第15話 刻む名前
日記を読んでいたのに、「りの」の存在に気づけなかった自分のことを、私は静かに振り返っていた。
ところどころに「私と娘たち」という言葉が書かれていた。
最初は、母と私のことを指しているんだと思っていた。
けれど、もしそうなら、「私と娘」と書くはずだ。そこに、なんとなく違和感があった。
島の家で見つけた布張りのノートにも、「あの子」という曖昧な表現が残されていた。
どの記述もはっきりとは書かれていないのに、きょうだいの気配だけが、そっと滲んでいた。
それでも、「りの」という名前は、どこにも見当たらなかった。
そんなことを考えていたとき、玄関に来客の音がした。
郵便屋さんが、手紙を届けに来ていた。宛先は母だった。
転送の手続きをしたとき、念のため母の名前も登録しておいたのだ。
差出人はパソコンショップ。
封を開けると、「修理完了につき、引き取りをお願いします」という通知が入っていた。
そのとき、やっと気づいた。母のノートパソコンが、家のどこにもないことに。
私は普段、パソコンをほとんど使わない。レポートや卒論を書くときくらいだ。
母がパソコンに向かっている姿を見た記憶があるはずなのに、その不在にずっと気づかずにいたのだった。
通知には「ご連絡がない場合は処分いたします」と書かれていた。
私は慌てて店に電話をかけ、母がすでに亡くなったことを伝えた。
電話口の店員さんは驚いて、申し訳なさそうにしながら、保管期間を延ばしてくれた。
今日は、墓誌に母の名前を刻む日だ。
一人で対応するのは心細いだろうと、智が付き添ってくれることになった。
約束の時間は午前十時半。それまでの間、二人で縁側に座って、静かな庭を眺めていた。
「日記に、『りの』の名前が出てこなかった……。考えてみたら、母はわざと名前を書かなかったのかもしれない」
私がそう言うと、智は少し考え込んでから口を開いた。
「澄江さんが言ってたよね。"日高の家では、幼くして亡くなった子どもは、墓に名前を刻まない"って」
「うん」
「沖縄の一部にも、成人前に亡くなった子の名前を、墓石に刻まない風習があるらしいよ」
「そうなの?」
「沖縄以外ではあまり聞かないけどね。でも……日記にまで名前を書かないっていうのは、珍しい気がする」
「……実は、私の名前も、最初のころは出てこなかったの」
「え、ほんとに?」
「うん。でもね、七歳の誕生日を境に、書かれるようになった」
「"七歳までは神のうち"っていう言葉もあるもんね。小さい子の行いは、まだ神様の領域っていう考え方。そういう信仰と関係してるのかも」
私は頷いた。
「日記に、"あの子が連れて行かれてしまった"って書かれていたのを見つけた」
「それって……」
「母の考えを裏づけるようなメールも残っていたの」
そして、私は母が父に宛てた一通のメールのことを思い出していた。
---
From: kano_h@×××mail.com
To: m.satou@××.ac.jp
Date: 1999/6/27 10:22
Subject: 迷信
聞いてくれる?
もうすぐ世の中が終わるとかって、世間で騒いでるよね。
職場でもそんな話になったんだ。
そしたら同僚が、「非科学的なことを信じる人はうちの職場にはいらない」なんて言い出して。
そのときは笑ってやり過ごしたけど、実は私の家にも、そういう"非科学的な迷信"があるんだ。
私の家では、七歳までに亡くなった子は墓に名を刻まない。
すぐに生まれ変わって戻ってくるように、という意味らしい。
昔は、幼い子どもが亡くなってしまうことが何度もあったんだって。
だから、生きている子についても決まりがあった。
無事に七歳を迎えるまでは、できるだけ名前を書いてはいけないって。
結構、おどろおどろしいでしょ?
でも、うちはごく普通の田舎の家だと思うよ。
一応言っておくけど、島全体がこういう風習ってわけじゃないからね。
私が小学校に上がった最初の年は、両親はなるべく名前を書かないようにしてた。
変だと思ってたし、そんな風習、嫌だった。
でも――二年前、私に兄がいたことを知った。
だいぶ年の離れた兄だったみたい。
両親も、実は迷信を信じていたわけじゃない。
母は島の外から来た人だったし、友達に兄が生まれることを知らせる手紙を出したって。
手紙に名前の候補を書いていたみたい。相談したかったんだろうね。
でもそのあと、兄はすぐに亡くなった。
偶然だとは思ってる。
母は、手紙に名前を書いたことを後悔したみたいだった。
生まれてすぐに亡くなったら、出生届と死亡届を同時に出さないといけないって。
もう呼ぶことのない名前を書いて、届ける。
そして、兄の名前は今はどこにも残ってない。
それを知って初めて、「名前を記さない」っていう抵抗を、少しだけ理解できた気がした。
佐藤さん、レポートで民俗学的な話を探してるって言ってたから、よかったら参考にして。
身元がバレなきゃ使ってくれていいよ。
引かれるかもしれないけど、最近はちょっとだけ、「そういうこともあるのかも」って思うようになったんだ。
---
「それを読んで納得した。母の中には確かに、名前を記すことへのためらいがあったんだって」
「墓誌には名前と亡くなった日付を彫るんだね」
「うちのお墓は戒名は彫らないみたい」
「そういえば、法事で何をするか決めた?」
「大げさにはしないつもり。お寺でお経をあげてもらって、お花をお墓に供えるくらい。澄江さんと省吾さんも来てくれるって」
智は少し遠慮がちに言った。
「……家族でもないのに、俺が行っても大丈夫かな」
「もちろん。来てほしい人に来てもらいたいの。それで、法事の後は潮音に来てって美子さんが言ってくれて。私たちの誕生日祝いをするって」
「私たち?」
「リクトくん、リサさんも明日が誕生日なんだって」
「すごいね。”誕生日のパラドックス”だとはいえ」
分かっていない顔をしていたのだろう。智が微かに笑いを浮かべながら教えてくれる。
「『同じ誕生日の人が2人以上いる確率』が実際は意外と高くなるという現象だよ。……でも、あのふたりか、不思議だね」
庭から風が吹いてきて、草花をやさしく揺らした。
いろんな花が咲く花壇は、雑然としているように見えて、なぜか調和が感じられた。
紫苑のそばには、いつの間にか薄い黄色のリコリスが寄り添うように咲いていた。
石屋さんが到着して、私たちは墓へ向かった。
職人さんは墓の前で軽く頭を下げると、静かに道具の準備を始めた。
「それでは、始めさせていただきますね」
彫刻には専用の機械を使うのだという。
静かな墓地に、低いエンジン音がかすかに響いた。
刻む位置を、まるで目に見えない定規で測るように、何度も慎重に確認している。
湿った朝の光の中、墨でなぞられた名前の輪郭が、石の表面に静かに浮かんでいた。
「ここが、いい……」
職人さんの小さなつぶやきが、石に吸い込まれるように消えた。
やがて彫刻機が音を立てて、白い粉が舞った。
石を削るたびに微かな震動が伝わって、墓誌が新しい記憶を受け入れていく。
浅く刻まれた文字は、だんだんとはっきりした形になっていった。
「どんな方だったのか、想像しながら彫らせていただくんです」
その言葉に、私はふっと微笑んだ。母の笑顔。少し上がる口元。電話口の声の調子。
職人さんは刷毛で石の表面をそっと払って、墨を流し込む。
影のように文字が染まって、そこに母の名前がしっかりと定着していった。
風が止んで、墓地に再び静けさが戻る。
濃い灰色の墓誌に、「日高 歌乃」の名前が浮かび上がっていた。
職人さんは道具を静かに片付けて、深々とお辞儀をした。
その名前が、石の中で、静かに息をしているように見えた。
ようやくこの島に――この場所に、母が帰ってきたんだと思えた。
※この作品は現代日本の物語です。
※ゆるやかな日常の中で、家族や過去と向き合うお話になります。
物語は最終話までの構成がすでに固まっておりますが、一部に矛盾や齟齬が見つかったため、現在修正・調整を行っております。
丁寧に紡いでいきたいと思っておりますので、引き続きお付き合いいただけましたら嬉しいです。




