最終話 この島でまた会おうね
家に戻った私は、アルバムを取り出して理乃と一緒に見ることにした。
そこに理乃の姿はない。だから、彼女がどう思うのかが気になって、見せるのをためらっていた。
それでも――母の姿を、理乃に見せたいと思った。
黒い髪。私より少しふくよかな体つき。穏やかな表情の女性。それが、母だった。
「これが……お母さん」
理乃は何も言わず、黙ってアルバムをめくった。
生きているうちに、もう一度会いたかっただろう。
けれど、その表情からは、特別な感情は読み取れなかった。
「お母さんって、どんな人だった?」
「少しおおざっぱで……でも、しっかりした人。看護師をしてた」
理乃はふと思い出したように言った。
「そういえば、理久斗を連れて、街の病院に行ったの。予防注射のために」
島には予防注射ができる病院がない。対岸の病院には島の人もよく行くけれど、理乃はあえて、少し離れた病院を選んだという。
偽名を使っていたものの、保険証は本名だったからだ。
「親切な看護師さんがいてね。顔はマスクでよく分からなかったけど……お母さんに、雰囲気が似てた」
理乃はそう言って、アルバムの中の母を指さした。
「理久斗が名乗ったら、『いい名前ね。お父さんとお母さんの名前をもらったのね』って」
理乃は首をかしげた。
「あれ……どうして、分かったんだろう」
胸の奥が、ひやりとした。
「……病院に行ったのって、六月?」
「そういえば、そうだった」
「駅の近くの、小児科じゃなかった?」
「そうだけど……」
私が突然涙をこぼしたので、理乃は戸惑った表情になる。
「それ……お母さんだよ」
母は、駅の近くの小児科に勤めていた。
母は理乃と理久斗に気づいたのだ。
勤務中だったから、名乗らなかったのだと思う。母は、そういう人だった。
仕事に差し障るからと、職場では香水を絶対につけなかった。
――だから、あの電話をかけてきたんだ。
私たちは、いつの間にか二人とも涙を流していた。
その夜、私は聞けなかった。理乃が島に残るかどうか、その答えを。
翌朝、理乃と一緒に潮音へ向かった。
理乃は道すがら、少し考え込むような表情で「……もう一度、島の家で話したい」と言った。
潮音で朝食をいただくことにした。理久斗と祖父にも会いたかった。
智と祖父、理乃、理久斗。皆で囲む朝の食卓は、静かで、穏やかだった。
祖父は八月いっぱい、島で過ごすことに決めたという。
「千帆の希望で海に散骨したんだ。……海を見ると、今でも彼女が思い出せる」
私と智は三日後、それぞれの家へ戻る予定だ。
あとわずかな休暇。それを、できるだけ大切に過ごそうと思った。
朝食のあと、潮音の庭へ出る。省吾さんが、いつものように花の世話をしていた。
足元に、小さな青い花が咲いている。
「これ、夏に咲きますよね」
私が声をかけると、省吾さんは少し間を置いてから頷いた。
「ツユクサだ。ボウシバナっていう名前もある」
聞き慣れない名前だった。
「ばあちゃんみたいな花だなって、思った。……祖父は、こういう色が似合うのを知ってたんだと思う」
彼が静かに続けた。
「理乃さんは……どうするんだろう」
「……まだ、聞けてない」
「そうか」
省吾さんは、再び花に視線を戻した。
その後、私と智は久しぶりに二人で島を散策した。
放牧された牛に出くわして、思わず声を上げる。智はそんな私を見て、くすっと笑った。
「休暇をもらったのに、歌帆と二人きりで過ごす時間は、ほとんどなかったね」
一か月あまりの休み。確かに、いろいろなことがありすぎた。
コンビニもない、不便な島。けれど、その不便さにも、少しずつ慣れてきていた。
そのことを伝えると智はこう言った。
「島は隔絶した空間で、それが良いこともある。でも、不便さを我慢し続けるのも違うと思う」
智は、歩きながら続けた。
「うちの会社で遠隔モニターでリアルタイムに情報をやり取りする商品を扱ってるだろ? それを、生活の中でどう使えるか、考えてたんだ」
「島でも、仕事のこと考えてたの?」
「うん。やっぱり、仕事は好きなんだ。でも……それだけじゃ駄目だって、分かった」
「私も、仕事に夢中になって、連絡が取れなくなるかも」
「それは勘弁してほしいな。でも――」
智は、少し照れたように続けた。
「仕事に夢中になってる歌帆も、好きになると思う」
彼は、何枚かの絵葉書を取り出した。私の好きな画家のものも、初めて見る絵もあった。
「歌帆は、絵が好きだから」
切手は貼られているのに、住所は書かれていない。
「歌帆がどこにいても、出せるようにね」
私が戸惑っていると、智は言った。
「これからも、忙しくて、連絡が難しくなることもあると思う。でも、絵葉書なら……気持ちは、続けて届けられる」
私は、智の手を握った。
「ありがとう。私も……絵葉書、書くね」
次の日、島の家に郵便が届いた。母のパソコンを修理した、パソコンショップからだった。ダイレクトメールにしては、封筒が分厚い。
開けると、紙袋が入っていて、そこからノートと小さな袋が出てきた。
同封の手紙には、パソコンの箱の底に入っていた紙袋を、引き渡しの際に入れ忘れていたことへのお詫びが綴られていた。
袋に母の勤め先と名前が書いてあり、母のものだと分かったこと。中身は見ていないので安心してほしい、ということが書かれていた。
小さな袋を振ると、硬い音がした。鍵だった。
玄関に差し込むと、静かに回った。失くしたと思っていた鍵。
ノートを開く。それも、母の日記だった。最近は、あまり書くことがなかったのだろう。ほとんど、記述はない。
ただ、最後のページに――。
―――
理乃が、病院に来た。
最近の写真は見ていないから雰囲気は変わっていたけれど、あれは理乃だ。
理久斗。
こんなに大きくなったのね。
理乃は、私を母と認めてくれるだろうか。
ずっと離れていた私を。
歌帆に、知らせなければ。
―――
私は、日記を胸に抱きしめた。母の最後の願い。
それは――私たち姉妹を、もう一度結び直すことだった。
夕方、理乃が島の家を訪ねてきた。理久斗を連れずに、一人で。
その表情は、どこか決意を秘めているように見えた。
「歌帆、話があるの」
縁側に腰を下ろす。海からの風が、静かに吹き抜けていく。
「私……島に、残ろうと思う」
理乃の声は、穏やかだった。
「理久斗のためにも、ちゃんとした生活をしたい。ここで根を張りたい」
私は、理乃の横顔を見つめた。
「省吾さんのことも……あるの?」
理乃が、わずかに頬を染める。
「まだ、分からない。でも……彼は、私と理久斗を受け入れてくれた。それだけで、十分すぎるくらい」
しばらく、波の音だけが続いた。
「それで……」
理乃が、私の方を向く。
「この家のこと、どうするつもり?」
私は、深く息を吸った。
「理乃に、譲りたい」
「え……」
「私は大学を卒業したら就職する。きっと、ここには年に数回しか来られない。でも、理乃がここにいるなら……」
私は、理乃の手を握った。
「この家は、理乃と理久斗の家になってほしい。母も、きっとそれを望んでいると思う」
理乃の目から、静かに涙がこぼれた。
「……いいの?」
「うん。ただし、条件がある」
私は微笑んだ。
「私が帰ってきたときは、ちゃんと泊めてね」
「当たり前でしょ」
理乃も笑った。
「ここは、私たちの家だもの」
次の日、私たちは祖父に報告した。祖父は、深く頷いた。
「そうか……理乃がここに残るのか」
「はい。理久斗も、もうすぐ小学生ですし。ちゃんとした住所で、ちゃんと暮らしたいんです」
「分かった。必要な手続きは、私が手伝おう」
祖父は、優しく微笑んだ。
「理帆も、歌乃さんも……きっと喜んでいるだろう」
その夜、潮音で小さな宴が開かれた。理乃が島に残る祝い、それと私と智の旅立ちのために和義さんが腕を奮ってくれた。
「理乃ちゃんがおってくれるんは、ほんまに嬉しいよ」
美子さんが、理乃の肩を抱く。理乃は正式に潮音の従業員として働くことになった。
「これからも、よろしくお願いします」
理乃が頭を下げると、和義さんが笑った。
「何を言うとるんじゃ。家族みたいなもんじゃろ」
澄江さんも頷く。
「そうじゃそうじゃ。理久斗も、うちの孫みたいなもんじゃけぇ」
省吾さんは多くを語らなかったが、その目は、優しく理乃を見つめていた。
理久斗が、嬉しそうに跳ねる。
「僕、この島に住むんだ! 省吾お兄ちゃんと、ずっと一緒だね」
その言葉に、皆が笑った。智も、私の隣で静かに微笑んでいた。
「良かったね、歌帆」
「うん……本当に」
私は、この島で過ごした日々を思い返していた。
母の死から始まった、長い夏。知らなかった家族の秘密。そして、取り戻した姉との絆。
すべてが、この島で起こった。
出発の日が来た。港には、理乃と理久斗、祖父、道昭さん、道成さんと奥さん、そして潮音の皆が見送りに来てくれていた。
私は、島の家の鍵を理乃に手渡した。
「これ、理乃の家の鍵だから」
「……ありがとう、歌帆」
理乃が、鍵を握りしめる。理久斗が、私の前に駆け寄ってきた。
「お姉ちゃん、また会おうね」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
――また会おうね。
夏の陽射しが、白い浜辺を照らしている。柑橘の香りが、潮の匂いと混ざって、私を包む。理久斗が笑う。理乃も、同じように笑っている。
母似の、まっすぐな黒髪。ひまわりのような笑顔。
――私がお姉ちゃんだもん。
――お姉ちゃん、いってくるね。
――あの島で、また会おうね。
逆光の中、小さな手を振る女の子。掌に残る夏蜜柑の雫。
「また会おうね」
あの子は、笑っていた。
――理乃だ。
記憶の底に沈んでいた、あの日の声が、今、確かに響いている。
「……思い出した」
目から、静かに涙があふれた。
「『また会おうね』って言ってた子が理乃だって、思い出せた」
理乃が、驚いたように目を見開く。
「歌帆……?」
私は、理乃を抱きしめた。
「ずっと、ずっと待ってたんだね。また会う日を」
理乃も、私を抱きしめ返す。
「……うん。ずっと、待ってた」
船が、出港の汽笛を鳴らす。私と智は、船に乗り込んだ。
デッキから手を振ると、理乃と理久斗も、手を振り返してくれる。
「この島でまた会おうね」
私は皆に向かって叫んだ。
島が、ゆっくりと遠ざかっていく。白い浜辺。段々畑。低く並ぶ瓦屋根。
そして、小さく手を振る姉と甥の姿。潮と柑橘の匂いが、風に乗って届く。
――この島で、また会おうね。
智が、優しく微笑む。
「……ただいま、って言える場所ができたんだね」
「うん。おかえりって、言ってくれる人もいる」
波の音が、静かに響いている。
母が遺した家。父が眠る島。そして、姉と甥が暮らす場所。
すべてが、時の流れの中で繋がり、新しい形を作っていく。
夏の終わりの風が、静かに吹いていた。
(完)




