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鏡の世界  作者: 現野翔子
序章
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お買い物

 掃除が終わった頃、扉の開く音がしたため、急いで玄関へ向かう。


「お帰りなさい。」

「わざわざ降りて来なくてもいいんだけどね。掃除は順調?」

「はい、もう終わってます。」


 買い物袋の一つを受け取ろうと手を伸ばすけど、それに気付かず居間に行ってしまう。


「着替えは一着だけ用意したから、まずシャワーを浴びたらどう?午後の予定は食べてからにしよう。」

「はい、ありがとうございます。」


 小さな袋を一つ受け取り、私の家と同じ場所にある浴室に向かう。確かに今の私は埃塗れだ。袋の中身はシャツとカーディガン。ズボンは埃を払って同じ物をもう一度履こう。下着類も脱いだ物を履くことになる。サイズが分からない以上、これが限界だったのだろう。

 暖まりきっていない湯で頭も体も軽く流す。埃を落としたいだけだから、シャンプー類も省略して良いだろう。

 本当に浴びるだけのシャワーを終え、脱衣所兼洗面所に頭を覗かせる。足拭きマットを敷くのを忘れていたけど、バスタオルで拭けば良いだろう。バスタオルはどこだろう。さっき洗面台の下の戸棚を開いた時にはなかった。きょろきょろと見回すと、洗面台と洗濯機の上に渡された突っ張り棚にタオル地の布が置かれていた。

 おそらくそれだと、床を濡らしつつ手を伸ばす。背伸びもしてようやく取れた。全身の水気を取って、掃除の時に見かけた洗面台下からドライヤーも借りて頭もしっかり乾かす。服もしっかり着直したところで、洗濯物をどうしようと手が止まった。浴室横に雑巾やハンカチのような物が入った籠が置かれているけど、これはそのための物だろうか。

 分からなければ、聞けば良い。脱いだ物や使った物を床に放置し、一度台所に戻る。


「すみません、脱いだ物って」

「脱衣所の洗濯籠に入れておいて。」


 やはりあれで合っていたようだ。さっと入れて戻ると、台所の机の上には何個もスーパーで売っているようなおにぎりが置かれていた。


「好きな物を好きなだけ選んで。」

「じゃあ、これと、これと、これ。久しぶりだなあ、スーパーのおにぎり。いただきます。」


 中身に辿り着かない一口目だって、私は好きだ。パリッとした海苔とご飯が中身のない残念さを埋めてくれる。中学までは給食で、休みの日は母が食事を作ってくれていたから食べる機会なんて年に数回しかなく、その日はなんだか特別な気がしていた。毎日なら飽きてしまうかもしれないけど、たまになら楽しみになる味だ。

 一つずつ味わいながら食べ終わると、明らかに私より個数が多かったのに、山吹さんは既に食べ終えて待っていた。


「午後からは服を買いに行こう。俺と一緒に行くのが嫌なら、一人で行って来ても構わないけど、どうする?」

「えっ?」


 完全に一人で買い物などしたことがない。そもそも店の場所が分からない。外は鏡の向こうと同じ道順なのだろうか。


「お金なら渡すから心配しないで良い。とりあえず一シーズン乗り切れるだけで良いけど、少し多いかもしれないね。一緒に行こうか。」

「はい、お願いします。」


 良かった、一人で行くことにならないで済んだ。一シーズン乗り切れる量の服はどれくらいだろう。雨の日があることを考えても、三着ずつくらいあれば十分だろうか。いつもは気に入った服があれば買ってもらうけど、今日はなければ買わないというようなことはできない。


「夜には布団類が届くから、そのセットもしないと。カーテンも埃っぽいだろうから、その時に付け替えようか。」

「はい。」


 もう全てお任せだ。この家に何があるかも、外がどうなっているかも分からないのだから。どうせ寝る時しか使わないのだからカーテンくらい気にしないけど、善意は受け入れておこう。


「出かける前に一つ注意事項。君は俺の遠縁ということになった。ただし、今日が初対面ということは変わらないから、互いについて何も知らないことに変わりはない。そうそう綻びは生じないよ。」


 遠縁ということにする必要があるのか。あまり嘘を吐かないで良いならまだ良いけど、うっかり口を滑らさないようにする必要はある。


「はぁ。」

「突然現れた少女と同居するなんて不自然だから、何かしらの理由が要る。特に今日は君の身も証明できないんだ。くれぐれも警察や店員に目を付けられることのないように頼んだよ。」


 下手をすれば山吹さんが犯罪者扱いだ。私もかもしれない。気を付けよう。


「はい!」

「良い返事。今日は服の用意も必要だから出かけるけど、身分証ができるまでは外出を控えようか。」


 山吹さんにとって私を外に出すことは危険を伴うのに、どうして自分で替えを用意すると言わないのだろう。一着は買ってきてくれたのだから、その時にまとめて買ってしまえば楽だったはずだ。


「でも、今は一緒に買いに行くんですか?」

「君は初対面の男にスリーサイズを知られて、下着を用意されても気にしないんだ?」

「あ!気にする、します!一緒に行きましょう。」


 だからさっきもシャツとカーディガンだけだったのか。あれなら多少大きさが合っていなくても着られる。ズボンはウエストのサイズが必要だ。ベルトで調整するなら多少サイズが違っても着られるけど、丈の問題もある。この後動くことを考えるなら、スカートは避けたい。

 今も部屋着のズボンだけど、外に出られないほどの物ではない。いつも出掛ける前にはきちんと出られる服装に替えるけれど、今はこれでも仕方ないだろう。他に不足している物は、と。


「あ。」

「どうかした?」

「春用コートってありますか。」

「いや。長く使うことになるかもしれないから、自分で選んだほうがいいよ。今だけなら俺のでも良いかと思ったんだけど。」

「ああ、はい。ありがとうございます。」


 自室から持って来てくれたコートを借り、玄関へ向かう。靴を履こうとして、ふと気づいた。


「あの、靴ってあります?」

「足首で留められるサンダルなら一応買ってきたよ。多少大きいだろうけど。」


 足先でも調整できる物であったため、少し買い物に出るくらいなら履ける。踵は全く上がっておらず、歩きにくくはあるけど我慢できる程度だ。

 玄関の門を出ると、見慣れた風景だ。ここは変わらないらしい。表札の名前などは違うけど、建物の外観は同じに見える。少なくとも大きく形や色が異なる家はない。


「問題ない?」

「はい。でも、あまり速くは歩けません。」

「それは気を付けるよ。」


 事実ゆっくりと歩き出し、ちらちらと私のほうを気にしつつ行ってくれる。進行方向の分からない私は少し後ろを歩いているため、歩調を合わせにくいのだろう。


「何か欲しい物があったら、ついでに買おうか。」

「え、でも……」


 お気に入りのクッションかぬいぐるみでもあれば、あの家でも早々に落ち着けるだろう。だけど、そのお金は山吹さんから出ることになる。そこまでねだって良いものだろうか。それに、ぬいぐるみが欲しいなんて子どもみたいだ。


「気を遣わなくていいよ。学校に入れば俺が頼ることも多くなるだろうから。」


 山吹さんも本当に高校生なら仕送りに頼っているだろう。多少アルバイトをしていても、それほどお金に余裕があるのだろうか。しかし、あの家に一人で住んでいると考えるなら、余裕があってもおかしくない。ただし余裕があったとしても、無駄遣いさせて良いことにはならない。


「気になるなら先行投資されてると思って。」


 先行投資されるほどの価値が私にあるのだろうか。私はまだ彼に何の能力も示していない。それとも、山吹さんにとっては適性と言っていたものがそれほど重要なのだろうか。


「私に何をしてほしいんですか?」

「調査だよ。内容は外では口にしないで。」

「それが私に先行投資するほどの理由になるんですか?」

「学年が違えば接触できる人は変わる。男子生徒と女子生徒では聞き出せる相手や話の内容に変化もあるかもしれない。なくても俺が今までに聞かされた情報はその場凌ぎの嘘じゃなかったっていう成果が得られる。」


 何か得られるものはあるとほぼ確信しているから、お金もかけられる。それなら今はもう少し頼って、入学後に力になれるようにしよう。


「なら、私のクッションが欲しいです。」


 ふっと隠すように前を向いて笑われる。私は真剣に考えて出した結論だけど、何かが可笑しかったのだろう。


「その程度に今の質問が必要だったの?」

「必要です。だって、他にもいっぱい買ってもらってますし、山吹さんにはこれからもお世話になることになるし……」


 私が今までに貯めていたお小遣いも全て鏡の向こう側だ。衣食住の全てを彼に頼ることになる。学校に行くならその費用も、だ。もちろん調査に全力で協力する気ではあるけど、まだ私がどれだけできるかは分からない。


「遠縁だから、まずは名前で呼んで、ため口で話すところから距離を縮めようか。」


 学校の友達でさえ、最初は名字で呼んでいた。三年間同じクラスで名字呼びの子だっていた。それに先輩ならなおさら名前で呼ばない。


「山吹さんは次、何年生になるんですか?」

「高等部二年生だね。」

「私は一年生なので、やっぱりため口とかにはならないんじゃないですか?」

「ささいな違いだよ。入るから一緒に生活していたと説明するなら、学校では何も不自然じゃないはずだから。」


 中学では親しい先輩を愛称で先輩と付けずに呼んで、同学年の人に睨まれた記憶がある。本人がそう呼ばれることを喜んでいたのにそうだったのだ。今回も同じだろう。しかし、共同生活を送る上で、互いに必要以上の緊張感を保っていたくないことも事実だ。親しくなりたい気持ちもある。


「栄先輩、でいいですか。」

「今はそれでもいいよ。」


 会話と思考に意識を集中していたせいで、道中に変化はないか見るのを忘れていた。大きな変化は横目でも気付くはずのため、きっとなかったのだろう。

 自動ドアをくぐって、横の案内板を通りすがりにちらりと見る。一階が食品売り場、二階以降数階が衣類。もっと上の階は、目が追いつかなかった。

 四階まで飛ばし、エスカレーターで上がる。するとクッションがたくさん入った大きな籠が目に入る。手触りも心地よく、感触も柔らかい。色とりどりで選び放題だ。ここはやはり淡い桃色だろう。家族でお揃いにする時はいつもこの色だ。慣れた物のほうが落ち着ける。


「これにします。」

「早いね。あっちには柄の入った物もあるけど、」

「いいえ、これが良いです。」


 抱き締めた大きさも腕にすっぽり収まる程度で、安心できる。あの居間に柄の多い物は合わないだろう。


「なら次は靴。」


 靴は基本通販で買ってもらっていた。特にお母さんは通販でなければ大きさの問題で入手が難しいと言っていたけど、私はどうだろう。運動靴なら問題なく見つかるから良いか。

 そう探し始めると、小さく咳払いをされる。


「あー、俺が口を出すことじゃないかもしれないけど、女子生徒は基本ローファーを履いてる子が多いみたい。」

「あんなの靴擦れができるだけです。白か黒とか、紺の運動靴が動きやすくて一番です。外での体育用に運動靴を持っていくのも面倒ですし。」


 履きたい人は履けば良いけど、私は痛みと面倒だという思いが勝ったため、数回履いただけでやめてしまった。適当な物を見繕って手に取ると、お買い物籠を持って来てくれていた。


「ありがとうございます。」


 靴とクッションも入れて受け取ろうとすると、山吹さんはすっと躱してどこかへ歩き出す。


「君はまだ選ぶんだよ。次は鞄。学校用と普段使いの二種類必要だね。」

「一緒でいいですよ。」


 この後まだ服も選ばないといけないのに、鞄まで二種類も選ぶなんて体力が足りなくなってしまう。


「必要なんだよ。学校用はこの辺りから選んで。」

「教科書類がどのくらいあるのかも分からないので。選んでくれますか?」

「君はどんな機能が欲しいの?」


 必要な教科書やノートが入る大きさ、重い荷物を入れても壊れない強度。そんなものは言わずもがなだろう。それ以外に求めるものもない。


「頑丈であれば何でも。特にこだわりはありません。」

「何もないの?外か内にポケットがついていてほしいとか、色とか柄とか。」

「学校用でしょう?教科書が入る以上に何を求めるんですか。」


 数秒の沈黙の後、なるほどと呟き、鞄の強度を確かめてくれる。


「あ、でも、肩には掛けられる物が良いです。」

「学校に持っていけるような物はたいてい、肩に掛けられるようになってるね。」


 それならここにある物はおおよそ私の求める条件を満たしていそうだ。何個か確かめて、ようやく一個私に差し出してくれる。


「これはどう?」


 肩に掛けてみると少々長いけど、持ち手の長さは調整できるため問題ないだろう。


「じゃあこれにします。」

「次は普段用。」


 買うことは決定しているようであるため、自分が今まで使っていた、まだ選びやすい種類を希望する。


「ポシェットが良いです。」

「さて、どこにあったかな。」


 集まっている区画を探しつつ、買い物はまだまだ続いた。


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