第6話 月白のまなざし
翌朝、潮音の暖簾が風に揺れていた。
私は胸の波立ちを鎮めるように息を整え、足音を忍ばせて店内へ入った。
若い男性の姿はなかった。
「朝ごはんの後、島を歩きに行くって出て行ったよ」
美子さんの声は、遠い潮騒のように静かだった。
その簡潔な言葉に余分な色はなく、ただ必要なことだけが澄んで流れた。
どこかで出会うかもしれない。
もし、それが智だったなら——。
その思いが、水面に落ちた一滴のように静かに広がっていく。
美子さんは何も問わず、冷えた麦茶を音もなく差し出した。
その気遣いが、かえって胸に沁みた。
「……ありがとう」
穏やかな笑い声に目を向けると、リサさんがいた。
小さな椅子に腰かけ、雲ひとつない空を仰いでいる。
陽を浴びたその姿は、朝露に濡れた花弁のように清らかに見えた。
隣ではリクトくんが折り紙を折っていた。
小さな指が紙を折るたび、光が静かに色を散らしてゆく。
リサさんの横顔は穏やかだった。
けれど瞳の奥には、光を映さない深い水のような静寂があった。
「リサさん」
呼びかけると、彼女はゆるやかに振り返った。
「おはようございます。……よろしければ、一緒にいかがですか」
その声に、張りつめていた力がふっと抜けていく。
ふたりの傍に腰を下ろすと、リクトくんが差し出した折り紙を受け取った。
「これ、カメムシ」
「すごいわね。でも、なぜカメムシ?」
「昨日、省吾お兄ちゃんが言ってた。蜜柑の葉っぱにいるんだって」
「……よく覚えているのね」
リサさんの微笑みが、空気をやわらげた。
折り紙を見つめながらふと、左手にノートを抱えている自分に気づいた。
いつの間にか、母の日記を持ち出していたのだ。
リサさんの視線がノートに留まる。
「それは……」
少し迷い、言葉を探す。
「母の日記です。気づいたら、手にしていました」
「お母様の……」
「はい。今、少しずつ読んでいる途中なんです。……でも、全部を読んでいいのか迷っている。勝手に触れてはいけないような気がして」
不思議と、リサさんには打ち明けられた。
彼女はしばらくノートを見つめ、頷いた。
「……触れたら、壊れてしまいそうな気がするのですね」
その言葉は胸の奥深くへ沈んでいった。
風が通り抜ける。鳥の声と遠い波音だけが、透明な時間を満たしていた。
沈黙は重さを持たず、むしろ互いを包み込む夜の海のように柔らかだった。
---
夕暮れ、私は家の縁側に座っていた。
空の西端にはまだ明るさが残り、東の空には淡い群青がにじんでいる。
風は昼の熱を払い、草むらの虫たちが夜の訪れをひそやかに告げていた。
葉のささやきは穏やかで、空気は少しずつ秋へと傾いていた。
そのとき、門の方で足音がする。
振り向くと、智が立っていた。
黒いリュックを片肩に提げ、日焼けした顔で私を見つめている。
「久しぶり」
その声は、長い間閉ざされていた扉をそっと開く風のようだった。
私は立ち上がり、ためらいながらも彼へ歩み寄った。
彼の瞳には、いくつもの感情が沈んでいた。
不安、疑い、怒り——そして安堵。
「ごめんなさい」
口からこぼれると、智は眉を寄せた。
「……どうして、何も言ってくれなかったの」
「言えなかった」
それ以上、言葉は続かなかった。
智はしばらく私を見つめ、小さく頷いた。そして静かに話し始める。
「あの後、君からの返信が途絶えて、すぐにわかった。きっと何かあったのだろうと。でも、怖かった。俺はあの頃、仕事ばかりで……君の言葉をちゃんと聞いてやれなかったから」
声がかすかに震えていた。
「後輩から、君のお母さんが亡くなったと聞いた時、ひどく動揺した。何も知らなかった自分が情けなくて……」
「智……」
「新しい事業所の立ち上げで、毎日が嵐のように過ぎていった。
でも、それを言い訳にはしたくなかった。だから無理を言って、一ヶ月の休みを取ったんだ。上司には叱られたよ。『お前もそろそろ、人間らしい生活をしろ』って」
彼の言葉を、私はひとつひとつ静かに受け止めた。
「来てくれて、ありがとう」
気づけば、その言葉が自然に口をついていた。
ふたりは言葉もなく佇んでいた。
暮れゆく空に、上弦の月が静かに輝いていた。
白磁を思わせるその光が庭の草木を淡く照らし、虫の声を銀色に染めている。
月光は澄みきって、私たちの沈黙をやわらかく抱きしめた。
風の音と、どこからか漂う梔子の香りが、そっと満ちていった。
※この作品は現代日本の物語です。
※ゆるやかな日常の中で、家族や過去と向き合うお話になります。
更新は毎晩21:00を予定しています。