第17話 花咲くアーモンド
夕暮れの光を浴びた花の寄せ植え。
リサとリクトが、それを嬉しそうに眺めていた。
一緒に居るときは、いつも周りに花がある。
――ふたりに初めて会った日は、アーモンドの花が咲いていたな。
俺は彼女の横顔を見ながら、潮音で暮らすまでを思い返した。
昔から、人が集まって食べて飲む光景が好きだった。
皿の音や笑い声に包まれるだけで、心が温かくなった。
親父は料理人。厨房に立つ背中は格好よく、包丁の音や鍋の匂いに胸が躍った。
料理というのは芸術なんだと思った。
――けれど、自分は同じ道を選ばなかった。
比べられるのが怖かった。敵わないと知っていたからだ。
だからソムリエを目指した。
ワインもまた奥深く、料理と響きあう存在になれると思った。
祖父の危篤で初めて島を訪れた。
船から降りると潮の匂いと風の音が迎えてくれた。海は透きとおり、住んでいる所とはまるで違っていた。
病室で、小さな祖父が俺を見て「省吾……」と呼んだ。
母が折に触れて写真や手紙で知らせていたらしい。
祖母が差し出した通帳には、七五三や入学祝いの積立が並んでいた。
遠くからでも俺を気にかけてくれていたのだと知った。
親父が耳元で何か囁くと、祖父は安らかな顔で旅立った。
やがて親父はホテルを辞め、民宿を継ぐと決めた。
高校生の俺は戸惑ったが、親父は「好きにするといい」とだけ言った。
専門学校を出て、小さなビストロに勤めた。
香ばしい匂い、ワインの栓を抜く音、客の笑い声。
その空気の中で、ハーブや花の世界にも惹かれていった。
四年後に資格を取り、大きな店へ移った。
コンクールで準優勝し、仲間に祝われて夜道を歩いた。
街灯の下、紙コップが転がる。
浮き立つ気持ちのまま足元に視線を落とした、その瞬間――ドン、と衝撃。
視界が白くはじけ、時間が止まった。
気がつくと病院のベッド。
左手は動かず、指も二本を失っていた。
車を運転していたのは認知症の老人。
何も分からない様子で、代わりに息子が深々と頭を下げた。
「あなたのせいじゃない」――そう言いたかった。
店からは別の仕事を提案されたが、心は動かなかった。
細かい作業はもうできない。
言葉も出なくなり、医師にも原因は分からなかった。
やがて親父のもとへ戻り、海を眺めるだけの日々が続いた。
――このままではいけない、と心のどこかで分かっていた。
ここにやって来る誰かが転機になるのではないかと、漠然と感じていた。
そんなある日、若い女性と小さな男の子が民宿を訪れた。
母親は黒い髪を束ね、静かで懐かしい雰囲気をまとっていた。
男の子に「お兄ちゃん」と呼ばれて、思わず返す。
「お兄ちゃんじゃない」
「じゃあ、なに?」
「俺は省吾だ」
「省吾お兄ちゃんだね」
不思議な子だった。人懐っこく、屈託がない。
けれど、その瞬間、声が出ていた。あれほど話せなかったのに。
彼女は庭の木に目を向け、俺が植えた花を指さした。
「桜でしょうか?」
「……アーモンド……」
「こんなにきれいな花が咲くんですね」
そう言って、静かに微笑んだ。
――あのときからだった。
あの子と、あの人と、一緒に花を見ていたい。
自然に、そう思った。
※この作品は現代日本の物語です。
※ゆるやかな日常の中で、家族や過去と向き合うお話になります。




