第30話 星月夜の語らい
私は、少し考えてから口を開いた。
「自分がよく知らないからかもしれませんが……、そこまで家というものにこだわる気持ちが、正直よく分からないんです。結婚のときも、母の姓を選んだだけなのに、祖母があそこまで嫌がったのが不思議で……」
祖父が、静かに頷いた。
「そうだね。理帆は、歌乃さんの姓を選んだだけだ。ただ、本人は島の家と墓を守っていくつもりでいた」
「父は一人息子でしたよね。……そちらのお墓は……」
私は、祖母の反発は、そのあたりも関係しているのかもしれないと思った。
「私は三男でね。実家の墓に入るのもどうかということで、新しく墓を用意しよう、という話もあった。千帆は、それを理帆に引き継がせるつもりで、勝手に決めていた。それが……理帆には、耐えられなかったのかもしれない」
澄江さんが、少し言いにくそうに続けた。
「実はね……わしは、千帆さんの気持ちも、分からんでもないんじゃ」
そう言って、父の葬式の日のことを話し始めた。
島での葬儀には、和雄さんと澄江さんも参列していたという。祖母は終始、厳しい表情を崩さず、一言も口を利かなかったそうだ。
「ずっと寝とらんかったんじゃろうね。寺の前で、ふらっと倒れそうになってな。近くにわしがおったけぇ、肩を貸して休ませたんよ。……そしたら、小さい声でお礼を言うてね。少しだけ、話したんじゃ」
澄江さんのところも、一人息子であること。
夫と息子がぶつかり合い、息子は十年以上も実家に帰ってきていないこと。
「『あなたは、平気なんですか』って聞かれたわ。
『平気なわけ、ないですよ。でも、元気でやっとると分かっとる。それでええんです』って答えたんよ」
澄江さんは、目を細めた。
「そしたらね……『私も、そんなふうに出来たら良かった』って」
祖父が、ゆっくりと口を開いた。
「……その前に、千帆は歌乃さんに、ひどいことを言ってしまっていた」
きっと、母の日記に震える字で書かれていた、あの言葉だ。
祖父は声を落とした。
「理乃、歌帆……お前たちに、謝らなければならない」
「お祖父さん……」
「あの時、もっと別の方法があったかもしれない。家内の言葉を止められたかもしれない。でも私は……歌乃さんを、追い詰めてしまった」
部屋に、しばらく沈黙が落ちた。
その沈黙の中で、私の胸には、母の日記の文字が次々と浮かんでいた。
守れなかった後悔と、選ばされた現実。
誰か一人が悪かった、と単純に言える話ではなかったのだと、今さらながら思い知らされる。
祖父の言葉の余韻が、部屋に残っていた。
みな、それぞれの立場で抱え込んだものが、少しずつ絡まり合っていたのだと、ようやく腑に落ちる。
家を守ること。
名字を継ぐこと。
墓に名を刻むこと。
それらは、生きている人のための決まりであると同時に、残された人が安心するための装置でもあるのだろう。
だからこそ、そこから外れそうになる誰かに、過剰な期待や不安が向けられてしまう。
ふと、理乃の横顔を見る。
島の人ではない。
けれど、それでも、ここにいる。
居場所というのは、肩書きや役割が先にあって生まれるものなのか。
それとも、誰かと過ごした時間の積み重ねが、あとから形になるものなのか。
そんなことを考えているうちに、ずっと胸の奥に引っかかっていた疑問が、自然と浮かび上がってきた。
私は、思い切って尋ねた。
「理乃は、偽名でリサと名乗っていましたよね。働くときの手続きとかは、どうしていたんですか?」
美子さんが、少し困ったように笑う。
「リサちゃん……いや、理乃ちゃんは、働いとらんよ」
「え……?」
「民宿の手伝いはしてもろうとったけど、従業員じゃないんよ。うちが無理を言うて、ここに残ってもろうたけぇ」
理乃は、宿泊客として滞在していたのだという。
「省吾がね……声が出んくなって、とにかく心を落ち着かせた方がええじゃろうと、島に連れてきて。ずっと花を育てたり、海を眺めちょったけど、やっぱり声が出ないままで……」
美子さんの言葉に、省吾さんが静かに頷いた。
「気長にするしかないかと思っとったら、理久斗と、理乃ちゃんと話せるようになって」
「リサ……理乃さんは、何かを探しているようだった。だから、居たいだけ、ここに居ていいと言った」
省吾さんが、そう言い添える。
潮音の人たちは宿代の免除を申し出たが、何もしないのは申し訳ないと、理乃が断った。
その代わり、手の空いたときに、手伝ってもらっていたのだという。
「うちはホテルのフロントで長く働いとったけぇ、人を見る目だけはあるつもりなんよ。名前も本名じゃないんじゃろうなって、薄々気づいとった。でも……ええ人じゃし、理久斗もおったしね」
理乃の肩が、かすかに震えた。
「宿の従業員っていうのは……歌帆ちゃんの勘違いじゃったんよ」
美子さんが、やさしく笑う。
「そうだったんだ……ごめん、理乃。勝手に思い込んでた」
「ううん。私も、訂正しなかったから」
祖父が口を開いた。
「法に触れることを心配しているのかね。確かに、偽名を宿帳に書くのは好ましくない。だが……今回は事情も事情だ。注意で済むだろう」
駐在さんが何も言わなかった理由に、ようやく納得がいった。
「大丈夫じゃ。何か言われたら、わしが謝れば済むはずじゃ」
和義さんが、そう言って笑う。
「……ありがとうございます」
理乃は、深く頭を下げた。
しばらくして、理乃がそっと言った。
「私……省吾さんが、話せないなんて思っていませんでした。声がかすれていたのも、少し風邪気味なのかと」
省吾さんは、理乃の方を向き、ゆっくりと言葉を選ぶように話し始めた。
「俺はもう、話せるようになった。……島に無理して残らなくてもいい。理乃さんの、行きたい場所に行くといい」
その言葉に、理乃の表情が揺れた。
省吾さんは、それ以上何も言わず、ただ静かに理乃を見つめていた。
その視線には、いつもの穏やかさと、何か別の感情が混ざっているように見えた。
美子さんが、にこりと笑う。
「うちらも、理乃ちゃんと理久斗がおった方が嬉しいよ。……でもね。どうするかは、理乃ちゃんが決めることじゃけぇ」
和義さんも頷いた。
「そうじゃな。焦らんでえぇ。それに、ずっと会えんわけじゃないし」
家族とは何だろう。
血の繋がりだけではない。秘密を抱えながらも、共に過ごす日常の中で育まれる、何かなのかもしれない。
もうすぐ、島を離れる日が来る。
大学も始まるし、智も仕事に戻らなければならない。
私は、島の家をどうしようか考えていた。
もし理乃が島に残るなら、譲りたい。
けれど、それを先に言ってしまうと、理乃の選択を狭めてしまう気もした。
彼女が島に残らないのなら、和義さんたちに管理を頼んで、私は年に数回、島に来よう。
夜は更け、語らいはお開きとなった。
理久斗は眠ってしまっていたが、美子さんが
「理久斗はうちが見るけぇ。まだまだ姉妹で話したいこともあるじゃろ」と私と理乃を送り出してくれた。
二人で潮音から島の家へ向かって歩く。
私は理乃と、これからのことを話さなければならないと感じていた。
今日の晩は、月が出ていない。
その代わり、星が、私たちの行く道を案内するように、静かに輝いていた。




