俺は四球が嫌いだ
俺は四球が嫌いだ。
野球をやっている人間なら、誰だってそうだろう。
投手にとって四球は、もっとも簡単に与えてしまう失点のきっかけだ。
打者に打たれたなら、まだ納得できる。
相手が自分のボールを打ち返したのだから。
だが、四球は違う。
勝負すらしていない。
ストライクゾーンに投げ込めばいいだけなのに、自分から相手を塁に出してしまう。
だから俺は、四球が嫌いだ。
――なのに
「ボール!」
球審の声が、夏の青空に響いた。
「……」
俺は小さく息を吐いた。
スコアボードを見る。
カウントは、三ボール。
あと一球外せば四球。
打席には、この試合の一番打者が立っている。
県大会予選、初戦。
観客席には応援に来てくれた生徒たち。
ベンチには野村監督。
その隣には、責任教師の古田先生。
そして――
「工藤くん!」
聞き慣れた声がした。
ベンチの端。
スコアブックを抱えた女の子が、こちらを見ている。
石川。
野球部のマネージャーだ。
いつものように、ふわっとした笑顔を浮かべている。
俺は一瞬だけそちらを見ると、すぐに視線をホームへ戻した。
「……うるさい」
「え?」
「なんでもない」
もちろん、石川には聞こえていない。
聞こえていなくていい。
俺は帽子のつばを少し下げた。
セットポジション。
走者はなし。
捕手の阿部を見る。
サインが出た。
外角低め。
俺は小さくうなずく。
そして――
投げた。
白球は、狙ったところより少し高く浮いた。
「ボール!」
四球。
一塁へ歩いていく打者。
俺はマウンドの上で黙ってそれを見送った。
「……またか」
バックネット裏から、誰かの声が聞こえた。
「工藤、今日も始まったな」
野手からも笑い声が起こる。
俺は振り返る。
「うるせえ!」
ライトの鈴木が笑った。
「まだ一人目だぞ?」
「だから何だ!」
「いや、いつも通りだなって」
俺は無視した。
阿部がマスクを外して、こちらへ歩いてくる。
「工藤」
「なんだ」
「落ち着け」
「落ち着いてる」
「ならいい」
阿部はそれだけ言って戻っていった。
次の打者。
初球
ボール。
二球目
ボール。
三球目
ボール。
結果
四球。
「……」
俺は無言でボールを受け取った。
走者一、二塁。
続く三番打者。
初球。
ボール。
二球目。
ボール。
三球目。
ボール。
そして四球。
満塁。
三者連続四球。
球場がざわついた。
さっきまで笑っていた鈴木も、さすがに黙った。
伝令がベンチから出てくる。
俺はマウンド上で伝令を待った。
「工藤」
「はい」
「調子が悪いか?」
「普通」
「制球は?」
「普通」
「三者連続四球で?」
「……普通」
伝令はため息をついた。
「お前の普通は、普通じゃない」
そう言って、伝令はベンチへ戻っていった。
阿部が笑う。
「だってよ」
「うるさい」
「まあ、いつも通りってことだ」
「……そうだな」
俺はボールを握り直した。
満塁。
ここで打たれれば、一気に試合が動く。
だけど
俺は知っている。
こういうときほど――
俺は強い。
阿部からサインが出る。
ストレート。
俺は振りかぶった。
全身の力を指先へ集める。
そして投げる。
――ズバン!
「ストライク!」
球審の右手が上がった。
打者は動かない。
二球目
スライダー。
打者がバットを振る。
空振り。
「追い込んだ!」
ベンチから声が飛ぶ。
三球目
俺は一度、阿部を見る。
阿部が頷いた。
俺も頷く。
そして――
投げた。
外角低めへ鋭く沈む。
「ストライク! バッターアウト!」
空振り三振。
俺は小さく息を吐いた。
あと二人。
次の打者。
初球
ストライク。
二球目
ファウル。
三球目
外角のストレート。
「ストライク!」
三振。
あと一人。
ベンチが盛り上がる。
「あと一人!」
「工藤、いけるぞ!」
俺は聞こえないふりをした。
次の打者。
阿部がサインを出す。
ストレート。
俺は頷く。
一球目
ど真ん中。
――空振り
球場がどよめいた。
二球目
スライダー。
――空振り
カウント、ツーストライク。
そして三球目
俺は思い切り腕を振った。
白球が阿部のミットへ吸い込まれる。
「ストライク! バッターアウト!」
三者連続三振。
満塁のピンチは、何事もなかったかのように終わった。
「よっしゃあ!」
ベンチから大きな歓声が上がる。
俺はマウンドを降りた。
阿部が笑っている。
「な?」
「何が」
「いつも通りだったろ?」
「……まあな」
ベンチへ戻る。
すると石川がタオルを持って駆け寄ってきた。
「工藤くん、お疲れさま!」
「……」
「すごかったよ!」
「別に」
「三者連続三振ってすごいね!」
「……」
俺はタオルを受け取った。
「ありがとう」
「うん!」
石川は嬉しそうに笑った。
その笑顔を見ていると、なぜか少しだけ落ち着かない。
俺は顔を背ける。
「……ただの三振だ」
「でも、工藤くんらしいね」
「俺らしい?」
「うん」
石川は首を傾げた。
「なんていうか……」
少し考えてから、笑う。
「ツンデレみたい」
「は?」
思わず聞き返した。
「だって、最初は四球でピンチにするのに、最後はちゃんと抑えるんだもん」
「意味がわからない」
「ふふっ」
「笑うな」
「ごめんね」
そう言いながら、石川は全然反省していない。
俺はため息をついた。
だけど
なぜか嫌な気分ではなかった。
そのときはまだ知らなかった。
この夏、俺が野球部のみんなと過ごす時間が。
そして、石川と過ごす時間が。
俺自身を大きく変えることになるなんて。




