第3話 風のとおり道
それほど日にちが経っていないのに、「懐かしい」という感情が湧いてくるのが不思議でもあり、愛おしくも感じられる。
何も分からずに訪れた時は不安で仕方がなかったけれど、今度は実家に帰る時のように、心が安らいでいた。
「そっか。ここも実家なんだよね」
海沿いを進む列車の中で、ひとり呟く。
案外声が大きかったようで、乗客に顔を見られて恥ずかしくなった。
最近は独り言が増えた気がする。
夕方の船に乗り、島に着いた頃には空が赤く染まり始めていた。
民宿「潮音」に顔を出すのは明日にして、私はそのまま家へ向かう。
ここにはコンビニもないので、食料品や日用品はある程度持ち込んでいた。
玄関の扉に鍵を差し込み、そっと開けた瞬間、ふわりと立ち上った空気に、誰もいなかった時間の重さを感じる。
湿気と潮、そして古い木材の匂い。
けれど、その中にどこか母の香りが混ざっている気がした。
「ただいま」
先日も口にした言葉を、もう一度小さく呟く。
やはり返事はないけれど、風鈴が窓辺で鳴って、静かな音が部屋に満ちた。
窓を開け、押し入れを開け、空気を入れ替える。
一つ一つの動作を繰り返すことで、家が少しずつ目を覚ましていくような気がした。
仏壇や送った荷物は仏間にきちんと並べられていた。
和義さんたちに、改めてお礼を言わなければ。
畳の縁、廊下の軋み、柱に残る釘の跡。
何も思い出せないけれど、懐かしく感じる。
茶の間の隅には、母が使っていたと思しき湯呑みが置かれていた。
触れると、かすかに温もりが残っているような気がして、私は思わず手を引っ込めた。
庭に面した縁側に腰を下ろす。
陽が差し込み、風が抜け、蝉の声が遠くで響いている。
ここで母は、一人で何を考えていたのだろう。
翌朝、私は早くに目を覚ました。
夏の朝は、都会よりもいくらか遅れてやってくる。
それでも、静けさの中に漂う熱の気配と、海から吹き上げる風の匂いが、確かに一日の始まりを告げていた。
じっとしていられず、私は家を出た。
朝の光を浴びた海沿いの小道では、緑が柔らかく揺れていた。
遠くから鳥のさえずりが聞こえ、潮風が優しく頬を撫でていく。
港の近くを歩いていると、小さな声が風に乗って届いた。
「お姉ちゃん、おはよう」
顔を上げると、民宿の前に立つ幼い男の子と目が合った。
弾けるようにニコニコしている。
ひまわりみたいに笑う子だな、と思った。
その隣には、長い髪を後ろでひとつに束ねた女性が立っていた。
どこか陰のある雰囲気だったが、冷たい印象ではなかった。
「おはようございます」
声が重なり、思わずクスっと笑ってしまう。
「お子さんですか?」
「はい」
「元気で良いですね」
男の子が飛び跳ねるように声をかけてくる。
「僕、リクト。五歳だよ!」
「リクトくん、素敵な名前だね。よろしくね」
ちょうどその時、民宿の奥から足音が聞こえてきた。
「おはよう、歌帆ちゃん。昨日、着いたんじゃね。ちゃんと寝れたかね」
姿を見せたのは、美子さんだった。
「あ……おはようございます。すみません、朝早くから押しかけてしまって」
「いやいや、ええんよ。そういや、リサちゃんとリクトくんに会うのは初めてじゃったね」
リサと呼ばれた女性が軽く頭を下げた。
「申し遅れました、青沼リサといいます。息子とここでお世話になっています」
「リサちゃんには、民宿の手伝いをしてもらっとるんよ。歌帆ちゃんと年が近いけぇ、仲良うしてね」
「私も紹介が遅れてごめんなさい。日高歌帆です」
リサさんはなぜか、驚いたような顔をした。
「日高さん…?」
「あぁ。うちの親戚で、同じ名字なんよ。じゃけぇ、みんな下の名前で呼ぶんよね」
そういえば、初めて和義さんに電話した時に、お互いに「日高」と呼び合って少し変な感じになったのを思い出した。
「大きゅうなったねぇ」
声に気づいて目を向けると、現れたのは年配の女性だった。
藍染めのような深い紺色に絞り模様や白い文様が散りばめられた上衣をまとい、
髪をひとまとめにして青い手ぬぐいをバンダナのように巻いている。
素朴で柔らかな優しそうな女性だった。
年齢から、この女性が和義さんの母、澄江さんだろう。
「うちのことは覚えとらんかねぇ」
その目は、細く優しく笑っていた。
「ごめんなさい。覚えていなくて」
私は軽く頭を下げた。
ふと、青い手ぬぐいを巻いている、今の美子さんと同じくらいの年格好の人が頭に浮かんだ。
「もしかして、いつも頭に布を巻いていた人?」
「そうそう。あんた、おしゃれじゃ言うとったねぇ」
澄江さんの目が嬉しそうな光を帯びた。
「お姉ちゃん」
リクトくんが待ちきれないように前に出てきた。
美子さんが彼の頭を撫でながら、こう言った。
「この子、この前から"お姉ちゃん、だれかなあ"って、ずっと気にしとったんよ」
「えっ、本当に?」
思わず笑うと、リクトくんは照れたようにリサさんの後ろに隠れた。
「うちは朝食の片づけがひと段落したところじゃけぇ、よかったら一息ついていきんさい。冷たいお茶でも出そうかね」
「ありがとうございます。でも、今日は少し歩いてみようと思っていて……」
「そうかそうか。じゃ、代わりにこれ持っていき」
美子さんがリサさんに目配せすると、彼女は奥に戻り、小さな紙袋を手に戻ってきた。
「よろしければ、賄いのサンドイッチを。余り物ですが……」
リクトくんが小さな声で添える。
「それ、ママが作ったんだよ」
私は頭を下げ、紙袋を受け取った。
「ありがとう。いただきます。……ママの味、楽しみにしているね」
その言葉に、リサさんの表情が少しだけ和らいだ気がした。
省吾さんが建物の周りの草を毟っているのが目に入った。彼の横顔は無表情のままだったが、ふと、張りつめたものがほどけたようにも見えた。
私は民宿「潮音」の周りを何度も歩いた。
どうしてか、自分でもよく分からなかった。
けれど、潮の香りと子どもの声が響くあの場所に、気がつけば足が向いていた。
リサさんとリクトくんのことが、ずっと気になっていた。
※この作品は現代日本の物語です。
※ゆるやかな日常の中で、家族や過去と向き合うお話になります。
更新は毎晩21:00を予定しています。