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第5話 梔子の夜道

 智がこの島に来たと知った時、私は言葉を失った。


 その日、潮音に顔を出すと、美子さんがふと思い出したように告げた。


「そういえば、歌帆ちゃんのことを尋ねてきた人がいたよ」


「私のことを、ですか?」


「若い男の人でね。『日高さんという女性をご存じですか?』って。ほら、このあたりは日高が多いじゃろ。だから言っといたのよ、『ここはみんな日高じゃ』ってね」


 そう言って美子さんは、くすりと笑い、それから少し声を落とした。


「変な人には見えんかったよ。むしろ礼儀正しくて、真面目そうな感じ。心当たり、ある?」


 胸の奥に、じわりと冷たいものが沈んだ。


 美子さんの話では、その男性は午前中に島へ着き、辺りを散策した後に宿へチェックインしたという。


 私は、その瞬間、何も返すことができなかった。


 顔を見に行くべきか。それとも、このまま気づかないふりをするか。

 結局その日は落ち着けず、民宿に留まることもできないまま、帰路についた。


 夜になり、ひとり布団の上で眠れない時間を過ごした。波の音が、いつになく近くに響く。風が戸を揺らすたび、鼓動まで跳ねるようだった。


 ——やはり、智なのだろうか。


 あの気まずい電話の後、実家に届いていた手紙を転送設定していた。この島の家に届くようになったのだ。


 届くのはほとんどダイレクトメールやカタログだったが、時折、思いがけないものが紛れていた。


 その中に、一枚の絵葉書があった。

 青いアイリスの群れの中に、ぽつんと白い一輪が描かれた力強い絵。

 宛名には「日高歌帆様」と、絵と同じように力強い筆致の文字。

 メッセージは「元気?」の一言だけ。


 ——昔、美術館でこの絵を好きだと話したことがあった。交際を始めたばかりの頃だ。

 覚えていてくれたんだ。


 返事をしなかったから、こうして葉書を送ってきたのだろうか。

 その日、私は窓から見える海を写真に撮り、「いま私はここにいます」と言葉を添えて、智へ送った。


 会うのは怖い。けれど、見つけてほしい気持ちも確かにあった。


 気になるなら電話をすればいい。けれど、手を伸ばしかけては引っ込め、自分の優柔不断さに呆れてしまう。


 思い出す。あの日——久しぶりに智に会えると浮き立った心のせいで、母からの電話を途中で遮ってしまったことを。


「話したいことがある」という言葉を、私は最後まで聞かなかった。

 そして、その後すぐに母は——。


 その悔いは、今も私の中で痛み続けている。智にはまだ何も話していない。母が亡くなったことも、自分がこの島に来ていることも。


 話せば、きっと智を責めてしまう。理不尽に。

 だから私は、ただ逃げているだけだった。

 知ってほしいのに、知られるのが怖かった。


 夜の静けさは、昼のざわめきよりも記憶を呼び覚ます。

 波の音が、ふと母の声に重なるような気がして、居間の隅で耳を澄ませていた。


 島での暮らしにも、少しずつ調律が生まれていた。

 朝は掃除をし、昼には畑を眺め、古い本を整理する。

 潮音に顔を出すこともあるけれど、客としてというより、この場所の一部に溶けこむ感覚だった。


 けれど、その穏やかな日々の奥で、いつも気になっているものがある。


 ——あの布張りのノート。


 まだ読めずにいた。正確に言えば、読む勇気がなかった。開いたら、何かが変わってしまいそうで。


 母が残した「話したいこと」の答えが、そこにあるような気がして。

 けれど今夜は、不思議と風に背を押された。机にノートを置き、静かに表紙をめくる。

 そこには、母が「この島でやり残したこと」を記していた。

 島を訪れるたびのメモや心情。


 懐かしい人に会ったこと。家の手入れをしたこと。

 ——そして、「歌帆がここを覚えていないのは、きっと私のせいだろう」と自嘲するように書かれた一節。


『私は、あの子に「おかえり」を言ってあげられなかった』


 あの子とは、誰のことなのだろう。私? それとも……。


 ページをめくるごとに、母の感情が輪郭を帯びていく。

 家に流れる風の匂い。夏蜜柑の葉の揺れ。

 過ぎた時間への罪悪感と、それでも消えない愛情。


 そして、あるページの隅に記された言葉が、私の視線を留めた。


『記憶の底に、ひとつだけ埋もれている声がある。「あの島で、また会おうね」と、あの子は言った。私は、それを約束にできなかった』


 ——あの言葉。


 記憶の底で、声が蘇る。


 ——「あの島で、また会おうね」

 小さな女の子。顔は逆光で見えなかった。でも、その言葉だけが、何度も心に残っていた。ずっと夢だと思っていた。


 けれど、もしかしたら――。


 気がつくと、私はノートを胸に抱いて、縁側に出ていた。雨の匂いが、まだ残っている。遠くで、小さく波が寄せる音。


「お母さん」


 呼びかけると、空気が澄んだように感じた。

 夜の梔子(くちなし)が、かすかに香っていた。

※この作品は現代日本の物語です。

※ゆるやかな日常の中で、家族や過去と向き合うお話になります。

更新は毎晩21:00を予定しています。

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