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第23話 アイリスとキンポウゲ

 歌帆さんが妹だった。


 彼女の瞳を見つめたとき、その瞳の奥に懐かしさが宿っているのを感じた。

 記憶の底に沈んでいた、温かな感覚が、ゆっくりと浮かび上がってくる。


 澄江さんが、何も言わずにハンカチを差し出してくれる。

 触れて初めて、自分が泣いていることに気づいた。


 民宿『潮音』に戻ると、智さんが待っていた。

 美子さんも理久斗を抱いて玄関先に立っている。


「ママ!」


 理久斗が私を見つけて駆け寄ってきた。

 民宿の玄関で、その小さな体を抱きしめると、温もりが胸に染み込んでくる。


「おかえり。どうしたの? 泣いてるの?」


「ううん、大丈夫よ」


 私は笑顔を作って、理久斗の頭を撫でた。


 潮音の中に入ると、美子さんが困惑した顔で聞いてきた。


「リサちゃんが歌帆ちゃんの身内じゃったん?」


「そうなんです」


 歌帆さんが静かに答える。


「リサさん――いえ、理乃は私の姉、……母のもう一人の娘だったんです」


「姉……?」


 美子さんが目を丸くした。


「事情があって、理乃は祖父母の家で育ちました。お互いに知らなかったけど、今日やっと分かったんです」


 美子さんは、しばらく言葉を失っていた。


「じゃあ、リサちゃんと歌帆ちゃんは……本当に姉妹なんじゃね」


 美子さんが、私と歌帆さんを交互に見た。


「なんでまた、こんなことに……」


「詳しい事情は、まだ私も全部は把握できていないんです」


 私は正直に答えた。


「父――養父から、もっと話を聞かないと……」


「そうじゃのぉ……」


 和義さんが腕を組んで唸る。


「とにかく、落ち着いて話をせんとな。歌帆ちゃんの家に行くか?」


「はい、そうします」


 歌帆さんが頷いた。


 理久斗の手をつないで、歌帆さん、智さん、そして澄江さんの孫の省吾さんと移動した。


 島の家に着くと、歌帆さんと彼氏の智さんがお茶を淹れてくれた。


 歌帆さんが少し照れ臭そうに言う。


「いきなり呼び捨てにしてごめんね。……理乃ってこれからも呼んでいいかな?」


 彼女の言葉に、胸が熱くなる。


「もちろん……。私も、歌帆って呼んでいい?」


「うん!」


 歌帆の笑顔が、まぶしかった。


 理久斗が眠そうにしている。

 夕ご飯まで横にさせようと、歌帆と一緒に空き部屋に布団を敷き、理久斗を寝かせた。


「それで……聞いてほしいんですけど」


 私はその場の皆を見た。


「私の本当の名前は、佐藤理乃です。青沼リサは――偽名でした」


「そうでしたか……」


 智さんが静かに相槌をうった。


「元夫から逃げるために?」


「はい。あの人は……とても執念深い人で。離婚は成立したんですけど、その後もずっと……」


 言葉が詰まる。


 歌帆が、そっと私の背中をさすってくれた。

 私は深呼吸をして続けた。


「理久斗を連れて実家に戻ったんですけど、何度も押しかけてきて……。それで、嫌になって実家を出て、この島に来ました……。ここまでは歌帆に話した通り」


 歌帆が頷く。


「年齢を二十七だってごまかしてたのも、見つからないようにするため?」


「それだけじゃないの……。若すぎる出産だと、いろいろ言われたことがあって……。それで、少し年齢を上に偽ることにしたんです」


「そんな……」


「『計画性がない』とか『子どもがかわいそう』とか。ごまかした年齢でも若い方だけど、そういうことを言われることはなくなりました」


 省吾さんが静かに言った。


「大変だったんだな……」


「でも、もう終わりにしたいんです」


 私は理久斗が眠る部屋の方を見た。


「理久斗が来年、小学校に上がるんです。このまま逃げ続けるわけにはいかない……」


「そうだね」


 歌帆が力強く頷いた。


「一緒に行こう。明日、本土に渡って警察に相談しよう」


「良いの?」


「当たり前だよ。理乃は一人じゃないんだから」


 その言葉が、温かかった。


「あ、そうだ。リクトって、漢字でどう書くの?」


「私の名前から、『理』を取って、絆が変わらず続くようにと永久の『久』、元夫の名前の『ト』の字、漢字だと北斗七星の『斗』を組み合わせて……」


 省吾さんが複雑そうな顔をして言った。


「理久斗は……、大切な存在だったんだな、どちらにとっても……」


 私は何も言えなかった。


 そのとき、携帯電話が鳴った。

 画面を見ると、父――養父からだった。


「もしもし、お父さん?」


『理乃か。無事か?』


 養父の声が、いつになく緊張している。


「大丈夫です。あの……実は、歌帆と会って……」


『なんと……。島に来ているのか?』


 養父が深く息をついた。


『理乃、すまなかった。お前に本当のことを言わずに……』


「お父さん……」


『歌乃さんのことも聞いたんだな……』


 私も本当の父母のことをさっき知ったばかりだ。

 養父たちが隠し続けていた事情は、まだ聞いていない。


「お父さん……、私もまだ混乱してて、本当のことを教えてほしいんだけど」


『今度の日曜日が理帆みちほの……、お前の本当の父親の命日なんだ。だから土曜日までには島に行く。そこで全部……話す』


 きっと電話だけでは伝えきれない話だろう。私は頷いた。


『それと……、お前の元夫の健斗がどうもお前と理久斗の居場所を探しているらしい。気を付けてくれ』


 そういえば、歌帆が慌てて私に会いに来たのはそれが理由だった。


「分かった。皆に相談する」


『歌帆以外にも相談相手がいるんだな……。良かった。島にはいつからいたんだ?』


「半年くらい前から……」


『そうか、そんなに……。理帆が呼んだのかもな……。理乃、昔、母さんが出してくれた料理を覚えているか?豆腐の料理、あれはそこの土地の料理なんだ』


 私は首を傾げた。


『千帆が――母さんが、お前の食事のことで悩んでおってな。小さい頃、お前はあまり食べなくて……』


「覚えてる……」


『千帆が歌乃さんに相談して、けんちん?とかいう料理を教えてもらったんだ。喜んで食べただろう?』


「……はい」


 養母ははが作ってくれた、けんちん。


 あの、優しい味。


『千帆は、歌乃さんに感謝していた……』


「お父さん、私……」


『理乃、また今度ゆっくり話をしよう。今は、そこで落ち着いていてくれ』


「はい……」


 電話を切ると、歌帆が不思議そうな顔をしていた。


「けんちん?」


「うん……この前の誕生日会で出したやつだけど……」


「あ!もしかして、あの豆腐と大根と人参が入ってたやつ?」


「そう……。私の食の細さに養母ははが困って……。それで、料理をお母さんに教えてもらったって……」


 歌帆の目が潤んでいた。


「お母さん……」


 日が落ちて、辺りが薄暗くなり始めた。


「ママー、お腹空いた」


 歌帆が夕ご飯の用意をしないと、と慌てている。

 普段より人数が多いからだろう。


 目を覚ました理久斗の相手を智さんと省吾さんに頼んだ。

 冷蔵庫の中を見ると、豆腐も大根も人参もある。


「一緒に作ってみようか?今から」


「え?」


「私、養母ははにレシピを教えてもらったの。歌帆も好きだよね、この料理……」


「本当は、けんちょうって言うらしいよ」


 豆腐は重石をして水気を切らないといけないけど、めんどうなので、手で軽く握ってつぶす。


「理乃……意外とおおざっぱなんだ……。お母さんみたい……」


 歌帆の言葉に笑いながら、手際よく材料を切る。


「理乃、料理上手だよね」


「結婚してから覚えたの。最初は全然できなかったんだけどね」


 醤油で味付けをすると、懐かしい香りが部屋に広がった。


 歌帆が目を細める。


「お母さんの味……」


 母の――二人の母の味が、私たちを繋いでくれているような気がした。

 理久斗に歌帆が嬉しそうに言った。


「理久斗くん、私ね、ママの妹なんだよ」


「お姉ちゃんなのに妹?」


 理久斗が首を傾げる。


「うん!ママの妹だから、理久斗くんのおばちゃん!」


「お姉ちゃんは妹だったんだ!」


 理久斗が嬉しそうにはしゃいでいる姿を見て、胸が温かくなった。

 この子にも、家族が増えたのだ。


 お風呂に入った後、理久斗が眠そうに目をこすり始めた。


「ママ、眠い……」


「じゃあ、寝ようか」


 理久斗を抱き上げて、部屋に連れて行く。

 布団に寝かせると、理久斗が小さな声で言った。


「ママ、歌うたって……」


「うん」


 私は理久斗の頭を撫でながら、静かに歌い始めた。


 ねんねんよ ねんねんよ 寝たらあん餅 買うちゃるぞ……


 母が、私に歌ってくれた、あの子守唄。

 理久斗の瞼が、ゆっくりと閉じていく。


「その歌……。私知ってる……」


 歌帆はそれだけ言うと、そっと部屋を出て行った。


 歌い終えると、理久斗は静かな寝息を立てていた。

 その寝顔を見つめていると、部屋の外から声が聞こえてきた。


「え?省吾さんも泊まるんですか?」


 歌帆の驚いた声がした。

 省吾さんが困惑した顔で立っていた。


「……ばあちゃんに、今夜は帰ってくるなって言われて……」


「帰ってくるな?」


 智さんが首を傾げる。


「理乃さんと歌帆さんを守れ、と言われたんだが……」


 省吾さんが頭を掻く。


「澄江さん、心配してるんだ……」


 歌帆が呟いた。


「とにかく、今夜は智も省吾さんも、ここに泊まってください」


 歌帆が言うと、二人は顔を見合わせた。


「いいのか?」


「はい。その方が、私も安心なので……」


 省吾さんが頷いた。


 客間に布団を敷いて、男性二人はそこで休むことになった。


 私と歌帆は、食卓でお茶を飲みながら、もう少し話を続けた。


 歌帆は大学で美術史を専攻していると言い、好きな画家の画集を見せてくれた。


「この黄色い背景にある、青紫のアイリスが理乃みたいだと思って」


「黄色い花は何?」


「これはキンポウゲだよ」


「こっちは歌帆みたいね。明るくて可愛くて」


「ねぇ、理乃」


 歌帆が静かに言った。


「なんで青沼リサって名前にしたの?」


「ただの偶然。うっかり本名を言いそうになったのをごまかして。カタカナで書くと、まるで昔の少女漫画のヒロインみたいで気に入ったの」


 私はくすっと笑った。


「子どもみたいと思った?」


「うん。意外」


「名字は、もっと慎重に選んだ。ありふれたどこの土地にもありそうな、でも、知っている誰の名字でもないもの……」


 歌帆の顔に少し痛ましそうな表情が浮かぶ。


「旅の途中でね、たまたま見た天気予報の地図に『青沼』という地名があって」


「確かに理乃のイメージにピッタリ」


 二人で微笑み合う。


 歌帆にはすべての理由は言わなかった。


 選んだのは――水底に沈むような、名前だと思ったから。


 いつも心のどこかに溜め込んでいた、透明な痛み。

 それを覆い隠すように、ひんやりとした青の膜で包んでしまいたかった。

 だから私は、「青沼リサ」になった。


 誰も知らない名前で、誰にも見つからないまま、理久斗のそばで生きられたら、それでいいと思っていた。


 ――でも、もう逃げない。


 島の夜の静けさが、私の心にしみ込んでいった。

※作中の子守唄は、山口県に伝わる唄をもとにしています。

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