第18話 楽園の空気
母のノートパソコンを受け取りに、本土へ向かうことになった。
まだ朝の空気がひんやりしているうちに、智が運転する車でフェリーに乗った。和義さんに借りた車だった。日帰りの強行軍だから、行程に無駄は出せない。出港の汽笛が、眠気の残る耳に深く響いた。
窓の外に広がる都会の街並みは、島のそれとはまるで違っていた。眩しいほどの看板、喧騒、足早にすれ違う人々。かつては私にとってそれが当たり前の日常だったはずなのに、今はどこか空気が硬く、呼吸の深さを忘れてしまいそうになる。
智は運転に集中しながらも、時おり気遣うように私へ視線を向ける。
車内には、いつの間にか聞き慣れたラジオ番組が流れていた。
パソコン店は、大きな通りから少し外れた場所にあった。
電話で話した店員が応対に出てきて、申し訳なさそうに頭を下げる。
「何度かお電話を差し上げたのですが……」
「すみません。母の携帯は、亡くなってすぐに解約してしまって」
SNSよりも電話やメールを好んでいた母。
「メールのほうが言いたいことが伝わるから」とよく口にしていた。
当時はピンとこなかったけれど、父とのやりとりを見て、なんとなく意味が分かった気がした。
間もなく、修理を終えたノートパソコンが運ばれてきた。
ケーブルの断線だけで、中身のデータはそのままだという。
無事に受け取れてよかったと、私は胸を撫で下ろした。
せっかくだからと、街での買い物も済ませることにした。
智は、あらかじめ頼まれていた品のリストをスマホで確認していた。
「省吾さんにハーブの種、和義さんには調味料とスパイス……」
私は地元だったこともあり、移動中に効率の良い店の回り方を考えていた。
「省吾さんは『あったらでいい』って言ってたのに、和義さんは『絶対買うてこいよ』だったもんな」
記憶をたどり、スマホでも確認しながら店を回り、依頼されたものを買い揃えた。
「歌帆は、女性陣からは何か頼まれてないの?」
「ううん。『別に困ってないよ』って。でも、お土産くらいは買って帰ろうと思って」
澄江さんには青いバンダナ。美子さんには香りのしないハンドクリーム。リサさんには、髪の長い人に便利だというヘアドライタオルを選んだ。
「ヘアドライタオルって、普通のと違うの?」
「水をよく吸って、髪が早く乾くんだよ。リサさん、髪が長いから便利かなって」
「歌帆は買わないの?」
「私、髪が短いから」
ふと、リサさんの長く艶やかな黒髪を思い浮かべた。
私の栗色の癖がある髪の毛は長く伸ばすとうねってしまうので、いつも肩にかかるくらいに切ってしまう。
私もリサさんのような髪だったら良かったのにと思った。
澄んだ切れ長の瞳。凛とした、冷ややかなようで温もりがある眼差し。
昔、画集で見た青紫のアイリスの絵を思い出させる。
実際の年齢よりも幼く見えるわたしとは全然違う。
「わたしは、花じゃなくて、ねこ柳になるかな」
「何か言った?」
智が聞き返してきたので、私は笑ってごまかした。
リクトくんには、ひまわりの描かれた子ども向けの植物図鑑を選んだ。
まだ誕生日の贈り物を渡せていなかったから、ちょうどよかった。
「この街には何でもあるけど、静けさはないね」
そう呟くと、智がふと口を開いた。
「……ちょっと寄っていい?」
智のひと言で、私たちはデパートへ向かった。
「ここ、昔お母さんと来たんだ……」
「そうだったね」
化粧品売り場に進んだ彼は、迷いなく店員に声をかけた。
「取り置きをお願いしていたもの、ありますか?」
小さな紙袋が差し出され、それを大事そうに受け取る智。
さらにコンビニでも、通販の荷物をひとつ受け取っていた。
段ボール箱は薄く、軽そうだった。
「それ、何?」
「内緒」
島へ戻るフェリーの中、私は窓の外をぼんやりと眺めていた。
海の色が、日が傾くにつれて琥珀色を帯びていく。
「今日は、あっという間だったね」
「歌帆を連れ回しちゃって、ごめん」
「そんなことないよ。……少しだけ、昔を思い出せたし。都会の空気って、匂いが違うんだね」
船が港に近づき、島の輪郭が次第にくっきりと浮かび上がる。
そこには、新しい日々が待っている。
智と一緒に家へ戻った。
そういえば、あの小さな袋は何だったのだろう——。
考えていると、智がそれを差し出してきた。
「はい。間に合わなかった方のプレゼント」
「え?」
中から出てきたのは、黄色い地に柔らかな鳩の絵が描かれた箱。
香水だった。「レールデュタン」――母が大切にしていた香り。
「昔とは、少し香りが違うかもしれない。でも、歌帆がお母さんを思い出せるならって」
私はキャップを開け、そっと手首に一吹きした。
微かに甘く、やわらかで、それでいて芯のある香り。
温かい香辛料と花が溶け合って、午後の記憶が、静かに立ちのぼってくる。
「いい匂い……」
「それだけじゃ、ないんだよ」
智は、もうひとつの白無地の箱を開いた。そこには、鳩の飾りがついた桃色の香水瓶が収まっていた。
「これは“レールデュパラディ”っていう香水。数年前に出た限定品なんだって。テスター品を探して手に入れたんだ」
「レールデュ……パラディ?」
「“レール”はフランス語で“空気”とか“流れ”って意味なんだって。『レールデュタン』は“時の流れ”。『レールデュパラディ』は“楽園の空気”」
「同じ単語でも、訳し方で印象が違うんだね」
「うん。この島で、もう一度香りの記憶をつくっていけたらって思ったんだ。過去を懐かしむだけじゃなくて、今の時間を重ねるような……」
“楽園の空気”はまったく異なる香りだった。
ライムとジャスミンとプルメリア。柑橘と花々が、夏の朝を思わせる。
そのとき、庭の方から風が流れ込んできた。草木がそっと揺れた。
「この島みたいだよね」
智は、穏やかに笑った。
「……こんなにいろいろもらって、お返し考えなきゃ」
「期待してるよ?」
ふざけた調子でそう言い残し、智は潮音へ戻っていった。
母のパソコンを起動しようとしたが、パスワードで弾かれる。
ロックがかかることを恐れ、また明日、確認することにした。
私は、ふたつの香水瓶を見つめる。
「時の流れ」と「楽園の空気」。
過ぎ去った時間と、これから積み重ねていく時間。
それらが、たしかにこの場所で交差している。
夜の気配が降りてくる。
私はそっと、瓶の蓋を閉じた。
次回はリサの話です。




