000話 「プロローグ」
二十四歳、限界社畜OL。
それが私、佐藤雪の人生だった。
目が覚めた私の目に飛び込んできたのは、金髪に翡翠の瞳をした美女。
薄い白布を身に纏っており、まるでどこかの西洋の宗教画から出てきた女神のようだった。
対して私は管理がしやすい黒髪のおかっぱに、どこにでも居そうな黒い瞳。
現実から目を背けようと周りを見てみるが、どうやらここは現実ではないのかもしれない。
何もない、どこまで続いていそうな真っ白い空間。
足元を見てみるとそこに広がるのは、水紋のような光の床だった。
私は思わず、胃が痛むのを感じた。
「申し訳ありません。複数の世界線が互いに干渉し合った結果、局所的な空間の歪みが発生しました。貴女はその被害に遭われ、死亡いたしました。」
「……死んだ、んですか、?」
直接脳に響いてくるような、不快な感覚を私は味わう。
絞り出すようにして出てきた声は、自分でも驚くほど震えていた。
「はい、肉体は原型を留めておりませんが、魂は傷ついてなかったのでこの空間に。」
彼女はそう言うと、少し気まずそうに眉を潜めた。
膝から崩れ落ちそうになるのを、気合だけでなんとか耐える。二十四年間の私の人生、最期があまりにもあっけなさすぎる。
連日連夜の残業の果てに、世界の歪みなんて言う事故で死んだなんて、残された家族や同僚にどう説明がいくのか。
「あの、まっくすはっ!? 私が居なきゃ、きっと死んじゃう……っ」
それ以上に、私の脳裏を支配したのは愛猫であるまっくすの存在だった。
密接に交流関係を持っていた人がいるわけでもない。
身寄りのない私に万が一があったとき、少し臆病で可愛いまっくすの面倒は誰が見てくれるのか。
親とは折り合いが悪く、私の愛猫を死後に引き取ってくれるほどの関係じゃない。
果たして私が死んでしまった今、まっくすがどうなってしまうか、ただそれだけが不安だった。
「貴女の愛猫なら近所の優しい老夫婦が飼ってくれるよう、因果律を少し調整したのでお気になさらず。」
「え……本当ですか? ありがとうございます……っ!」
胸を締め付けていた重圧がすっと消え去り、目から滲むように涙が溢れてくる。
その事実に私は心から安堵の息を吐く。
そんな姿を見た金髪の彼女は、満足そうに微笑んだ。
「私の大切な転生者様に未練は残してほしくありませんので、これくらいなら心配しないでください。この私、女神セシルの名において、貴女の猫の安全は保証しましょう。」
自身の事をセシルと名乗った彼女は、そう言い終えると私の頭に手を置くように撫でた。
その時、私はゆっくりと頭を上げた。
「……転生者、ですか?」
「はい。そこであなたには、異世界にてもう一度やり直すことのできる権利が与えられました。その世界の名をアルカディアと言い、魔法が存在しています。」
転生、女神セシル、異世界、魔法。
私はそこで一つのことを閃いた。
「あの、もし願いを聞いてくれるなら、ほどほどな才能……って生まれる時に貰えたりなどは、出来ませんか?」
「ほどほどな才能……ですか?」
するとセシルと名乗った彼女は顎に手をあてながら考え込み始めた。
「ダメだったりしますか?」
「いえ、禁止ではないですが……少々珍しいもので。わかりました。」
「ありがとうございます。」
何事も一番と言うことが良くないのはこの私が一番よくわかっている。
上に認められる功績を出せば、重責と嫉妬が押し寄せ、無能であれば切り捨てられる。
社会をうまく生き残るのに必要な能力は、目立ちすぎず、かといって何もしないわけじゃない。
そんな、微妙な立ち位置。
これは私が社会に出て学んだことだ。
「それでは転生を始めます。」
「……お願いします。」
瞬きをしようとした時にはすでに、私の意識は暗闇に落ちていた。
▲
次に目が覚めた瞬間、強烈な悪臭が鼻腔を通り抜ける。
生ものが腐ったような腐敗臭に、汗と、排泄物が混ざり合った酷い匂い。
喉の奥からこみ上げる凄まじい嘔吐感に、私は必死に口を押えた。
「っ! おぇぇ”っ! っげほ、げほっ……」
吐き出そうにも、胃の中は空っぽで、苦い胃液だけが喉を焼く。
薄暗い中、カチャリと冷たい金属音が響いた。
自分の腕を見る。
華奢で細い、酷く汚れた子供の腕。
そこに武骨な鉄の鎖が巻き付けられていた。
周りを見渡せば、同じように鎖でつながれた十歳前後の子供たちが怯える目で、虚無を見つめる目で縮こまっている。
すると頭の中に鋭い痛みが走った。
ぼんやり脳裏に浮かんできたのは、孤児院で育ち、夜中に口をふさがれ何者かに連れ去られた記憶。
――奴隷として売られる。
そのことを理解した瞬間、全身の血の気が引いた。
「なんで……っ」
私は一人呟く。
ガタガタと揺れる木製の馬車。揺れるたび、硬い金属の鎖がカチャリと音を鳴らす。
土地勘なんてものは存在せず、どこへ連れて行かれるのかも分からない。
今更記憶を思い出したところで、何もできない。
あの女神に今すぐにでも文句を言ってやりたい気持ちになるが、まっくすを助けてもらった手前私はただ、ぶつけようもない感情に支配された。
「……ひっ、ぐすっ」
目から涙が零れてくる。どうしてこんな事になったのか、何故私なのか。
様々な感情が入り乱れる心の中に自問自答を繰り返すが、なにも返ってこない。
本当なら今すぐにでも叫んで助けを呼びたい。
でも、それを理性が拒絶した。
頭の中で『うるさいぞ!! 黙って仕事をしろっ!』と言う元上司の理不尽な怒鳴り声と、御者台から聞こえてくる笑い声が重なる。
ここで声を上げても、御者台の男に殴られるだけだ。
叫んでも状況が変わらないと頭で理解はしても、それを上回る恐怖が私を支配する。
それでも今行動を起こさないと、このままだと死ぬのだと直感した。
「なにかしないと……」
社畜時代に身についた私の判断能力は、どうやら異世界に来ても働くらしい。
とりあえず、今の状況を整理しないといけない。
「ふぅー、はぁ……ふぅー」
恐怖と打撲した痛みで震える体を、なんとか落ち着かせるためにゆっくりと息を吐いた。
改めて自分の体を確認する。
子供特有の華奢な体に、右の足首に繋がれた金属の鎖。
性別はここは安心すべきか、女。ぼんやりしている記憶や体の成長的に歳は多分十歳程度。
ただでさえ力が弱いはずなのに、元々食べる量が少なかった影響か、骨が少し浮き出て痩せている体躯。
力づくでの脱出は……おそらく無理だろう。
私は金属の鎖と繋がっている右足首に目を向ける。
その時、小さい頃に一人で見た映画で主人公の行動を思い出した。
その主人公は手首に繋がれた鎖を、繋がれていない方の手で思いっきり叩いて骨を折り、鎖から抜けると言う奇想天外な方法で脱出していた。
当時の私はその演出が怖くて、途中から映画を離脱した覚えがある。
私も自分の手を見る。
もし仮にこの貧弱な体で足首の骨を折って鎖から解放されたとして、その後は?
馬車から運がよく出れても、右足が負傷していれば歩くのもままならない。
私はこの案を頭の片隅に追いやった。
――何より、私にそんなことをする勇気はなかった。
「……」
絶望。
今の状況によく合う言葉だと、心の中で苦笑いをする。
その時だった――今まで一定のリズムで揺れていた馬車が急激に止まったのは。
「なに……?」
外の音を拾おうと両手を耳に当て、私は集中するために静かに目を閉じた。
すると、外から声が聞こえてくる。
「くそっ! 冒険者が来やがった、ずらかるぞ!」
「でもボス! うちの目玉が」
「何言ってんだ! あの有名なカルラッタ旅団の団長、アレクシアが来てるんだぞ! 後方はもうやられてる、早く逃げないと殺される!!」
外ではそのあとすぐに怒号と金属音が混ざり合い、馬のいななきが響いた。
少しすると、近くで男たちの悲鳴や、地響きのような爆発音が聞こえてくる。
――その瞬間、私は今までに感じたことのないような感覚に陥った。
すべての感覚がまるで、警報を鳴らしているかのような。
「――危ない……っ!」
私は無意識の内に、左側に居た青い髪の男の子を手で押し飛ばした。
その瞬間、男の子のいた場所に握り拳二つ程度の金属片が勢いよく馬車の壁を貫通し、床に突き刺さった。
「今のは何……?」
突き飛ばした男の子もびっくりしているのか、目を見開きながら私の方を見つめていた。
自分の体を見てみる。
大丈夫、今ので怪我はしていない。
疲れ切った体を動かし、私は身をかがめると、先ほどの金属の欠片で空いた木の割れ目から外を覗く。
そこには、今まで見たことのないような緑豊かな森が広がっていた。こんな状況下じゃなかったら見惚れていたであろう、大自然が。
そしてその中央で――人が飛んできた。
「ひぃっ! は、はぁ、はっ。く、来るな! 辞めてくれ! 頼む、おねっ、がはっ……!」
悲鳴を上げた男の脳天に、真っ赤な閃光が走った。
次の瞬間、何が起こったかも分からずに男が白目を剥いて吹き飛び、馬車の目と鼻の先で動かなくなる。
恐怖で固まる私を置いて、馬車の荷台がバキィッ!! と音を立てて勢いよく破壊された。
木屑が舞う中、そこに立っていたのは、燃えるような赤髪を一本に束ね、革製の軽装に、身長ほどもある大剣を肩に担いでいる、高身長の女性だった。
革鎧に所々返り血がついていたが、そんな事よりも、私の頭の中には一瞬で姿を現し男を殺したと言う、目の前で起きた事で一杯になっていた。
怯えた子供たちが悲鳴をあげて奥へ縮こまる中、一番手前にいた私とその琥珀色の瞳がばっちりと合ってしまった。
彼女の大剣からぽたぽたと赤い雫がしたたり落ちる。
「……ひっ」
思わず声が裏返る。来ないで、触らないで。そう叫びたいのに、喉の筋肉が引きつって動かない。
赤い髪の彼女は私に近づくと大剣を床に突き刺し、ゆっくりと膝をついた。
鉄の匂いと強烈な異臭が充満する中、彼女の手が伸ばされる。
――殺される。
と目をつむった瞬間、私を包み込んだのは驚くほど暖かく、やわらかい抱擁だった。
「――もう、大丈夫。」
耳元で聞こえた声はどこか凛としていて、けれどどこか深みのある声。
その温もりがやけに心地よくて。
「あ……ぁ……っ」
張りつめていた恐怖と緊張がその一言でぽつんと糸が切れるように決壊する。
自分が死んだ時ですら堪えていた気持ちが溢れ出し、私は大きく声を上げた。
猛烈な疲労感と極度の安心感が津波のように押し寄せ、泣きじゃくりながら、私は彼女の胸の中でゆっくりと意識を手放した。
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