という人物に関して、だ。それらの言い訳では肝心な部分が聞けなくなってしまうかもしれない。いっそ素直に、赤坂美幸という人に興味を持ったと言ってしまおうか。
ぐるぐると先へ進まない思考のまま、豹寮に辿り着いてしまう。聞かれたら聞かれた時に言い訳をしよう。そんな結論とも言えないものを抱えて呼び鈴を鳴らそうとした時、中から栄お兄ちゃんが出て来た。
「おはよう、羽衣。何かあった?」
「ううん。今日は有瀬さんに話を聞こうと思って。」
「ああ、じゃあ俺はあの場所の調査に行ってくるから。気を付けて。」
気を付けるのは栄お兄ちゃんのほうではないかと疑問を抱きつつ、行ってらっしゃいと手を振った。迂闊なことを言わないように気を付けて、聞き出されないように気を付けて、という意味だったのかもしれない。
呼吸を整えて呼び鈴に向き直る。有瀬さんの出席番号は三番だ。生徒番号を入力し、発信を押すと、赤い光が返って来た。少し待っていれば出てきてくれるはずだ。出てくればまずは挨拶から。笑顔でおはようと言えば、少し口が軽くなってくれるかもしれない。
そんな小さな打算を抱えて、有瀬さんを迎える。
「おはよう、有瀬さん。」
「ええ、御機嫌よう。初めてではないかしら、花房さんが私を訪ねて来るのは。どういう風の吹き回しかしら。」
いきなり不審に思われている。歓迎といった雰囲気ではないけど、ここで怖じ気づいてなどいられない。私は有瀬さんから赤坂美幸という人物について聞き出すのだ。そう気を引き締め直し、本題に入る。
「ちょっと聞きたいことがあって。有瀬さんのお母さんってどういう人だったの?」
「これまた唐突ね。そう、ね。優しい人だったわ。いつも仕事で忙しくしていて、家に帰って来るのは年に数回だけだった。それでも帰って来た時はいつも美味しい煮物を振舞ってくれたのよ。」
声色からも大好きだったことが伝わってくる。もう悲しみは乗り越えたのか、懐かしむ色合いだけで、震えることはない。有瀬さんにとっては大事な感傷なのだろうけど、私までそれに引きずられては目的が果たせない。ここは心を鬼にして鏡界学校にいたのかどうか、研究の仕事をしていたのかどうか聞き出そう。
質問を投げかける時を待ち望みながら、有瀬さんの話は遮れない。
「台所を借りて、煮物が焦げ付かないように立っている母の傍に、私はいつもくっついていたわ。自分の両親が二人で作り上げたレシピなのよって微笑みながら教えてくれたのよ。自分と同じように仕事で忙しい母が作ってくれた、唯一の料理なのだと。それは私にとっても同じになったわ。」
大切な思い出なのだろう。それをこうも簡単に聞かせてくれるなんて、不思議なものだ。誰かに聞いてほしかったのかもしれない。私も主に家事を担うお母さんの料理は毎日食べていたけど、お父さんの料理は週末にしか味わえなかった。有瀬さんの家ではお父さんが主に家事を担っているのだろうか。
いつもの引き締まった表情ではなく、少々頬の緩んだ有瀬さん。思い出に浸っている今なら、私の質問にも答えてもらえるかもしれない。
「有瀬さんのお母さんはどんな仕事をしてたの?」
「人類の未来のためになる仕事よ。何百年先、何千年先を見ていたわ。」
詳しい内容は知らないようだ。私もお父さんの仕事の内容を知らないため、不思議ではない。仕事についてはこれ以上追及しても何も出て来ないだろう。次は鏡界学校にいたかどうかだ。
「鏡界学校にはいた?」
「いいえ。教員や職員ではないもの。何か気になることでもあるのかしら。美衣という人物に心あたりでも見つかったの?」
同姓同名の別人か。問題はここからだ。どう有瀬さんを誤魔化そう。心当たりはあるわけがない。これは肯定できないとして、美幸という人物に関する話で逃れられるだろうか。栄お兄ちゃんが忠告してくれたことは、私が記憶喪失ではないという点を聞き出されないようにという意味合いだったはずだ。
自分の心臓がドクドクと言っている音が聞こえる。柊木先輩のように秘密を漏らしてしまうことのないようにしなければ。
「ううん。美幸って名前に何となく興味が湧いたから。」
「あら?母の名前を言っていたかしら。そういえば、以前天羽さんにも突然名前を確認されたのよ。名字も異なるのに、よく私の母が研究者の赤坂美幸と気付いたものだと感心していたのだけれど。何か資料でも見たのかしら。」
失敗した。いや、まだ言い訳はできる。その天羽くんから聞いたのだと言えば、私が知っている理由にはなる。教室であまり会話をしていないことを考えると、少々無理があるだろうか。しかし天羽くんは栄お兄ちゃんにも神出鬼没と言われるくらいなのだ。学内を探索している私が教室外で会っていてもおかしくはないだろう。
冷たい手を反対の手で包み込み、動揺を抑え込む。
「その、天羽くんに、聞いて。私には、よく、分からないの。」
「鏡界から出て少し調べれば、私の家族構成はすぐ分かるわ。だけど家族構成を知ろうと調べなければ分からないことだから、疑問に思ったのよ。」
「あ、あー、そういうことなんだ、へー。」
良かった、知らないはずの情報ではなかった。自分の家族のことが誰でもすぐに調べられる状態にあるなど、有瀬さんのお母さんは有名人のようだ。研究者として名の知れた人なのだろう。それならばあんなに怪しい研究所跡にいたはずはない。
安堵と共に話を切り上げようと口を開きかける。しかし、有瀬さんに遮られてしまった。
「調べたわけではないのに、何か資料を見た。そういうことかしら。ねえ、どこで私の母の名を見たのか、教えてくれないかしら。」
答えられるわけがない。あの場所については五人の秘密だ。天羽くんを含めると六人だけど、独自に発見していたようであるため、同じ秘密を共有している感覚は薄い。他の人に言わないでとお願いもしていないため、天羽くんには秘密という感覚もないだろう。
見ていないと言って、信じてくれるだろうか。嘘を吐くことになるけど、秘密と約束したのに教えるわけにもいかない。
「教えられない、かしら。では、なぜ教えられないのか、その理由を教えてくれるかしら。」
「栄先輩と、赤坂くんと、柊木先輩と、京極先輩と約束してるから。特に栄先輩が人に教えたくないって。」
これは本当のことだ。何かあれば口実に使うと良いとも言われているため、正直に答えやすい。約束を破ることは有瀬さんにも強要できないだろう。お母さんのことをあんなに優しい顔で話していたのだ。大好きなお兄ちゃんとの約束という言い方をされれば、無理に聞き出そうとはしないはずだ。
何とかこの場を切り抜けられそうだと、いつの間にか入っていた肩の力が抜ける。
「では許可を貰いに行きましょう。部屋にいてくれると良いのだけれど。」
「さっきすれ違ったよ。」
「行き先は聞いたかしら。」
研究所跡の書庫だ。有瀬さんを連れて行くわけにはいかない場所。聞いていないと答えれば逃れられるだろうか。しかし、大好きなお兄ちゃんという言い訳をこの後にする予定なら、すれ違ったのに行き先を聞かなかった言い訳も必要になる。どこに行くの、という一言くらい出てきても良さそうなものなのだから、ここは慎重に答えなくては。
「聞いたのね。どこにいるのかしら。」
「え、えっと。あっ、そうだ、朱鷺寮の北らへんを探索してくるって。探すのも大変だね。」
嘘ではない。これで諦めるだろうと思ったのに、有瀬さんは私の手を引いて北に向けて歩き始めた。何とか逃れる方法はないだろうか。今日、赤坂くんの予定はどうなっているのだろう。空いているなら、以前したように二人で出かける約束をしていると言えば合わせてもらえそうだ。しかし、予定があるのに狼寮と反対方向にある豹寮に私は会いに来ている。駄目だ、この言い訳も使えない。
一度別行動をして、研究所跡の中にいる栄お兄ちゃんに相談して、有瀬さんに隠し通すための助言をもらおうか。もしくは話をして、許可を貰えなかったと伝える。こちらのほうが実行できそうだ。
「別々で探したほうが見つかりやすいよね。少し時間が経ったらどこかで待ち合わせにしてさ。」
「あんな場所で待ち合わせなんて難しいと思うけれど。何か目印を立てることにしましょうか。」
有瀬さんの了承は上手く得ることができた。後は進行方向を悟られないようにそっと栄お兄ちゃんの所まで行くだけだ。
朱鷺寮前を待ち合わせ場所にして、東西に分かれて探す提案も受け入れてもらえた。もちろん私は東側を探すと言い、研究所跡へ向かう。ガサガサと木々の間を抜け、斜面を登っていく。その先にあるハッチを開ければ、一安心とはいかない。ここにもまた別の恐怖が待っている。何もないとは知っているけど、何かが出て来そうな気がして落ち着かない。
心を鎮めるために扉を一つ一つ丁寧に数え、書庫に入った。明かりが書架の間から漏れている。
「栄お兄ちゃん、あのね、」
先ほどの有瀬さんとの出来事を伝え、誤魔化し方を尋ねようと声をかける。集中していたようで気付いてくれなかったため、袖を引いてこちらに意識を向けさせた。しかしその視線は私を越えて背後を見ている。
何があるのだろうと私も振り向けば、そこには有瀬さんがいた。
「こんな場所を隠していたのね。迷いなく歩いて行くからどんな秘密基地かしらと思ったのだけれど。」
「有瀬智慧。ここは表に出してはいけない場所だ。それは分かるね?」
「分からないわ。廃棄された何かの施設でしょう?」
書架からあの赤坂美幸が記述した『被験体記録』を取り出し、有瀬さんに渡す。それを読めばむしろ先生に知らせるべきだという結論に達しそうだけど、栄お兄ちゃんはまた違った考えのようだ。
『被験体記録』を受け取った有瀬さんは表紙に書かれた記述者の名に驚き、一ページ目を開いて声を上げた。
「母の字に似ているわ。母もこんなふうに基本的には読みやすい、角ばった几帳面な字を書いていたのよ。」
記録として残すつもりなら、誰でも丁寧に、自分以外の人も読みやすい字を書くよう心掛けるだろう。しかし、この字は国語の先生が書くような美しい字ではなく、字を書くことを好まない人が努力して形を整えた字にも見える。
一ページずつ捲っていく有瀬さん。文字の形状に注目しているようで、私が驚いたその書物の内容には一切触れない。
「ああ、そうだったわ。口という字も角を全て九十度にきっちり合わせるものだから、記号なのか漢字なのか片仮名なのか、むしろ判別が付きにくかったのよ。」
愛おしむように字を指でなぞっている。文字一つ取っても思い出があるのだろう。しかし、鏡界にはいなかったはずではないか。以前ここにいたことがあるだけで、有瀬さんが生まれてからは別の場所に仕事に行っていたのだろうか。
「智慧、君の母親について知りたいなら、日記でも探すといい。ここには君の母親やそれ以前の研究者たちの研究成果しかない。」
「そう。母の為したことも知りたいけれど、日記があるならそちらのほうが興味があるわ。花房さん、行きましょう。」
懐中電灯を持っていない有瀬さんは『被験体記録』を栄お兄ちゃんに押し付けると、私の手を引いて書庫を出た。この施設に日記などという個人的な物を保管する部屋などあるのだろうか。保健室のような部屋や缶詰はあったけど、人が生活する場所には到底思えない。
ずんずんと進んでいく有瀬さんに並び、開けたことのない部屋を確認していくが、鉄の檻が入った部屋ばかりだ。台車も幾つも置かれており、やはり人の生活する空間ではない。
廊下の行き止まりの扉を開けると、また廊下が続いていた。
「研究区画と生活区画は分けているはずだわ。行ってみましょう。」
この廊下の先には長い階段があり、上ると壁には窓があった。ここなら自然の光も得られるため、生活できそうだ。視界を遮る物は何もなく、一面の海が眼下に広がっている。この風景だけ写真で見せられたなら、どこの観光地かと思ってしまいそうだ。
この風景には興味がないのか、有瀬さんは近くの部屋から一つ一つ確認していく。懐中電灯がなくとも探索が不可能ではないため、強気な行動だ。
「ずっと置いていたのね。」
写真立てを手に取り、眺めている。写っているのは今よりも少しだけ幼い有瀬さんと見知らぬ男女。それがきっと両親なのだろう。同じ机に置かれたもう一つの写真は、若い女性二人と男性が一人で写っている。三人とも柔らかな笑みを浮かべており、隙間なくくっついて立っている様子からは近しい関係であることが読み取れる。
カタンと有瀬さんは写真を置いた。しかし私はこの写真から目が離せない。
「母と妹、それから若くして亡くなった弟の写真だそうよ。妹が行方不明になる直前に撮った写真だと聞いているわ。」
この人が母親で、この人が母親の妹、この人が真ん中の弟と説明してくれる。その妹と説明された人物は、私のお母さんの若い頃にそっくりだった。お父さんと出会った頃の写真や結婚写真は一度だけ見せてもらったことがある。私とお母さんはよく似ていると言われたから、私も大きくなったらこんな風になるのかと想像したものだ。
この写真はお父さんと出会った頃の写真にも、こちらに来る少し前に撮った私の写真にもよく似ている。そして、私のお母さんの写真にはお父さんと出会う以前の物がなかった。
「有瀬さんのお母さんの妹さんは、何歳の時に行方不明になったの?」
「成人を迎える年だったと聞いているわ。お祝いを家族で用意していたのに、弟も妹もいなくなってしまったと。」
同時に弟さんもいなくなっていたのか。だから、亡くなったと明らかになっていない妹さんだけを探している。見れば見るほど私のお母さんとの共通点が目についた。優しい笑い方が同じ、写真に撮られる時の手の組み方が同じ、少しカメラから目線が外れているのも同じだ。
「でも探してるのは妹さんだけなんだね。」
「弟は同じ年、仕事中の事故で亡くなったそうよ。」
引き出しを有瀬さんが開けた。一冊のノートを手に取り、そっと開く。横から覗けば日付が書かれていた。日記のようだ。一昨年亡くなる直前まで、そこに個人的な記録を残していたのだろう。
ひゅっと息を飲む音が聞こえた。何を見つけたのだろう。
「私たちはここで殺されるだろう。私たちが創り上げた被験体五七八三の手によって。智慧、置いて逝ってごめんなさい。お母様、先に逝ってごめんなさい。あなたのような人間に少しでも近づけたかしら。智慧、どうかあなたのお父様と共に強く生きて。」
声が震えている。これは間違いなく有瀬さんのお母さんの日記だ。私が覗き見て良いものではない。私は日記を閉じさせ、有瀬さんの胸に押し付けた。栄お兄ちゃんや私のほしい情報はきっとあの書庫にある。これは有瀬さんが持っているべきだろう。
押し付けられた日記を抱き締め、深く一つ息を吐いた。もう呼吸に乱れはない。
「感謝するわ、素敵な場所を教えてくれて。出口まで送っていただけるかしら。部屋でゆっくり読みたいわ。」
「うん。写真も持って行く?」
他にも気になる物を手に取った有瀬さんを連れて、私はその場を後にした。




