第9話 花浜匙が揺れるとき
戸口のあたりで、敷石を踏む微かな音がした。
「おはようございます」
見に行くと、リサさんが立っていた。リクトくんも一緒だ。
浅い藍色の麻のシャツに、生成りのかごを右手に抱えている。
かごの中には小さなタッパーがひとつ。蓋越しに、白と淡い橙色が透けて見えた。
「今朝は顔を見せなかったから」リサさんは少し躊躇うように続けた。
「蜜柑牛乳寒天を作ったの。よかったら、食べてね」
白い寒天の中に浮かぶ橙色は、琥珀に閉じ込められた花びらのようだった。
「ありがとう。嬉しい」
リサさんはほっとしたように微笑んで、「よかった」と呟いた。
その笑みには、照れくささと、何かを確かめるような気配が混じっていた。
「これ庭で摘んだんだよ」
リクトくんが差し出したのは、小ぶりな紫の花束だった。
商店の花とは違い、茎の長さはまちまちで、花の向きも揃っていない。
乾いた色合いなのに、どこか温もりがある。
素朴で控えめ、それでいて芯の強さを感じさせる不思議な花。
「スターチス?」
私の問いかけに、リサさんが頷く。
「はい。省吾さんが和名を教えてくれました。花浜匙って言うんですって」
指先で茎をそっと撫でながら、リサさんが続ける。
「浜辺の匙、って書くそうです。可愛い名前だなって」
花浜匙――初めて聞くその言葉が、耳に残る。
「丈夫で、ずっと枯れないって。乾いても色が褪せにくくて。だから、記憶の花って呼ばれることもあるらしいです」
記憶の花。その言葉に、胸がかすかに波打った。
「お姉ちゃん、お庭を見てもいい?」
リクトくんの声で我に返る。
「いいよ」
リクトくんは嬉しそうに庭の草花を見て回る。
本当に花が好きなんだな、と微笑ましく思っていると、彼が歌い始めた。
——おーさる こさる こさるのいえじゃ もちついてかこて
——なくこにゃひとつ わらうこにゃふたつ こうもりにゃみっつ
あの歌。
私も歌っていたわらべ歌。
---
母が含み笑いをしながら間違いを正してくれたことを思い出す。
「おさるじゃないのよ」
私は首をかしげた。
「ふふ。本当はね、おさるじゃなくて、大さむ小さむ。寒いってことね」
「ふーん。寒いの?」
「それにね、こうもりじゃなくて子守よ」
「こもり?」
「小さい子をお世話してくれる人のこと。寒い日にね、お餅をついて、泣いてる子にはひとつ、笑ってる子にはふたつ、子守りにはみっつって、お餅をわけてあげる歌なのよ」
「じゃあ、泣いたらひとつしかもらえんのん?」
「そうね。笑ってたら、ふたつもらえるよ」
「じゃあ笑う」
「それがいいね。笑ってたら、きっといいことが来るよ」
---
同じ歌詞の間違い。
「リサさんって、どちらの出身ですか」
「……いきなりどうしたんですか」
リサさんの雰囲気が少し固くなった。
目を凝らさないと気がつかない、ほんのわずかなものだけれど。
「リクトくんが歌っているの、この辺りの歌だから。もしかして近くの出身なのかなって」
「……近くではないですね」
「そうなんだ。ごめんね。なんか変なこと聞いちゃって」
小さい子どもが聞き間違えたり、言い間違えたりするのはよくあることだし。
それに私の記憶も、ところどころ虫食いのようにはっきりしない部分がある。
本当にぴったり同じなのかは、自信を持って言い切れない……。
「歌帆さん。どうしました」
考え込んでいたらしく、リサさんが心配そうに顔を覗き込んでいた。
「何でもない。ちょっとぼうっとしてて」
「暑いから気を付けて。じゃあ、また……やることがあるので」
リサさんとリクトくんの後ろ姿を見ながら、それでも、同じなのは偶然とは思えなかった。
スターチスを花瓶に生け、玄関の靴箱に置いた。
ちょうどそのとき、引き戸が音を立てて開き、智が顔を覗かせた。
「今日は裏から入ってこないの?」
「さすがに一度教えられたら覚えるよ」
あの日、庭の門から入ってきたのは、写真だけで家を探していたので玄関が分からなかったかららしい。
「写真だけで家に来るなんて、探偵みたい」
「俺は優秀なんだ」
そう言って智はわざとらしくふんぞり返る。
また、以前のようにふざけた話ができるようになったことが素直に嬉しい。
智が来たので、ふたりでリサさんの差し入れを食べることにした。
寒天をガラスの器によそった。
「麦茶でいい?」
智が冷蔵庫から麦茶を出し、ガラスのコップに注いだ。
「うん、助かる」
「和義さんに聞かれたよ。『お前さんは歌帆ちゃんの何なんじゃ』って」
「えっ」
「歌帆さんの彼氏です、って言ったら、今まで放っておいてふざけるなって」
美子さんが「ええ加減にしんさい」と言って止めたらしい。
私たちも歌乃さんがいたとはいえ、歌帆ちゃんに何もしてなかったでしょうと。
「親切な人たちだよね。俺にも従兄はいるけど、そんなに付き合ってないし」
そう。私だって島のこと一切に関心がなかったのだ。
「省吾さんとも話したよ。自分が誤解をさせたのなら申し訳ないって謝られた」
「気にしてたんだ」
彼らが親切なのは、私の境遇に同情している面もあるだろうけれど、心根が優しいからだと思う。
遠縁でも、こんなに温かい人たちともっと早くから付き合っていたかった。
「どうして、お母さんは私に教えてくれなかったんだろう」
言葉が口からこぼれる。
「和義さんは20年以上島を離れていたそうだから、付き合いが途絶えていたんじゃないかな」
和義さん一家は長い間、島を離れていて、帰って来たのは和義さんのお父さん——和雄さんという名は澄江さんに教えてもらった——が10年ほど前に亡くなったときだったそうだ。
美子さんは島の出身だと思っていたけれど、実は違うことも最近知った。
「美子さん、島の言葉を話してると思ってたけど、県は同じでも少し違うんだって」
「そういえば、省吾さんは訛りがないね」
話したかったことは島のことだったのだろうか。
父が島で不幸な事故に遭った、ということだけ聞いていた。
母はそのとき、すごく辛そうだったからそれ以上は何も聞かないようにしていた。
「智。もしかして、私の知らないきょうだいがいるのかな」
「そのことなんだけど」
智は、どこか言葉を選ぶように間を置いてから続けた。
「昔、この家で、小さい子が亡くなったことがあったって。そう言ってた」
「え?」
「美子さんも島にいなかった頃の話だから詳しくは知らないって。うっかり漏らしてしまったみたいで、すぐ口をつぐんじゃってさ」
「小さい子って……」
言葉の続きを飲み込んだ。日記にはそんなこと、一言も書かれていなかった。
「もしかして、その子……今は、もういないのかな」
風鈴の音が、どこか遠くで揺れた。
名前も、年齢も、何も知らない。けれど、あの子の笑い声。
「……亡くなったなんて。そんな……」
私は、自分に言い聞かせるように言った。けれど、心の奥に、ひとつの問いが浮かんで消えなかった。
——私の知らない"きょうだい"が、本当にいたのだとしたら。そして、もしその子が……もうこの世にいないのだとしたら——。
いちじくの葉が風に揺れ、どこかざわつくような気配がした。
気分を変えるためか、明るい口調で智は話し始めた。
「お昼、潮音に食べに行こうか。頼んだら用意してくれるって言ってたよ」
「今日はここでお昼にしない? 何か作るよ」
「どうしたの?」
「……リサさんのこと」
その名前を出すことに、自分でも少しだけ戸惑いがあった。
「何か引っかかってるの?」
「うん。出身地を聞いたらごまかされて、ちょっとだけ気になって」
「ご主人がいないみたいだし、何か事情があるんじゃないかな」
「かもしれない。でも、ほんの少しだけ、壁があった気がするの」
表情に浮き沈みはなかったけれど、その裏で「見られたくないもの」にそっと蓋をされたような、そんな感覚。あれが私の思い過ごしであってほしいと、どこかで願っている。
「リサさん、警戒しているのかな……何か、過去を探られることに」
声に出すと、それが一気に現実味を帯びてしまうようで、言い終えてから少しだけ後悔した。
心に重なる疑問や不安から、しばし離れていたかった。
智と静かに過ごす時間が、今は何より欲しかった。
※この作品は現代日本の物語です。
※ゆるやかな日常の中で、家族や過去と向き合うお話になります。
更新は毎晩21:00を予定しています。