第2話 帰る場所
私は島から実家へと戻った。
ゼミ合宿は事情を話して辞退させてもらった。
実家のマンションは広くはなかったが、それでも荷物は多かった。
二十年近く暮らしていたのだ。大量の遺品の整理と、山のような手続きを静かに進めた。
戸籍、保険、年金、相続関係の書類……それらをひとつひとつ片づけるたびに、母の人生が過去になっていくような気がした。
「これで終わりですね」と窓口の人が言うたびに、心の中で「終わらないで」と呟いてしまう。
就職も卒業も決まっていて、焦る理由がないのがかえって虚しかった。
母の前に白で揃えたトルコ桔梗とスターチスを静かに供えた。
葬儀社の人が「忌中は白や淡い色を」と教えてくれた言葉を思い出しながら、花屋で迷って選んだそれらの花は、部屋の空気に静寂を纏わせてくれていた。
手を合わせた後、小さな仏壇の前にそっと腰を下ろす。
白い花弁がかすかに揺れるたび、遠い記憶の中で母の声が微かに響くような気がした。
葬儀が終わり、心が落ち着きを取り戻し始めた頃、現実が静かに立ち上がってきた。
家賃や生活費という、避けることのできない日々の重さ。
けれど今は、目の前の優しい花の色が、そうした不安をそっと包み込んでくれていた。
父のいない家庭で母も亡くし、ひとりになったという実感を、少しでも遅らせたい気持ちがあったのだと思う。
今住んでいるアパートは学生向けで決して広くはない。
小さいとはいえ仏壇をどうしようか頭を悩ませる。
大学の近くで就職を決めていた私は、実家を引き払うことにしたからだ。
母は大学の学費を秋学期分まで事前に払ってくれていた。
大学の学生課でそれを知った時、私は声もなく泣いた。
対応してくださった職員の方も、静かに涙を流してくださった。
智からは連絡がない。連絡がないことに気づかなかった自分に驚く。
確かに、ちょうど大きなプロジェクトの一員になったとかで連絡が滞ると聞いていた。
だから、あの時どうしても智に会いたかったのに。
母の言葉を聞けなかったことを智のせいにしてしまいそうで、それも連絡できない理由だった。
スマートフォンが着信を知らせる。
智だった。
あれだけ待ち焦がれていたのに電話に出るのを躊躇った。
「歌帆。久しぶり。全然連絡ないね。もしかしてあまり連絡するなって言ったから気にしてた?」
「ううん。忙しくて……」
「急だけど、今日会えない?仕事の予定がキャンセルになったんだ」
「今、実家に帰っているから無理。ごめんなさい」
「えっ。そうなの?いつも歌帆ってお母さん優先だよね」
「……忙しいからもう切るね」
私は通話を切った。このままでは、何かとんでもないことを口にしそうだったから。
智は大学の先輩だった。普段は飄々とした掴みどころのない人だけれど、私が困っていると助けてくれた。そんな彼に惹かれ、自然と、恋人になった。
お互いが大学生の頃は毎日のように会っていたけれど。
彼が就職してから、返信は少しずつ途切れがちになった。
何度か文句も言った。
連絡をしないのは、私を大切にしていないのと同じだとも思ってはいた。
「連絡できないことって、確かにあるんだね」
鬱々とした気分を変えるように、私は荷物を片付けた。
そうだ。……仏壇は、島の家へ運ぼう。
あの家なら、母も落ち着ける気がする。今のアパートに置いておくより、きっと。
私はもう一度島へ行こうと決めた。
その時、またスマートフォンが鳴った。智かと思ったが、相手は美子さんだった。
和義さん、美子さんと連絡先を交換してから、二人は度々連絡してくれる。
私が、また島へ行くこと、実家を引き払う話をしたら、美子さんは心配そうにこう言った。
「ひとりじゃ大変じゃろ?」
「便利屋さんに頼もうかと思ってたんですけど……」
正直、誰かと一緒にいてほしいという気持ちも少しあった。
「そんなもん頼まんでもえぇけぇ、うちが手伝いに行くよ」
遠慮したが押し切られた。
「ちょうど、そっちに用があるんよ。この前、歌帆ちゃんすぐ帰ったけ会えんじゃったけど、うちの省吾も連れて行くけぇね。男手がいるじゃろ」
「省吾さん?」
「うちの息子よ。事故して左手があまり動かんのよ。指も何本か無くしてヤクザもんと勘違いされるのが困るかねぇ」
かなり深刻な話だと思ったが、美子さんはあっさりとしたものだった。
「仕事を続けられんでショックじゃったみたいで、腑抜けとるけぇ。歌帆ちゃん、扱き使ってやりんさい」
二日後。家に美子さんと省吾さんがやって来た。
省吾さんはこちらの大学病院に数ヶ月に一度通院しているらしい。
夏なのに手袋をしているのは傷を隠すためだろうか。
彼は軽く挨拶をした後、ほとんど喋らず、黙々と荷造りをしていた。
智からはSNSでメッセージが何度か届いていた。
うまく返事ができなくて放置している。
その日も役所や保険会社から何度か電話があった。
着信音を聞いて相手も確かめずに出た。
「歌帆」
智だった。
「どうしたの?メッセージも既読にならないし……」
同じタイミングで省吾さんが扉の向こうから声をかけてきた。
「歌帆さん……。手紙があったんだけど、これはどうしたらいい?」
智にも省吾さんの声が聞こえたようだ。態度に不機嫌さが滲んだ。
「今の誰?男といるの?」
「親戚の人」
「嘘。歌帆から親戚の話なんて聞いたことない……」
「本当だから。今手が離せないの。当分、そちらへ戻れないから」
私は乱暴に電話を切った。
「……何か、誤解を招いたかもしれない。すみません」
省吾さんは、不穏な空気を感じ取ったのか、静かに謝った。
「いえ……。気にしないで」
二人が手伝ってくれたおかげで、荷物もすっかり片付いた。
「近いうちに島に行きます」
「待っとるけぇね。澄江さんも元気になって、歌帆ちゃんに会えるのを楽しみにしとるよ」
母が何を考え、なぜ別の家を維持していたのか。
島のあの家で、何かを感じられるかもしれない。
手続きを終えて一段落した今、ようやく、私は母の死を自分の感情として受け止める準備ができた気がした。
そしてもうひとつ——智への自分の気持ちも、どこかで整理したかった。
もう一度、あの家の扉を、自分の手で開けようと思った。
※この作品は現代日本の物語です。
※ゆるやかな日常の中で、家族や過去と向き合うお話になります。
更新は毎晩21:00を予定しています。