第21話 つながる真実
祖父に電話をかけたとき、少し風が強くなっていた。
海の見える部屋の隅、母のノートパソコンを前にして、スマホで番号を打った。
番号は、メールの署名に記されていたものだ。緊張で指先が少し震えていた。
……コール音が、虚しく鳴り続ける。
五回、六回。
出ない。時間が悪かったのか、それとも——。
「……やっぱり、無理かな」
携帯を握る手が少し汗ばんでいた。けれど、もう一度だけ、かけてみようと思った。
十分ほどして、深呼吸をしてから再度ダイヤルを押す。
——プツッ。
「……はい。佐藤です」
低く穏やかな、しかしどこか懐かしい声が耳に届いた。
「もしもし……私、日高歌帆です。日高歌乃の娘です」
相手が一瞬息を呑んだ気配がした。
「……歌帆さん、か。……大きくなったんだろうな」
抑えたような、けれど確かに温もりのある声だった。
「……母が、亡くなりました。六月の終わりに。倒れて、そのまま」
「ああ……そうか……」
電話の向こうで、何度も「そうか」と繰り返す祖父の声に、私は何も言えなかった。
沈黙のあいだ、外の風がまた強くなる。机の上のスターチスが乾いた音を立てた。
「……あなたたちのことは、ずっと気になっていた。すまなかった。何もできなかった」
風の音が遠ざかると、祖父はぽつりぽつりと話し始めた。
「実は、今日、興信所から歌乃さんが亡くなったという調査結果を受け取ったんだ。あなたが島の家に住んでいることもさっき知ったばかりで……」
「家の住所をどうしてご存知なかったんですか?」
「それは家内が、ある日、手紙の類を全部処分してしまったからなんだ」
何から話せばいいのか、祖父は迷っているようだった。
「……ゆっくりでいいので、話せることから……話してください」
そう促すと、彼は記憶をたどるように話し始めた。
自分が弁護士をしていること。
父に事務所の跡を継いでほしかったこと。
しかし、父は小学校の教師になるのが夢と語り、大学は教育学部へ進学したこと。
「正直、理解はできなかったが、理帆——君のお父さんだが——の意思が強くて諦めたんだ。ただ、遠く離れた、聞いたこともない島の教師になるとは思わなかった」
祖父よりも祖母の方がショックが大きかったという。
「家内は箱入り娘でね。私と結婚したのは短大を出てすぐだったものだから、少し世間知らずなところがあった。自分の手から息子が離れることが耐えられなかったんだろう。……大学の時は期限が決まっていたからね」
祖父の住んでいる所は本州でも北の方だった。
ここは本州の西の端の県。——とても離れている。
「島で歌乃さんに出会って、結婚を決めたと聞いたときは驚いたよ。六つも年上の女性と、しかも……名字を変えてまで結婚した。あれには……家内は特に反発した。"嫁の家"に入るなんて、理解できなかった。子どもが生まれても、距離は埋まらなかった。……そのまま、理帆が事故で亡くなってしまって」
私の胸に、知らなかった父の姿が少しずつ結ばれていく。
「家内は、あの時……歌乃さんに向かって『お前が殺したようなもんだ』と言ってしまった。それで、完全に断絶したんだ」
重く沈んだ沈黙のあと、祖父は小さく息を吸った。
「その後、あなたが心臓の病で倒れたという連絡があって……家内はもう、あなたのことばかり心配していた」
「……私、心臓病だったんですか?」
澄江さんが言っていた「歌乃ちゃんの娘が重い病気になった」、あれは私のことだったのか。
でも、まったく覚えていない。
そういえば、胸のところに手術の痕がある。母は「頑張ったんだよ」と言っていた――。
「手術は成功したんだが、その後、あなたが意識不明になった。一時は生死を危ぶまれたんだ。歌乃さんは理帆の死に目に私たちが会えなかったことを気にしていてね。連絡をくれた。遠距離だったけど急いで病院に来たんだ」
思えば、五歳くらいから前の記憶が、ところどころ虫食いのようになっていた。
「幸い、峠は越えた。私も家内も安心したよ。でも、仕事もしつつ、双子を一人で育てて、病気のあなたを看病していた歌乃さんは明らかに疲れ切っていた。あのままでは彼女も危ないと思った」
「もしかして、子どもを引き取るって言ったんですか」
「そうだ。私たちは、双子を預かることを申し出た。けれど、歌乃さんは拒んだよ」
「……どうして、理乃だけ引き取ったんですか」
「あなたは病気がまだ治りきっていなかった。医師が無理な移動は許可できないと言った。私の家は寒いところだから、そこで暮らすのは身体にも良くないという話もあった」
祖父はそこで言葉を切った。すすり泣くような音が聞こえた。
「理乃が……、たぶん大人の会話を聞いていたんだろう。『私が行く』と言ったんだ」
祖父の声が少し震えていた。
「『お姉ちゃんだから、大丈夫。私がおじいちゃんとおばあちゃんの面倒を見るからね』って。その場にはあなたも居たが……病気で、かなり意識が混濁していた。三歳だったし、覚えていないのも無理はない」
「母はどうしたんですか……」
「理乃の言葉を聞いて、しばらく放心していたよ。でも現実問題、あのときの歌乃さんの状態では双子を育てるのは無理だったと思う。それと、言いにくいんだが……」
しばらく無言だった。
「あなたは意識を回復した後、理乃のことを覚えていなかったんだ。無理に思い出させるのは負担だろうと、それもあって二人を別々に育てることにした」
理乃と別れることになったのは私のせい……?
私の顔を見て、智が手を握ってくれる。温かみを感じて、少し気持ちが落ち着いた。
「私……、元気になりました。どうして、理乃のことを教えてくれなかったんですか。お母さんも……」
——母が私に伝えたかったことは、このことだったんだ。
「伝えようと思ったことは何度もあった。だが、その度にいろいろなことが起こった。最初はあなたたち——理乃と歌帆が中学校に入ったら、という話だった。でも、そのときは理乃が受験して入った学校に馴染めなくて、『今はやめておこう』と。その後、理乃は落ち着いたが、あなたが高校受験で大変だということで、そのときも話が流れた」
私は、高校の特待生になりたかった。母を助けたかったから。でも偏差値的に厳しい。毎日勉強をしていた。確かにあの頃は機嫌も悪かった。
「あなたが無事合格したと歌乃さんに伝えてもらって……、うれしかったよ」
「でも、高校生になったときも、真実を教えなかった……何かあったんですね?」
祖父の声が、少し低くなる。
「家内が病気になって……。余命宣告された。家内は『罰が当たったんだ』ってずっと言っていた。歌乃さんも事情を知って、理乃に負担が大きいからと先延ばしにすることに賛成した」
そのまま、祖母は亡くなったという。私の胸に、深く冷たいものが沈んでいった。
「母とは連絡を取っていたんですか」
「たまに電話をしていた。あなたたちに何かあったときにお互い知らせ合っていたよ。家内が亡くなって落ち着いたら、今度こそ二人に話をしようと言っていた」
「今度は何があったんですか」
「理乃が高校生なのに……、子どもができた。それで高校を退学して結婚することになった。私は歌乃さんに詫びた。でも彼女は『おめでたいことじゃないですか。あの子はいつも自分で決めていたでしょう』と……」
「理乃は結婚したんですね……」
確かに、そんな状況のとき、こんな込み入った話をするのは憚られたのだろう。
ふとメールに書かれたことを思い出して、祖父に尋ねた。
「理乃の居場所が分からないって、どういうことですか?」
「結婚した相手とうまくいかなくて別れたんだ。しばらく私と一緒に暮らしていたが、元の夫がしつこく訪ねてきてね。理乃はそれが嫌で、実家を黙って出て行ってしまった……」
最近も同じような話を聞いた。偶然だろうか?
「結局、私たちが先送りを繰り返していただけなんだ。ずいぶん、長い時間が流れてしまった」
「……理信さん、お祖父さんって呼んでいいですか」
「ああ、いいよ……。孫たちにそう呼ばれるなんて久しぶりだな」
「父の二十三回忌で真実を話すと決めていたんですね」
「そうだ。島に行きたい。あなた……歌帆にも会いたい」
「実は、母の四十九日と父の二十三回忌を一緒にしてしまいました。でも、今度はお祖父さんと理乃と一緒に父の話をしたいです。私の覚えていないお祖母さんの話も」
しばらく無言が続いた。私は祖父が話し始めるのを待った。
「ぜひ……、すぐにでも、と言いたいところだが、仕事を片付けてから行くよ。この年でもね、まだ働いているんだ。弁護士事務所をやっているから、困ったことがあったら頼っておくれ」
少しおどけるような調子で言う。祖父は意外と面白い人なのかもしれない。
「母が亡くなって……いろんな記憶が、香りみたいにふわっと蘇って。でも、肝心なことが抜け落ちてる。私の記憶の中に、理乃がいないんです。だから取り戻したい。理乃の居場所は分からないままですか?」
「電話しよう。理乃は歌帆さんのことをうっすら覚えてはいるようなんだ。思い切って話すよ」
理乃とも早く会いたくなった。
「理乃は私と似ているんですか?」
「いや、見た目はあまり似ていない。小さい頃は二人ともまっすぐな黒髪だったんだが、歌帆さんは病気が治った後、栗色の髪になったろう?歌乃さんに写真を送ってもらったことがあったんだが、驚いたよ」
幼いころの写真が家になかったから知らなかったけど、私の髪は黒かったらしい。確かに母も黒髪だった。
「理乃は子どもがいるんですよね?どんな子ですか」
「あの子にそっくりでね。利発な男の子だよ。明るくて、誰とでも仲良くなれる。父親とは違うタイプだ」
「父親って……?」
「健斗というんだが、どうも最初から気に入らなかった。……そういえば、最近会ったな」
「そうなんですか?」
「……実は、歌乃さんの所在を興信所へ調査依頼した帰り、近くで健斗の姿を見かけたんだ。別の興信所から出てくるところだった。一瞬だったが、あの男の顔は忘れん」
風が再び吹いて、風鈴を揺らす。澄んだ音が響いた。
「そちらへ行くことは、約束する。潮音の方々にも挨拶しないとな」
そう言い残して、祖父は電話を切った。
「どんな顔をしてるんだろう……。早く会いたいな」
「ちょっと弁護士事務所のHPを確認してみようか」と智が言い、インターネットで検索を始めた。
「きっと顔写真が載ってると思う……。これかな?」
祖父のフルネームで検索するとHPがすぐにヒットした。
佐藤理信弁護士事務所。「在籍弁護士」のページを見ると、経歴と共に写真が載っている。
「この人が……お祖父さん?」
少し白髪が混じりつつも、端正な顔をした男性が写っていた。
その写真を見て目を見張る。
「これって……」智も気が付いたようだ。
「リサさんにそっくり……」
理乃は、リサさんだった。




