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この島でまた会おうね~島に遺された母の真実  作者: 水主町あき


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第28話 約束の言葉

 健斗の葬儀の翌日は、海の音が少し遠い気がした。


 朝になっても理乃は起きてこなかった。


 智と省吾さんは、理乃に気を遣って潮音へ向かっている。省吾さんは「用事がある」としか言わなかったけれど、気配だけで分かった。黙って必要なものを差し出してくれるような、そういう種類の配慮。


 理久斗は朝から元気だった。


「ママ、起きないね」


「疲れているんだね。もう少し寝かせてあげよう」


「じゃ、お姉ちゃん、さんぽ行こ」


「いいよ。でも、暑いから帽子かぶろうね」


 彼は帽子のひもをあごの下で結べず、私の前に差し出した。結びながら、彼の表情をそっと見る。悲しんでいない。動揺していない。昨日の出来事を、そのまま通り過ぎてしまった子どもの顔。


 ――父親が亡くなったこと、やっぱり分かってないのかな。


 その考えが浮かんだ瞬間、自分も父の死を理解していなかったことを思い出す。物心ついたときには既に父はいなかった。亡くなったのは私たちが一歳になったばかりのときだった。分かるはずもなかった。


 理久斗は、パパとお別れ、と静かにしていたけれど、その別れがずっと続くことは理解できていないのかもしれない。

 健斗には、生きていてほしかった。きちんと理乃に謝って、自分の気持ちを押し付けることを止めてくれていれば、と思う。こんな去り方は、卑怯だと感じた。


 家の周りの道を歩いた。潮風が、柑橘の匂いと混ざる。島の夏は、痛いほど明るいのに、どこか静かだ。


「昨日、……パパも、ねむってたね」


 理久斗の言い方が、あまりに柔らかくて、胸の奥がきゅっと縮む。


「うん。……そうだね」


「パパ、もう起きないの?」


 私は一度息を吸って、ゆっくり吐いた。


「……起きない。でもね、理久斗くんのこと、ずっと見てると思うよ」


「ふーん」


 彼はすぐに興味を別の方へ移した。子どもは生きることに正直なだけだ。必要な分だけ受け取って、あとは未来へ走っていく。

 道の向こうから、笑い声が聞こえた。角を曲がると、ちょうどナツキくんの家の前だった。


「おはようございます」


 三十代くらいの女性が声をかけてくる。ナツキくんと一緒にいるからきっと彼の母親なのだろう。理久斗がうれしそうにナツキくんに近づく。


「ナツキ、お友達になったの? ……弟さんですか?」


 ナツキくんの母が私に声をかけてきたので、少し動揺する。確かに私は童顔だが、――理久斗の親の年齢には見えないのだろう。理乃が年齢を高く偽っていたことを思い出し、少し胸が痛む。


「いいえ。姉の子どもなんです」


 その後、軽く自己紹介をした。


「主人が島の出身でして」


 彼女も日高姓だった。もしかすると、私たちの遠縁なのかもしれない。帰省はご主人と、彼女の実家へ交互にしているということで、今回は久しぶりに島へ訪れたということだった。ちょうど、今日、島から帰るのだという。


「夕方の船で本土に戻ります。お休みってすぐに終わっちゃいますね」


 母親が、ふと声を落とす。


「……人が亡くなったって聞いて、びっくりしました。島って、のんびりしてるイメージだったから」


「そうですよね」


 私は曖昧に笑う。どんな島でも、人は死ぬ。のんびりしているからこそ、危険が見えにくいときもある。


「ナツキ、じっとしてるの苦手で。すぐどっか行くんですよ」


 母親は苦笑しながらナツキくんの頭を撫でた。


「実は事件があったとき、近くにいたんです。そのときも、一瞬姿が見えなくなって、焦っちゃって。ほんと、心臓に悪いです」


 ――事件があったとき。


 その言葉が、私の中で小さく引っかかる。崖の近く。子ども。健斗が「危ない」と声をかけた――。

 彼らは何も気づいていない。健斗が亡くなったのは偶然。でも、もし事実を知ったら、死の原因になったと思い悩むかもしれない。私は何も言わないことにした。


 ナツキくんが理久斗に近づき、照れくさそうに言った。


「また、あそぼうね」


「うん。また会おうね」


 理久斗は迷いなくそう返した。


 ――また会おうね。


 その言葉は、挨拶だ。けれど私の中では、ずっと別の意味で残っている。いつか聞いた、戻れないはずの場所に向けた約束。

 ナツキくんたちと別れたあと、理久斗はしばらく黙って歩いていた。

 突然、ぽつりと呟く。


「パパもね、また会おうね、って言ってた」


 私は足を止めた。


「……いつ?」


「うーん」


 彼は首をかしげる。


「よく分かんない」


 そう言って、また歩き出した。私はその背中を見ながら、言葉の意味を追いかけようとして、やめた。


 家に戻ると、ポストに折りたたまれたレポート用紙が入っているのに気付いた。封筒でもなく、ただ紙だけが、きちんと四角く畳まれている。


 理乃が顔を出した。


「……ごめん、寝すぎた。理久斗、見てくれてたんだ。ありがとう」


 髪に寝癖がついている。彼女のことをリサさんと呼んでいた頃よりも、口調も少し雑な感じになっている。寝起きのせいかもしれないけど、家族になったんだと実感した。


「なに、それ」


 彼女はそう言って、私の手元を覗き込んだ。


「手紙みたい」


 私たちは台所のテーブルで紙を広げた。文字はきれいでないが、丁寧に書かれていた。


 ――不法侵入してしまい、申し訳ありません。


 大学生の手紙だった。人が死ぬところを目撃し、大きなショックを受けたこと。友人に連絡を取り、駆けつけた友人から、不法侵入のことを強く叱られたこと。方向音痴なので、間違って知らない家に入ってしまった。悪気はなかった、警察の人も反省すればいいと言ったから、そのままにしてしまったこと。


 そして――家の人は怖かったと思う、謝った方がいい。けれど訪ねていくと、また怖がらせてしまうかもしれないから、手紙で謝ろう。友人がそう勧めたこと。

 最後に、島は嫌な出来事があったけれど、海が美しく印象に残った。また来たい、と書かれていた。


 理乃が紙の端を指で押さえたまま、つぶやいた。


「……真面目な子だね」


「うん」


 この手紙を投函したのは、私たちが島を離れていた間のことだろう。


 確かに知らない人が庭にいたのは怖かった。理乃は毅然と声を上げたが、私は黙って震えていることしかできなかった。

 お姉ちゃんだから、と理乃が祖父母の元へ向かうことにしたという話を思い出す。

 彼女はいつも強い。健斗が亡くなっても気丈に振舞っている。

 私は今でも、守られてばかりだ。


 潮音へ行くには、まだ少し時間があった。

 理乃は黙って身支度を整え、私はその背中を見ていた。黒い服の皺を伸ばす指先が、いつもよりゆっくり動いている。


「……お線香あげようか」


 理乃がそう言い、私たちは並んで仏壇の前に座った。理久斗も一緒に正座している。真面目な顔をしているのを見て、思わず微笑んでしまう。

 線香の煙が細く立ちのぼり、すぐに形を崩す。手を合わせるあいだ、何を祈ればいいのか分からず、私はただ目を閉じていた。


 ふと、仏壇の下の引き戸に目が留まった。こんな場所に、こんな扉があっただろうか。

 理乃も気づいたらしく、ためらいがちに手を伸ばす。


「……ここ、開くんだ」


 引き戸は、思いのほか簡単に開いた。中は狭く、埃をかぶった箱が1つ置かれているだけだった。


「ノート?」


 理乃が取り出したそれは、背表紙の角が擦り切れ、紙の色もくすんでいた。その瞬間、胸の奥がひやりとした。


 ――見つからなかった、欠けた母の日記。


「……それ」


 私が言い終わる前に、理乃はノートを開いていた。ページをめくる音が、部屋にやけに大きく響く。

 予感は、当たっていた。

 そこには、私たちの知らなかった母の言葉が、淡々と綴られていた。


 私の命が危ぶまれたこと。祖父が、私たちを引き取ると言ったこと。

「ずっと会えないわけじゃない。時期が来たら、また一緒に暮らせる」そう言われたこと。

 けれど、そのすぐ下に書かれていた一文で、私は息を止めた。


 ――お前が殺したようなものだ。


 祖母に言われた、その言葉。字が少し滲んでいる。書いたとき、手が震えていたのだろうか。

 その後、母はこう続けていた。

 このままでは、皆が共倒れになってしまう。自分が折れなければならない。それが、母である自分の役目なのだと。

 理乃が祖父母の元へ向かうと言い出した日のこと。その衝撃と、安堵と、罪悪感。

 ページをめくるごとに、母の苦悩が、時間を越えて伝わってくる。

 途中で、理乃の指が止まった。


 ―――

 あの子は私たちに向かって「あの島で、また会おうね」と笑顔で言った。私はそれ以上、何も言えなかった。

 理信さんも千帆さんも、複雑そうな顔をしていた。でも千帆さんは、少しだけ、うれしそうでもあった。

 私は胸がざわついた。理帆(みちほ)の面影を宿している千帆さん。私は、彼女と分かり合えなかった。

 ―――


 理乃の呼吸が、わずかに乱れる。

 さらに読み進めると、別の出来事が書かれていた。


 父が助けた生徒。その父親が、土下座をし、涙を流しながら何度も詫びていたこと。責める気にはなれなかったこと。


 それでも――


 人助けなんてせず、理帆に生きていてほしかった。あの人が生きていたら、こんなことにはならなかったのに。


 母の正直な言葉が、そこにはあった。

 理乃が、ノートを閉じる。


「……お母さん」


 それは、呼びかけというより、零れた音だった。


 私は、警察官――父が助けた生徒――と会った日の光景を思い出していた。

 彼が、父の死の原因が自分にあると苦しみを吐露したとき。

 理乃が「あなたのせいじゃない」と言った、あの場面。


 あの声は、強かった。相手のためでもあり、自分のためでもある強さだった。


 それでも、私は思ってしまう。正直に言えば――生徒を助けず、謗られてもいいから、父には生きていてほしかった。

 自分の中の身勝手さが、波打ち際の石みたいに冷たい。でも、その冷たさは、きっと母も抱えていたのだ。


 線香の煙は、もう消えかけていた。仏壇の前で、私たちはしばらく立ち上がれずにいた。


 夕方、潮音へ移動することになった。祖父も潮音に泊まっている。父を偲びつつ、語り合うために。

 潮音の玄関に着くと、美子さんが「おかえり」と言った。省吾さんは奥から出てきて、理久斗の帽子をさっと取ってあげた。いつの間にか、彼の手つきが家の人のそれになっている。


「歌帆」


 智が声をかけてきた。笑っているけれど、目の奥が私の無事を確かめている。


「うん、大丈夫」


 私はそう答える。大丈夫じゃないところは、言葉にしない。

 夜、お客さんと入れ替わりに、私たちは大部屋に集まった。畳の上に低い机が置かれ、湯飲みと小皿が並ぶ。


 祖父は、座る位置に少し迷っていた。理乃の隣に座るべきか、私の隣か。結局、私たちの向かい側の、どちらにも視線を配れる場所を選んだ。弁護士らしい、と私は思ってしまう。公平であろうとする癖。


 そして、その場にもう一人、初めて会う男性がいた。


「中尾道成(どうせい)です」


 穏やかな声。背筋の伸びた、年配の人だった。実家の菩提寺の先代住職で、道昭どうしょうさんの父。船での世界一周から戻って、潮音に来たという。


「当時のことを、少し話せたらと思ってのう」


 道成さんが控えめに言う。

 澄江さんがいつもの調子で続けた。


「まったく。道成さんがおったら、すぐに全部分かったちゅうのに。息子に跡を譲って遊び歩いちょって」


「嫁さんには苦労をかけ続けたけえ、希望を叶えてやりたかったんじゃ。まさか歌乃ちゃんがあんなに早く亡くなるとはのう……」


 確かに道成さんに聞けば、理乃のことももっと早く分かったかもしれない。

 本当は今日――父の命日に、母と祖父、そして私と理乃で語り合うはずだったのだろうけれど。


 和義さんが作った食事が運ばれてきた。魚の煮付け、ねぎと酢味噌のぬた、炊き込みご飯。どれも派手ではない。日常の味。人が亡くなっても、人は食べる。

 祖父が、箸を置いて言った。


「……理帆みちほの話を、理乃も歌帆も、ちゃんと聞いたことはなかっただろう」


 理乃が小さく頷く。私は、喉の奥が少し乾くのを感じた。秘密の話が始まる前の空気。祖父の声は淡々としていた。


「歌帆に話したことと重複するかもしれないが」


 そう前置きして語り始めた。


「理帆には弁護士になれと言った。事務所を継げと。……でも、本人は教師になりたがった。小学校の先生になって、子どもたちと一緒に笑いたいと」


 父は繰り返し、一人旅で訪れた「島」の話をしていたという。いつか、そこに再び行くのが夢だと。島の小学校に配属されたのは、本人の希望もあったそうだが偶然だったらしい。そして、母と「再会」した。その後、二人が結婚するまではあっという間だった。


 私は、理久斗の横顔を見た。今は省吾さんの膝にもたれて、眠そうに目をこすっている。父が守ろうとしたものが、こうして息をしている。


 祖父が続ける。


「理帆が亡くなったあと、歌乃さんは――お前たちの母さんは、強かった。強く見えた。けれど……強い人ほど、秘密を抱える」


 理乃の指が、膝の上でぎゅっと握られるのが見えた。

 私も、思う。母は私に何も言わなかった。言えなかった。それは、家族を守る方法だったのかもしれない。

 そのとき、智が私の湯飲みをそっと持ち上げ、冷めかけていたお茶を足してくれた。ほんの小さな動作で、私の中の緊張がほどける。


 理久斗が、寝ぼけた声で呟く。


「……また、あおうね……」


 省吾さんが彼の背中を軽く叩き、布団の方へ運んでいく。その足音が遠ざかると、部屋の静けさが一段深くなった。

 家族は、優しさだけでできていない。秘密と、言えなかった言葉と、日常の小さな選択でできている。

 窓の外では、潮の音が変わらず響いている。大きな出来事があっても、島の夜は静かだった。


 また会おうね。


 それは、祈りなのかもしれない。家族の秘密が、日常の空気の中で、ゆっくりと形を変え始めていた。

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