第7話 白いアイリス
船が港に着いた。潮の匂いが静かに流れてくる。
初めての島なのに、この香りも風景も、どこかで出会ったことがあるように思えた。
リュックを背負い直し、ゆるやかな坂を登る。
真夏の陽射しが路面に沁み、目の奥が熱を帯びる。けれど胸の奥の波立ちのほうが、ずっと深かった。
——歌帆に会えるだろうか。いや、本当に会ってよいのか。
この島に来たのは、ほとんど衝動だった。
大学の後輩から、歌帆の母親が亡くなったと聞かされたのは一週間前。
「……知らなかったんですか」
その響きが、静かに胸に刺さった。
なぜ自分だけ何も知らされなかったのか。苛立ちと戸惑いが先に立った。
けれど、すぐに思い当たる。
最後に会ったあの日、彼女は「お母さんから電話があった」と話していた。
今思えば、あれが最後の声だったのかもしれない。
後輩が居場所を教えてくれたのは、きっとこの顔を見てのことだ。
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第一希望の会社に入って、仕事に夢中になった。
一人前になることばかり考えて、周りのことが見えなくなっていた。
歌帆は不満を口にしながらも、「智は不器用だもんね」と笑った。
その笑顔に隠された諦めを見て見ぬふりをした。
彼女は週に二、三回メッセージをくれたけれど、まともに返せなかった。
連絡が途絶えた時、勝手に彼女が離れていったんだと思っていた。
ある日、突然会議がなくなった。無性に会いたくなり、連絡を入れた。
電話をすると「実家にいる」と言う。
そこは新幹線で4時間以上かかる場所だった。
せっかくの機会だったのに、がっかりした。
彼女が母親を大切にしていることは知っていた。
物心つく前に父親が亡くなり、ふたりで寄り添って暮らしてきたという。
少し電話で話でもしようと思ったが、急いで切られてしまった。
メッセージを送っても返事がない。
数日たって、既読も付かなくなった。
もしかして何かあったのだろうか。
心配になって、また電話した。
その時、後ろから男の声が聞こえた。
問い詰めると、彼女は電話を切った。
腹が立って、謝ってくるまで連絡するのをやめようと決めた。
でも、結局我慢できなかった。
机の奥から絵葉書を取り出した。
群青の花々のなかに、一輪の白いアイリス。
美術館で彼女が「この一輪が好き」と呟いた声を思い出す。
書いたのは、ただひとこと——「元気?」。
返事が来るかどうかなんて分からなかった。
それでも、忘れていない証を残したかった。
——結局、自分のことしか考えてなかったんだ。
どうして気づかなかったのか。なぜ向き合えなかったのか。ずっと自分を責めていた。
事業所の立ち上げに追われ、毎日が嵐のように過ぎていった。
深夜に帰り、休日も消え、通知を見る余裕すらなかった。
それはただの言い訳だ。
だから言った。「一ヶ月、休ませてください」と。
上司は言った。
「正直、お前には負担が大きすぎた。やる気をかって何も言わなかった俺たちも悪かった」
「……すみません」
「まあ、いいタイミングかもしれないな。プロジェクトも一段落したし、周りのみんなもお前を心配してる。お前のおかげで、いい感じに進んでるし、今は誰も文句は言わないだろう」
自分の頑張りが無駄でなかったと分かり、少しだけ心が軽くなった。
「仕事も大事だけど、それだけじゃ大切なものを見失うぞ。お前も、そろそろ人間らしい生活をしろ」
そうして、休みは認められた。
贖罪のように、この島に来た。
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宿は後輩に聞いた「潮音」。古びた木造が、潮風にじっと佇んでいた。
女将の美子さんは微かに笑みを浮かべ、「ゆっくりしていきんさいね」とだけ告げた。
夕餉のあと、縁側に腰を下ろす。風に運ばれたのは、咲き終えた梔子の残り香だった。
——あの夜。初めて唇を重ねた時も、同じ香りがあった気がする。
物音がして振り返る。誰もいなかった。
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翌朝。
風に乗って声が届いた。胸が、一瞬つまる。
……歌帆?
だがそこにいたのは、別の女性だった。
朝食を早めに終え、散策を口実に宿を出る。
地図はなく、スマホも繋がりにくい。それでも、歩く先だけはわかっていた。
歌帆から送られてきた写真。
その写真と同じ風景を探した。
小さな岬を越え、迷いながら辿り着いた先に、白い家があった。あの家に、歌帆がいるのだろうか。
足を踏み出しかけて、立ち止まる。
——まだ、会う勇気がない。
背を向け、宿へ戻った。
「ねえ、待って」
振り向くと、黒髪を束ねた女性がいた。朝に見かけた人だ。幼い男の子が隣で折り紙をひろげている。
歌帆ではなかった。別人だとわかると、静かな戸惑いだけが広がった。
「リサちゃん、こっち来て」美子さんが呼ぶ声。
「リサ……」
その女性——リサは、気づかぬまま、笑顔で奥へ消えた。まるでここにはいない誰かと言葉を交わすように。
歌帆はいま、どこで、何をしているのだろう。まだ会ってくれるだろうか。それともすでに、新しい日々を歩んでいるのか。
夕暮れ、再び白い家を目指した。
ためらいながら門をくぐると、海からの風がそっと吹き抜けた。
縁側に、歌帆がひとり座っていた。
わずかな言葉を交わし、隣に静かに腰を下ろす。彼女がほんの少しだけ、身を寄せた気がした。
見上げれば、夜空に上弦の月。青白い光が波に反射し、海を淡く照らしている。
ふたりはただ、遠い海を見ていた。
風と潮騒と、梔子の残り香。それだけが、過去と現在を静かにつないでいた。
※この作品は現代日本の物語です。
※ゆるやかな日常の中で、家族や過去と向き合うお話になります。
更新は毎晩21:00を予定しています。