第8話 紫苑忌
夜に満ちていた梔子の香りは、もう消えていた。
代わりに、庭のいちじくが青い実をふくらませ、かすかに甘い匂いを漂わせている。
何かが終わって、何かが始まる——そんな匂いだった。
智と縁側に並んで海を眺めた余韻が、まだこの家に残っている気がした。
あのあと、ほんの少しだけ言葉を交わした。
「今は、大丈夫?」
私は小さくうなずいた。
「……こっちに来て、何か分かったことある?」
智の問いに、私は母の日記を抱えているノートを見つめた。
「まだ……でも、近くにある気がする。母の、知らなかった顔」
智は黙ったまま、続きを促すように待ってくれた。
「母と一緒に過ごそうと思ってたのに、それもできなかった。だから、今ここで……何かを受け取れたらって」
「見つけられるといいな」
この家には、まだ母の気配がある。
母が抱えていたものを、私はきちんと知る必要がある気がしていた。
翌朝、智は少し早めにやってきた。
玄関を開けると、差し込む光が畳の上に斜めの筋を描いていた。
庭の片隅に、うっすらと紫の色が見えた。
雑草に紛れるようにして、ひっそりと立っている細い茎。
その先に、淡く、静かな紫苑の花が揺れていた。死者を悼むように咲く花が、季節の移ろいとともに、そっと顔を出している。
未開封の段ボールがいくつか並んでいる。
「一人で片づける」と言ったものの、作業は思ったより進んでいなかった。
智は靴を脱ぐなり「手伝うよ」とだけ言って、中に入った。
「ありがとう」
それきり、余計な会話はなかった。
私たちは黙々と動き続けたけれど、それが心地よかった。
片づけが進み、部屋はだいぶすっきりした。
仏間には、ふたつの仏壇が並んでいる。
ひとつは、黒漆の伝統的な仏壇。
もうひとつは、実家から持ってきた白木の小さな仏壇。北欧風の棚のような佇まいだったが、不思議とこの家になじんでいた。
「お母さん、お父さんとゆっくり話してるのかな」
私がつぶやくと、智はふたつの仏壇に向かって、静かに手を合わせた。
「きちんと言いたいから言うよ。俺たち、やり直そう」
その声は、わずかに震えていた。私は、小さく息をのんだ。
やり直す——その言葉は、軽くはない。
けれど、私の中の何かが、そっと「うん」と答えた。
母が遺したものと向き合うこの時間に、過去の自分とも、ちゃんと向き合いたくなった。
「ありがとう」
私が言うと、智は安堵したように、小さく息をついた。
その静けさの中で、ふと思い出したように、私はそばに置いていたノートを手に取った。
「そうだ……これ、お母さんの日記なの」
そう言って、私は智にノートを差し出した。
「日記?」と智が首をかしげる。
「うん。二十年くらい前から書いてるみたい。でも、書かれている内容が少なくて。不思議なの」
「もしかすると、島の家に来たときだけ書いてたのかもね」
その後も片付けを続けていると、智が開けた箱から色褪せたノートが数冊出てきた。
「これ……やっぱりそうかも」
「全部、日記だね」
ふたりで並んで居間に座り、ページをめくった。
最初に目に入ったのは、日付と短いひと言。
――庭に紫苑を植えた。「君を忘れない」という意味がある花を。
その一文に、私はしばらく目を留めた。
風が抜けるような寂しさと、何かがそこに残る気配。その両方が、母の筆跡のなかに宿っていた。
「……そろそろ、四十九日なんだけど」
ぽつりと呟くと、智が顔を上げた。
「何か、決めてる?」
「ううん……正直、よく分からなくて。法要のことを調べてみたんだけど」
智は黙って続きを待ってくれる。
「母が亡くなった後、余裕がなくて、お骨をアパートに置いておけないって思って。だから和義さんに頼んで納骨してもらったの。でも……」
「四十九日に納骨することが多いから、ってこと?」
「うん。済ませちゃってるからどうしたらいいか分からなくて。和義さんたちは何も言わなかったけど、もしかして非常識だって思ってたらどうしようって……」
智は少し考えてから、やわらかい声で言った。
「納骨を先にする人もいるよ。大事なのは、ちゃんと送ることだと思う」
「……ありがとう。話してよかった」
「分からないときは、人に話せばいいんだよ」
その言葉に、私はふっと背中を押された気がした。
頭に浮かんだのは、澄江さんの顔だった。
その日の午後、私は澄江さんを訪ねた。
事情を話すと、澄江さんは静かにうなずいて言った。
「四十九日は大事な区切りじゃけえ。お寺さんに相談してみんさい。わしも一緒に行っちゃるけえね」
「ありがとうございます。何も知らないので、教えてください」
「知らんのはしょうがないことよ。聞いてくれて、ありがとうね」
お寺の本堂で、澄江さんと一緒に住職と話をした。
「四十九日より前に納骨してしまったのですが……」
そう伝えると、住職は微笑んだ。
「お気持ちがあれば、それでいいのです。きちんと送ろうとする思いがあれば、日にちは問いませんよ」
「お墓に名前を刻まないといけないですよね」
その場で石屋の職人を紹介され、墓誌への彫刻をお願いすることになった。
母の名前が、ようやくこの島に刻まれる。
ふと、こんな疑問が浮かんで尋ねた。
「四十九日って、いつになるんでしょうか。六月二十九日が命日なので……八月十七日?」
澄江さんは首をかしげ、小さく笑った。
「歌帆ちゃん、四十九日ゆうたらね、亡くなった日を一日目に数えるんよ。じゃけぇ……」
指を折りながら、やさしく続ける。
「六月二十九日なら、四十九日は八月の十六日になるよ」
「……そうなんですね」
その日付を、私は心の中で繰り返した。
――八月十六日。
「……その日、私の誕生日です」
思わず口にすると、澄江さんは驚いたように目を丸くした。
「まあまあ……。あんたが生まれた日に、お母さんが旅立ちの支度をするんやね」
私は何も言わず、その言葉の余韻を胸にしまった。
「お寺に来たのは初めてで、知らないことばかりで…すみません」
「いえ、構いませんよ。私は代替わりしたばかりで、正確なことは申し上げられませんが、お母様は法事のたびに、いつもお一人で来ておられました」
「そうなんですね」
なぜ、母は頑なに私を島へ連れて来なかったのだろう。
ふと思い当たることがあって、口を開いた。
「父が……不幸な事故で、この島で亡くなったと聞きました。たぶん、それが理由かも」
「お父様のことは、私も存じています。今年で二十三回忌ですね。もしよければ、四十九日と一緒に法要をされてはいかがでしょう」
母が守ろうとしたもの。
語られなかった想い。
それらが、少しずつ私の手のひらに戻ってくる気がしていた。
八月十六日、母の四十九日と、父の二十三回忌を。ふたりを一緒に見送ろう。
その日が、私にとって特別な誕生日になるかもしれない。
そんな思いを、心の奥でそっと灯しながら——。
※この作品は現代日本の物語です。
※ゆるやかな日常の中で、家族や過去と向き合うお話になります。
更新は毎晩21:00を予定しています。