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第4話 蜜柑の木陰

 美子さんからの夕飯の誘いで、私は潮音へと足を向けた。

 日中の散策で温まった肌を、海風が静かに冷ましてゆく。


 奥から、リクトくんの足音が近づいてきた。


「お姉ちゃん、また来てくれた」


「ご飯をいただきに。何をして遊んでいたの?」


「省吾お兄ちゃんと一緒にお花見てた」


 省吾さんがひっそりと姿を現した。

 リクトくんは再び彼の傍らに戻り、手にした小さな花を見せている。


 桃色をしたその花は、私には馴染みのないものだった。


 ふたりの間に多くの言葉はない。けれど、そこには穏やかな時の流れがあった。

 まるで視線だけで心を通わせているような——少し、羨ましく思えた。


「お姉ちゃん、これね、ハマナデシコって言うんだって」

 リクトくんが花を差し出してくる。


「そう。初めて見る花ね」


「省吾お兄ちゃん、花の名前を何でも知ってるんだよ」


「……何でも、というほどではない」


 省吾さんの口元が、ほんの少しだけ緩んだように見えた。


「省吾さんは、花に詳しいんですね」


 私がそう呟くと、省吾さんは一瞬目を伏せ、静かに答えた。


「……花は、好きなんです」


「そうなんですね」


 短い言葉だったが、それは彼を知る小さな手がかりのように思えた。


 その日は宿の客が年配の男性ふたりだけで、皆で鍋を囲むことになった。


「鍋に蜜柑……?」


 和義さんが、穏やかに説明してくれる。

「この辺りでは蜜柑鍋が名物なんよ。ほんまは冬に食べるんじゃがね。

 本式は、つみれに蜜柑の皮を練り込むんじゃが、面倒だから省いとる。

 蜜柑胡椒もないから、柚子胡椒で代用したんじゃ」


 澄江さんが戯けたように言葉を投げた。

「本当は青唐辛子も入れるんじゃろ?」


「うるさいのう。なくても充分じゃ」


「昔はこんな料理なかったんじゃがね。見た目に驚くけど、美味しいんよ」


 蜜柑に目を奪われていたが、ネギや白菜、つみれに数種の魚が入り、食欲をそそる。

 魚の名前は分からなかったが、客の一人が「アコウ」だと教えてくれた。


「私たちがどうしても蜜柑鍋を食べたいと無理を言ったものですから。

 これでも充分美味しいけれど、本物はもっと素晴らしいのでしょうね。また訪れなければ」


 そう言って客は静かに微笑む。


「野菜は基本、家で採れたものを使うんよ。白菜は時期じゃないから買うてきたけれど」


 美子さんが続けた。


「最初は不便だと思うちょったけれど、慣れたねぇ」


 島には小さな商店があるだけで、売られているものの種類は限られている。

 そういえば、あちこちで家庭菜園を見かけた。


 食事が始まってしばらくすると、リクトくんが客の男性の隣にちょこんと座った。


「おじさん、お魚釣ったの?」


「ああ。大きなのが釣れたんだ。リクトくんは魚、好きかい?」


「好き。でも、釣ったことはない」


「そうか。今度教えてあげようか」


「本当?」


 喜びを込めて手を打つリクトくんに、男性も目を細める。その様子に、周囲も自然と笑みを浮かべた。


「美子、野菜が足りんから、ちしゃをかいできてくれるか」


 和義さんの声に、美子さんがひょいと立ち上がる。


「ちしゃをかぐ?」


「歌帆ちゃんは知らんのね。ちしゃというのは、レタスのような葉野菜じゃね。

 かぐというのは、葉を外側から取ることなんよ」


「ああ、そういうことですね」


 澄江さんが、微かな笑いを含んで話し始めた。


「歌乃ちゃんもね、かぐが分からんで。かいできてと言ったら、まるごと引っこ抜いてきたんよ。あの時は驚いたね」


「お母さん、大雑把だったから……」


 母のことを思うと胸が苦しくなる。けれど、こうして私の知らない話を聞けるのは嬉しかった。


 ここに母がいてくれたら、良かったのに。


 表情が崩れそうになって、慌ててご飯を口に運んだ。


 民宿の料理は和義さんが主に手がけている。鍋のつみれも、彼の手作りだそうだ。


「和義、ずっと働いとるじゃろ。これはうちが作るから」

 澄江さんが奥へ向かった。


 しばらくして、ちしゃを使った副菜が運ばれてきた。


「ちしゃなますよ」


 器にはちしゃとワカメ、しらすが和えられている。

 箸をつけると、さっぱりとした酸味と甘い味噌の風味が口に広がった。


「この宿の料理は美味しいと聞いていたけれど、想像以上でした。客より宿の人の方が多くて驚きましたが」


「すまんのう。流行らん宿じゃけ」


 客と語らいながら食事をしていると、自然と笑顔が浮かんだ。

 省吾さんもリサさんも、静かに、けれどもどこか楽しげにしているのが印象的だった。



 翌朝、目覚めると、部屋にはもう陽が差していた。

 家の障子越しに透けて見える影が、まるで水面に揺らめく光のようで、ぼんやり眺めていると夢の続きに戻りそうになる。

 けれど、風の音と共に聞こえる鳥の声が、ここが現実なのだと教えてくれる。


 私は静かに起き上がった。


 そして、今日はもう少し遠くまで歩いてみようと思った。


 柑橘畑のある坂道は、朝から陽光に満ちていた。

 島の人が手入れしている段々畑には、青々とした葉と、まだ幼い実がたくさん実っている。

 その間を通るだけで、空気がほのかに甘くなる。蜜柑というより、もっと青い、夏の香り。


 木陰に入ると、蝉の声が急に遠ざかる。

 ここには小さな東屋のような休憩所があって、昔、家族で訪れた時にも立ち寄った記憶がある——ような気がした。


 木のベンチに腰を下ろすと、様々なことが静かに心に浮かんでくる。


 ——リサさん。


 初対面なのに、声を聞いた時に懐かしさを覚えた。


 母の日記をまだ読めずにいることが、心の片隅にずっと残っている。そろそろ向き合うべき時なのかもしれない。

 怖くて開けられずにいた日記のノート。けれど今ここで、母がどんな思いで私を送り出したのか、知りたい自分がいる。


 島に来て、まだほんの数日。けれど——何かが、少しずつ、変わり始めているような気がする。


 遠くから、小さな笑い声が聞こえた。

 振り向くと、段々畑の向こうから、リサさんとリクトくんがこちらへ歩いてくるのが見えた。

 私はベンチから立ち上がり、ゆっくりと歩き出した。


 陽射しの降り注ぐ道の向こうで、リサさんが私に気づき、静かに微笑んだ。


「こんにちは。良いお天気ですね」

「ええ、本当に……蜜柑の香り、すごいですね」

「実のつくこの時期は、良い香りがします。まだ酸っぱいけれど」


 私たちは自然に並んで歩いた。リクトくんが私の前を小走りで駆け、振り返る。


「お姉ちゃんも、一緒に来るの?」

「うん、いいかな?」


「うん」と嬉しそうに微笑んで、リクトくんは坂を登っていく。


「……あの子、本当に人懐っこいですね」

「そうですね。……それが、少し心配になるほど」


 リサさんの横顔が、ほんの少し翳ったような気がした。

 私は言葉を飲み込んだ。踏み込んではいけない領域があるような気がして。

※この作品は現代日本の物語です。

※ゆるやかな日常の中で、家族や過去と向き合うお話になります。

更新は毎晩21:00を予定しています。

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