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第14話 時を渡る鳩

 前日があまりに騒がしかったせいか、今日はひときわ静寂に包まれていた。

 草木のささやきが、耳に心地よく響いている。


「港で手土産を提げた家族連れを見たよ。帰省組かな」

 玄関から入ってきた智が、そう呟きながら靴を脱いだ。


 お盆になり、島を離れていた人たちが、ひとり、またひとりと戻ってきている。

 この島も、いつもより少しだけ活気を帯びていくのだろう。


 汗ばんだ智に麦茶を出すと、それを一口含んで、静かに言った。


「……時間の流れが、ゆっくりしてるね。予定も、気持ちも」


「休みが終わるの、あと二週間くらいだっけ」


「現実に引き戻さないでくれよ」

 わざとらしく顔をしかめてみせる。


「一昨日も"資料がどこにあるか分からない"って、先輩から電話が来たし」


 休暇中とはいえ、智の職場から時折連絡が入るようだった。

 お盆休み前の確認事項も多いらしく、会社は慌ただしかったらしい。


「急に戻ってきても大変だろうって、気遣いではあるんだろうけどね。……歌帆は、もう授業ないんだっけ」


「うん。ゼミに行くだけだし、卒論もほとんど書けてる」


 秋学期が始まるのは九月半ば。

 私の方が智より少しだけ長く、休暇を過ごせる。


「法要の準備はどう。進んでる?」


 母の四十九日と、父の二十三回忌。

 今の私のもっとも大切な務めだ。


「今日ね、位牌が届いたの」


 私は、その位牌を静かに見つめた。

 やわらかな木目が浮かぶ、すっと縦に伸びた木柱。

 どこか、母を思わせる形だったので、迷わずそれを選んだ。


「十日くらいで?早いね。島なのに」


「仏具屋さんが、道昭どうしょうさんに用事があって、そのついでに届けてくれたんだって」


「道昭さんって……誰だっけ」


「菩提寺の住職さんだよ」


 澄江さんと一緒にお寺に相談に行ったとき、位牌の手配についても、住職の道昭和尚が教えてくれた。


 葬儀のときは一番シンプルなプランにしていたから、

 仮の白木の位牌は葬儀社が用意してくれたものだった。

 名前も入っていないままだったので、改めて正式な位牌を準備することにした。


「この島には仏具屋はありませんが、心当たりはあります。最近、そのお店がオンラインショップを始めたので、そちらでのご注文でも大丈夫かと」


「オンラインショップ……」


 石材店と同様に、仏具店も最近はオンライン注文を受けているらしい。


 澄江さんが、静かに呟いた。


「最近は、何でもネットでできるんじゃねえ」


 道昭和尚は、穏やかに微笑んだ。


「法事をネットでされる方も、いらっしゃるようですね」


 その話には、澄江さんも私も目を丸くした。


「えっ……お布施って、どうするんですか」


「それは銀行振り込みだそうですよ」


 あまりにも現代的で、思わずクスっと笑ってしまった。


 けれど、その話のおかげで自然に戒名代のことも確認できた。


 相談の結果、母の戒名は「時誉流歌信女」と決まった。


「戒名って、詳しくないんだけど……どうしてその名前にしたの」


 智の問いに、私は引き出しの奥からガラスの瓶を取り出した。


 その蓋には、二羽の鳩が寄り添うようにあしらわれている。

 中身は、もう空になっていた。


「香水……」


「"レールデュタン"って言うんだ。母が大切にしていた香水」


「それが、戒名と関係あるの」


「うん」


 蓋を外すと、微かに、懐かしい――遠い午後のような香りがした。


 母は、休日にだけ香水をつけていた。

 職場では「差し障るから」と言って。


 黄色い液体がきらきらと輝くボトルが美しくて、私はいつまでも眺めていたかった。

 けれど母は、それを私の手の届かない棚の奥にしまっていた。


「外に出しておくと、香りが飛んでしまうの」


 母は、この香水が結婚前に父から贈られたものだと教えてくれた。


「ネクタイのお返しにって。わざわざ片道二時間かけて、大きな街のデパートまで行ったんですって」


「すごい。今度は私が、お母さんに買ってあげる。なんて名前なの」


「ありがとうね。これはね、"レールデュタン"っていうの」


「れーるでゅたん。呪文?」


「ふふ、フランス語で"時の流れ"っていう意味よ」


「お父さん、センスいいよね」と言うと、母は「どこでそんな言葉を覚えたの」と微笑んだ。


 そうして、香水を大事に大事に使っていたが、ある日とうとう空になってしまった。


 たしか、私が小学校に上がる前のことだったと思う。


 母は私を連れて、かつて父が香水を買ったというデパートを訪れた。

 店員と話し込んでいる間、私は化粧品の匂いに辟易して、違う場所に行きたくなっていた。


 結局、母は香水を買わなかった。


「……なんだか、昔と香りが違う気がするの」


 そのときの母は、少しだけ寂しそうだった。


「それで、"時"と"流れ"を戒名に入れてほしいってお願いしたの」


 甘いだけではない香りだった。

 くちなしとスパイスが交じり合い、ほんの少し冷たいフローラル。

 その後に、石けんのような柔らかさが重なって、クローブの苦みがすっと立ち上る。


 香りは、母の記憶と深く結びついている。


「記憶って、香りと一緒に残るのかもしれないね」


 智の言葉に、私は静かに頷いた。


 この家の空気も、島の匂いも、母の記憶と一緒にある。

 ……誰にも見えないけれど、たしかに、ここにある。


「そういえば、メールを印刷したファイルがあったよね」


 智が思い出したように言う。

 私は頷き、ファイルを広げてみせた。


「どうも、お父さんとお母さんのやりとりみたい」


 驚いた様子の智に、私は数通のメールを示した。


 ---


 From:kano_h@×××mail.com

 To:m.satou@××.ac.jp

 1997/7/20 20:03


 件名:交流ノートを見ました


 佐藤さんへ


 民宿に置いてあったノートを見て、メールしてみました。

 正直、こういうのはちょっと怪しいなと思ったのですが、何となく気になってしまって。


 でも大丈夫ですか。

 私が言うのもなんですけど、変なメールとか来てませんか。


 個人情報を晒すのって危ないですよ。

 名字だけでしたが、フルネームだったら説教してます(笑)


 余計なお世話ですみません。


 ただの冷やかしかもしれませんが、返事があれば面白いかなと。


 --


 From:m.satou@××.ac.jp

 To:kano_h@×××mail.com

 件名:Re: 交流ノートを見ました

 1997/7/21 10:15


 kano_hさんへ

 #なんて呼べば良いのか分からなかったのでアドレスそのままにしています。

 #良かったら教えてください。


 メールありがとうございます。

 まさか本当に連絡をくれる人がいるとは思っていませんでした。

 お叱り、ご尤もです。

 名字だけだから大丈夫かな、と考えてました。


 ご心配いただいたのですが、あなただけしかメールくれてません(笑)


 私は今、大学で勉強している普通の学生です。

 島の空気がすごく良くて、もう一度行きたいと思っています。


 もしよかったら、島のことをもう少し教えてもらえませんか。


 ——佐藤


 --


 From:kano_h@×××mail.com

 To:m.satou@××.ac.jp

 件名:Re: Re: 交流ノートを見ました

 1997/7/22 01:22


 佐藤さんへ


 呼び方は「kano_h」で構いませんよ。


「島のことを教えてほしい」と言われても、改めて考えると難しいですね。

 とにかくのんびりしてますが、そういうのは言葉にしにくくて。


 強いて言うなら、夏はとにかく蝉が響きます。

 あと、船が欠航すると何もできません。便利ではないけれど、その不便さも含めて、ここにしかない時間が流れているような気がします。


 それより、佐藤さんはどうしてあんなふうに「メールください」なんて書いたんですか。


 --


 From:m.satou@××.ac.jp

 To:kano_h@×××mail.com

 件名:理由

 1997/7/22 10:58


 kano_hさんへ


 ただの思いつきでした。

 初めての島で、空気が澄んでいて、人もやさしくて。

 でも一人旅だったので、誰かとその記憶を共有したくなったんです。


 ノートに書いたら、きっと誰かが見てくれるだろうと。

 本当に返事が来るとは思っていませんでしたけれど。


 ---


「佐藤って……お父さんの旧姓」


「うん」


 メールは、最初こそぎこちなかったが、途中で途切れながらも、何年も続いていたようだった。


 その晩、美子さんから電話がかかってきた。


「なんか、変な男がうろついとるみたいなんよ」


 聞けば、車で寝泊まりしている男が目撃されたらしい。


「島の人で、そんなことする人はおらんけえね」


 帰省者には迎える家があるし、観光客なら民宿に泊まる。

 それなのに、車中泊をしているというのは、確かに不自然だった。


「今日は……窓を全部閉めて寝よう」


 そう思った。

※この作品は現代日本の物語です。

※ゆるやかな日常の中で、家族や過去と向き合うお話になります。

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