第24話 波の音に消えて
朝、私たちは本土へ向かう船に乗った。
私、理乃、智、省吾さん、そして理久斗くん。
和義さんに再び車を借り、フェリーに乗り込んだ。
健斗のことを警察に相談するためだ。
昨夜、理乃に父母のことを伝えることが出来た。
私たちは姉妹だと知り、お互い涙した。
けれど、喜びだけではすまない現実が、すぐそこまで迫っていた。
船のデッキに出ると、潮風が気持ちよかった。
理久斗くんは省吾さんの隣で、遠ざかる島をじっと見つめている。
「ママ、大丈夫?」
小さな声で理乃に問いかける理久斗くん。
彼女は優しく微笑んで、息子の頭を撫でた。
「大丈夫よ。みんながいるから」
その言葉に、私も智も頷く。
「理乃」
私は姉の名を呼ぶ。まだ慣れない響きだけれど、心地よかった。
「お祖父さんは弁護士なのに、どうして健斗を遠ざけられなかったの?」
理乃は海を見つめながら答えた。
「……健斗は、ただ『会いたい、やり直したい』と言って家を訪れてきただけだったの。
最初は毎日のように来てたけど、養父が応対していたら、あの人も少し距離を置くようになった。週に一度、様子をうかがうみたいに来て……」
風が吹き抜ける音がした。
「暴力も脅しもなくて。警察に言っても、“それだけでは”って」
「理久斗くんを他所にやるなんて言ったのに……」
理久斗くんの耳に入らないよう声を潜めた。
「それはね、私しか聞いていなかったから」
省吾さんが低い声で言った。
「法に触れていない……」
「そう。父は弁護士だから、健斗がおかしなことをしていたら、何か手段を講じていたはず。でも、合法的な範囲内だった」
厄介な男。それは私が思っていたのとは違っていた。
「父の事務所に弁護士で女性の方がいて。私が一人になるときは一緒にいてくれた……それも、申し訳なくて」
理乃の声が静かに言った。
「実家を出たのはそれも理由だった。みんなに迷惑をかけたくなくて……」
智がそれを受けて応える。
「それでも、警察への相談実績があれば、状況が変わるはず。島まで来ているのは、普通じゃないよ」
「そうだね」
私も頷いた。相談の記録を残すことが、理乃を守る証拠になる。
「そういえば。理乃って車の免許持ってたんだね」
少し重苦しい雰囲気を変えたくて、違う話題を振った。
「実家に帰った後、父が私が独り立ちできるようにと、いろいろしてくれて」
澄江さんは免許を返納したので、移動の足に困っていたという。
昨日も、潮音に来客があり車を出せる人がいなかった。
「澄江さんが行くのやめるって言うから、思わず私が送りますって言っちゃった。たまに買い出しで運転はさせてもらってたから」
免許証を見られたら本名が分かってしまうのに、と思っていたのが伝わったのか。
省吾さんが言う。
「親父も母さんもそういうのはあまり気にしないからな……」
本土の警察署で、私たちは事情を説明した。
担当の警察官は真剣な表情で聞いてくれたが、やはり「現時点では難しい」という答えだった。
「相談記録は残しておきます。何かあれば、すぐに連絡してください」
それだけでも、少しは安心できた。
遅めの昼食を食べに入った食堂で、テレビがローカルニュースを流していた。
『今日午前、やな井市栗平島で男性が海に転落し、死亡しました』
私たちは箸を止めた。
『警察によりますと、死亡したのは新潟市在住の会社員、篠名谷健斗さん(26)です。
目撃者の話では、篠名谷さんは崖の近くを歩いていたところ、足を滑らせて海に転落したということです。
付近を航行中の漁船がすぐに救助しましたが、篠名谷さんはまもなく死亡が確認されました。
警察では、現場の状況などから事故とみて調べています』
画面に映る崖。見覚えがあった。
理乃の顔から血の気が引いていく。
「健斗……」
掠れた声が、彼女の唇からこぼれた。
島へ戻る船を待つ間、時間がやけに長く感じられた。
駐在さんのもとを訪ね、亡くなったのが理乃の元夫であること、そして身を隠すために理乃が偽名を使っていたことを話した。
駐在さんは目を丸くした。
「そうでしたか……。ご親族の方に事情をお伺いする必要がありまして」
私たちの方をちらりと見る。
「大丈夫です。歌帆は妹ですから」
「えっ」
驚いたように声を上げる駐在さん。
「すみません……。それで、今、お話しても大丈夫ですか」
「はい」
理乃は硬い表情で頷いた。
省吾さんと智に理久斗くんを任せ、私と理乃は駐在所の奥へ通された。
「篠名谷さんは、島を出たり入ったりしていたようなんです。不自然な動きで」
――私が不審な男に出会ったのは、満月の次の晩。十日ほど前のこと。
あの後、確かに彼を見ていない。理乃を探し続けていたのだろうか。
「駐車していた車に社員証がありました。それで勤務先に連絡し、会社の方からお姉さんにも連絡済だそうです」
「お姉さん……?」
健斗には姉がいたようだ。
理乃に知っていたの?と聞いてみると頭を横に振った。
「本土の警察署からも連絡が来るかもしれません。申し訳ないですが……」
健斗はたびたび会社を休んで島に来ていたらしい。
派手な容姿だったため、覚えている人も多かった。
短い滞在では理乃を見つけられなかったのだろう。
潮音の近くで彼と遭遇したことを思い出し、あのとき本当に危なかったのだと痛感した。
駐在さんは静かな口調で、事故の様子を語った。
「目撃者は、一人旅の大学生でしたよ。海を眺めていたそうです」
――あの、家に侵入していた大学生だった。
厳重注意を受けたあとも、島に残っていたらしい。海がきれいで気に入ったとのことだったが……。
「小さな男の子が崖の近くまで行ったんです。ずいぶん際どい場所だったので、大学生はひやひやしたそうですよ。
止めようとしたところに、篠名谷さんが『危ない』と声をかけたらしいです」
「小さい男の子……?」
「篠名谷さんが男の子の顔を見て『違う』と言ったのを、大学生は聞いています。気になって、そのまま様子を見ていたそうです」
「……男の子は?」
理乃が震える声で尋ねた。
「無事ですよ。篠名谷さんは、その男の子が両親のもとへ戻るのを、しばらく見守っていたそうです。島に子どもは多くありませんから、すぐ所在は確認できました」
思わず、息を吐いた。
「そのあと篠名谷さんと挨拶を交わし、島の印象を少し話したそうです。
そして、篠名谷さんはふらりとよろめいて……そのまま、海へ落ちた」
大学生は、深くショックを受けていたという。
――こんなきれいな海で。さっきまで普通に話してたのに、いきなり居なくなるなんて……。
静かな最期だった。
争いも、叫びもなく。
すべてが、波の音に消えていった。
潮音に戻ろうとして、私はぽつりとつぶやいた。
「人間って、なんだろうね」
智が私の手を握る。
「分からない。でも、生きてる人は……、生きていくしかないんだと思う」
理乃は理久斗くんを強く抱きしめ、「パパが亡くなったの」と囁いた。
「お姉ちゃんのお母さんと同じ?お寺でさようならするんだよね」
省吾さんは何も言わず、ふたりを見守っていた。
夕暮れの空が茜に染まっていく。
健斗という人の人生も、理乃の苦しみも、私の知らなかった過去も――
すべてが、この島の空気に溶けていくような気がした。
波の音だけが、変わらず響いていた。




