最後の一球
十三回表。
スコアは六対六。
無死満塁。
打席には三番・広瀬。
これ以上ないチャンスだった。
相手投手がセットポジションに入る。
広瀬は静かにバットを構えた。
「広瀬!」
ベンチから岡本の声が飛ぶ。
広瀬は一度だけうなずいた。
初球
ストレート。
広瀬は見送った。
「ストライク!」
二球目
今度は低め。
「ボール!」
三球目
相手投手が投げ込む。
広瀬が振り抜いた。
――カキン!
打球はセンターへ高く上がった。
十分な飛距離。
タッチアップする。
「行く!」
センターからホームへ送球が返ってくる。
そして――。
「セーフ!」
七対六。
勝ち越し。
広瀬は拳を握った。
「よし!」
一死二、三塁。
続く四番・岡本。
岡本は打席に入ると、相手投手を睨んだ。
「もう一つ取るぞ!」
初球
ストライク。
二球目
ファウル。
そして三球目
岡本が振り抜いた。
――カキン!
打球はレフト前へ。
一死満塁。
再び満塁。
打席には五番・村田。
野村監督がベンチからサインを送る。
村田はうなずいた。
初球
外角。
村田はバットを出した。
――カキン!
打球はライトへ。
鈴木がタッチアップ。
ライトから送球が返ってくる。
「セーフ!」
八対六。
追加点。
二点差。
二死二、三塁。
続く六番・阿部。
相手投手は明らかに苦しそうだった。
阿部は粘った。
ファウル。
またファウル。
そして――。
最後は空振り三振。
「ストライク!」
十三回表、終了。
スコアは八対六。
俺たちは二点のリードを奪った。
あと三つ。
あと三つアウトを取れば――。
甲子園だった。
ベンチへ戻る。
阿部が俺の肩を叩く。
「工藤」
「……ああ」
「あと三つだ」
俺はうなずいた。
「分かってる」
俺はグラウンドを見る。
鈴木。
松井弟。
広瀬。
岡本。
村田。
阿部。
松井兄。
山田。
みんなが守備位置へ向かっている。
そして――。
石川。
彼女がベンチで立っていた。
目が合う。
石川は両手を胸の前で握りしめている。
俺は小さくうなずいた。
「……行ってくる」
声には出さなかった。
でも、石川には伝わったようだった。
彼女も小さくうなずく。
十三回裏。
相手の攻撃。
スコアは八対六。
二点差。
無死一、二塁。
俺はマウンドに立った。
阿部がサインを出す。
初球
外角へストレート。
「ボール!」
二球目
低めへスライダー。
「ボール!」
三球目
ストライクを狙った。
しかし――。
「ボール!」
四球。
無死満塁。
俺はボールを受け取った。
「……まだだ」
球場が大きくざわめく。
俺の一番嫌いな展開。
これまで何度も繰り返してきた。
でも――。
ここで終わるわけにはいかない。
阿部がミットを構える。
初球
ストライク。
二球目
ファウル。
追い込んだ。
俺は大きく息を吐いた。
三球目
腕を振る。
――空振り!
「ストライク、バッターアウト!」
一つ。
あと二つ。
初球
ストライク。
二球目
ファウル。
そして三球目
俺は外角へスライダーを投げた。
――空振り!
「ストライク、バッターアウト!」
二つ。
あと一人。
無死満塁だった。
それが今は二死満塁。
あと一人で勝利。
俺はマウンドからホームを見る。
阿部がミットを構える。
俺はうなずく。
一球目
ストレート。
――ストライク。
二球目
ストレート。
――ファウル。
追い込んだ。
あと一球。
俺はボールを握り直す。
これで終わらせる。
みんなと甲子園へ行く。
そう思って、腕を振った。
――カキン!
打球が高く上がった。
俺は一瞬、打ち取ったと思った。
だが――。
打球はどんどん伸びていく。
広瀬が背走する。
フェンス際。
「広瀬!」
広瀬が懸命に追う。
しかし――。
打球はフェンスを越えた。
満塁本塁打。
八対十。
大逆転。
球場が大きく揺れた。
俺はマウンドの上で座り込んで動けなかった。
二者連続三振。
そして最後の一球。
それが――。
満塁本塁打になった。
「……嘘だろ」
誰かの声が聞こえた。
俺はスコアボードを見る。
八対十。
二点差。
俺たちの夏が――。
終わった。
阿部がゆっくりとマウンドへ歩いてくる。
俺は下を向いた。
「……ごめん」
「工藤」
「俺が……打たれて負けた」
阿部は首を横に振った。
「違う」
「でも……」
「違うって」
阿部の声が震えていた。
「ここまで来たのは、お前一人だけの力じゃないだろ」
俺は顔を上げた。
阿部の目には涙が浮かんでいた。
鈴木も。
松井弟も。
広瀬も。
岡本も。
村田も。
松井兄も。
山田も。
ベンチのみんなも。
悔しそうな顔をしている。
そして――。
石川。
彼女も泣いていた。
それでも、俺から目を逸らさなかった。
俺は思った。
野球は終わった。
甲子園への道も終わった。
でも
まだ、終わっていない。
俺には、石川に伝えていない言葉がある。
今まで何度も隠してきた気持ち。
「別に」
「なんでもない」
「俺には関係ない」
そうやって逃げてきた。
でも、もう逃げたくない。
俺はゆっくりとマウンドを降りた。
そして――。
石川のところへ歩き始めた。




