第22話 青紫のアイリス
理乃がリサさんだった。
そうなると、これまで抱えていた疑問が一気に繋がっていく。
彼女が言っていた「母親の手紙」。あれは——父の「理帆」という名を、女性名だと勘違いしたのだ。
「潮音に行く!」
智にそう告げ、私は急いで家を飛び出そうとした。
「ちょっと落ち着こうか」
智が、いつもののんびりした調子で声をかける。
「急に行っても、彼女は驚くと思うよ。リクト君もいるしね」
「うん、焦りすぎた……」
「いろんなことが分かったから仕方ないけどね……。ちょっとお茶でも飲もう」
智は冷蔵庫から麦茶とあかつけだんごを取り出した。
氷がカランと鳴る音が、妙に静かな部屋に響く。
コップの中の淡い茶色を眺めているうちに、心拍が少しずつ落ち着いていった。
「何から話すか、整理しよう」
「そうだね」
理乃が年齢を偽っていた——。
不快な誘いを避けるため、というだけでは説明がつかない。
もっと深い理由があるはずだった。
「きっと、元夫に見つかりたくなかったんだろうね」
祖父の話を思い出す。
厄介で、しつこい男。
“青沼リサ”という名も、逃げるための仮の姿だったのだろう。
昔、智と一緒に見た、青紫のアイリスの絵。
その印象にぴたりとはまっていたから、偽名などとは思いもしなかった。
「そういえば、お祖父さんが“元夫が興信所から出てくるのを見た”って言ってた」
智が心配そうに顔をしかめた。
「理乃さんを探してる……?」
あの怪しい男の姿が脳裏によぎる。
理乃は確かに驚いていた——だが、おびえてはいなかった。
顔はよく見えなかったが、元夫なら気づくはずだ。
私も、姿だけで智でないと分かった。
——何かが、頭の片隅に引っかかっている。
けれど、まだ形にはならない。
潮音に行き、和義さんたちに相談しよう。そう決めて、私たちは外へ出た。
家の前に、小さな男の子が立っている。
「リクトくん?」
振り返ると、違う子だった。
少し戸惑っていると、「お姉ちゃん?」と声がして、横からリクトくんが現れた。
「紹介するね。僕の友だちのナツキくんだよ」
ナツキくんは恥ずかしそうに笑った。見知らぬ顔だった。
休暇で島に来ている子だろう。
二人で遊んでいたようだが、念のため一緒に潮音へ行くことにした。
——そのとき、胸の奥がざわついた。
理乃は「若い男を見た」と言っていた。
私も「若い男」を見た。
私は同じ人物だと思っていた。だが——。
子どものナツキくんを、最初リクトくんと勘違いした。
目の前で見れば別人と分かるはずなのに。
「もしかして——」
あの怪しい人物は、大学生の男と健斗……二人いたのでは?
「早く理乃に伝えないと」
焦る私に、智が理由を聞いた。
私は一気に推測を話す。
「そうか。でも、子どもたちもいるから俺が先に潮音に走っていくよ。歌帆は和義さんに電話して」
智が駆けだした。
リクトくんとナツキくんが、ぽかんとした顔でその背中を見送る。
「智お兄ちゃんどうしたの?」
「ちょっと、ね。そういえばナツキくん、お父さんかお母さんはどこにいるのかな?」
聞くと、近所に里帰りしている家族の子だと分かった。
リクトくんと仲良くなって、一緒に遊びに出たらしい。
ナツキくんの実家の前で別れ、私はリクトくんの手を引きながらスマホを取り出す。
「もしもし。理乃——いえ、リサさんはそちらにいらっしゃいますか?」
声が上ずっていたのだろう。和義さんは訝しげに答えた。
「どうした? また変な男でも出たんか?」
「出るかもしれないんです!」
思わず叫んでしまった。
リクトくんがびくりと顔を上げる。私は慌てて声を落とした。
「すみません。それで、リサさんは……?」
「あぁ、母さんと出かけちょる。島の向こうの端で会合があるとかで、リサちゃんが運転してな……。何じゃ、智。どうしたんじゃ」
——理乃は、もう出ている。
潮音に着くと、入口で智と和義さんが待っていた。智は息を切らしている。
「智がようわからんことを言うんじゃが、リサちゃんが歌帆ちゃんの姉? 歌帆ちゃんは歌乃の一人娘じゃろ?」
和義さんが混乱している。
智は肩で息をしながら言った。
「リサさんの元夫が島にいるみたいなんです」
美子さんも顔を出したが、説明している暇はなかった。
リクトくんを美子さんに預け、和義さんの車に乗り込む。
エンジンがかかる音が、鼓動と重なる。
——どうか、間に合って。
車は西へと向かった。
西の公民館に着く。
中から人の声と笑いが聞こえてくる。
胸の奥の緊張が、少しだけ緩む。
理乃は澄江さんと並び、話の輪に加わっていた。
「理乃!」
名を呼ぶと、理乃が驚いた顔で振り返った。
「どうして私の名前を……」
言葉が出なかった。視界が霞む。
澄江さんが何かを察したように歩み寄り、静かに息をつく。
「そういうことじゃったんじゃねぇ……」
彼女は周囲に「ちょっと用事ができたけ」と声をかけ、私たちを見た。
「帰ろうかね……。和義、何ぼさっとしとるんじゃ。さっさと車を出さんか。智君、こっちの車を運転して帰ってくれんかね」
私、理乃、澄江さんの三人は車に乗り込んだ。
走り出した車内に、沈黙が落ちる。
やがて、私は静かに言った。
「理信さんって、理乃の養父、なんだよね」
「そうです……。でも、どうして」
「理信さんは私のお祖父さんなの」
理乃は困惑したように目を見開く。
「え。父の孫? 父には他に子どもがいたの?」
「理信さんは、理乃の本当のお父さんではなかったの」
「そんなはずは……」
理乃はゆっくりと首を振る。
「だって、私は父にそっくりで……」
「そして、理信さんの息子が、私の父」
「歌帆さんのお父さんが……。でも名字が違ってる」
「私の父の旧姓は佐藤。父は日高に、名字を変えたの」
理乃は、私の言葉をゆっくりと反芻していた。
「父の名前は理科の理に、船の帆の帆って書いて、理帆っていうんだ。……理乃が探していた“日高姓で名前の最後が帆の人”。お母さんじゃなくて——お父さんだったんだよ」
しばらくの間、誰も何も言わなかった。
車のエンジン音だけが、低く、途切れなく続く。
「そういえば……母が『あなたは親に似なかったのね』って言ったことがありました」
理乃がぽつりと呟く。
「父とこんなに似ているのに変なことを言うって思ったけれど……父じゃなかったんですね」
「……そうだよ」
「私……ずっと妹がいたような記憶があって……。でも、気づいたらいなくて……。夢のような、そんな気がしてたけど……」
理乃は私を見た。
その瞳の奥が震えていた。
「歌帆さん、あなたが……妹だったんですね」
タイトルを修正しました。




