第13話 青い鳥とヨモギギク
女性に対し不快な表現があります。ご注意ください。
あの後、智は心配そうに帰っていった。
翌日は日記を読む気にもなれず、一日中ぼんやりと過ごした。
智から電話があったが、私の声を聞くと「ゆっくりしてね」とだけ言って、すぐに切れた。
庭の雑草を抜き、ごみをまとめて出す。自分の心の澱も、一緒に片づけられたらいいのにと思った。
智がうまく伝えてくれたのか、誰も訪ねては来なかった。
ここ数日は潮音を頻繁に訪れていたので、何も予定のない日が逆に不思議に感じられる。
早朝、鳥の澄んだ鳴き声で目が覚めた。
窓のすぐそばで、青い鳥がさえずっている。よく見ると、お腹のあたりは赤茶色をしていた。
急いでスマートフォンを構えると、まるでポーズを取るかのようにじっとしている。
撮影が終わると、それを承知していたかのように、ふわりと飛び立っていった。
写真で調べると、名前が分かった。
「イソヒヨドリっていうんだ」
幸せの青い鳥。曇り空の隙間から、わずかに陽が差していた。
朝のうちは空気がひんやりとしている。
いちじくの香りが、以前よりも濃く漂っていた。
あてもなく歩き、知らない花々にレンズを向け、ひとつひとつ名前を検索していく。
リクトくんに教えてあげようかと思った。
でも、省吾さんなら知っているし、とっくに教わっているだろうな、と考え直した。
潮音に着くと、見覚えのない男性がリサさんに話しかけていた。
「先日はありがとうございました。焼きそば、美味しかったですよ」
「あれは私が作ったわけじゃ……」
リサさんは、やや困ったような表情を浮かべている。私は美子さんにそっと尋ねた。
「あの方、どなたですか?」
「この前、壊れた船があったじゃろ? あれに乗っとった人たちの一人じゃね」
船のエンジンの不調だったらしいが、暗くなる前には修理が終わり、乗っていた人々は無事に帰れたという。本土側に住む人たちで、今日はその中の釣り客三人が、お礼に訪れたらしい。
それにしては、どこか様子がおかしかった。
「今度、街で婚活パーティがあるんです。ぜひ、参加してください!」
男性のひとりがチラシを差し出していた。
リサさんは笑みを浮かべつつも、さっと目を通すと、静かに首を横に振った。
「ここに"女性は26歳まで"って書いてありますよ。私、27なので参加資格ないです」
男性は驚いたような顔をした。
「え。そんな馬鹿な」
チラシを目の前で近づけたり遠ざけたりしながら見直している。
「あ、これ間違い。26じゃなくて、36歳以下ですよ~」
「それに、息子がいますし」
「ああ、それって逆にプラスですよ」
彼はまったく悪びれた様子もなく続けた。
「だって、産めるって証明されてるってことじゃないですか?」
暑いはずなのに、空気がすっと冷えた気がした。
「……こら、おまえ」
釣り仲間のひとりが、彼の腕をつかんで止めた。
「すみません。本当にコイツ、空気が読めなくて」
「わたしは、それくらいがちょうどいいと思ってるんですけどね~。二十代なら子どもがいても全然――」
もう一人の男性は、焦っていて言葉が出ないようだった。
私は小声で美子さんに話しかけた。
「リクトくんがいなくて良かったですね」
「ほんまよ」
どこにいるのか尋ねると、「皆がかわいい言うけえ、澄江さん、自慢しに連れ歩いとるんよ」と笑った。
「リクトを独占しすぎじゃけ、文句を言おうかと思うとったけど、今日は幸いしたわ」
そう言いながらリサさんに視線を向ける。
「ちょっとしつこい人じゃね。かずさん呼んでくる」
空気の読めない男性が私に気づいたようで、こちらを向いた。
「そっちのお姉さんも婚活パーティに来ませんか? 船、出しますよ~」
「豚カツパーティっちゃなんかね?」
澄江さんの声が響いた。
頭に巻いた青い手ぬぐいが目に飛び込んでくる。
リクトくんが「澄江おばちゃん、とんかつじゃないよ、こんかつだよ」と言った。
「なんじゃ。つまらん」
「つまらなくないです! 若い男女が出会う機会は多ければ多いほどいいんです!」
「ダメですよ。俺の彼女なんで」
智がやって来て、私の肩にそっと手を置いた。
「……彼氏持ちか~……」
「智お兄ちゃん、らぶらぶだね」
リクトくんがきゃっきゃと笑う。
智はそのままリクトくんを連れて、静かにその場を離れていった。
相変わらず空気を読めない男性は、再びリサさんに食い下がっていた。
「ぜひ…」
そのとき、省吾さんが現れた。
「この人もダメだ。俺の彼女だ」
「えぇ~」
さっきまで熱心だったのに、肩を落とし、静かになってしまった。
私も驚いたが、リサさんも目を丸くしている。
どうやら、彼女を守るための方便のようだった。
「うるさいのう。誰が騒いどるんじゃ」
和義さんが奥から現れ、鋭く一喝した。
「おい。帰るぞ……本当に申し訳ありません。お騒がせしました」
今まで黙っていた男性が背筋を正して深く頭を下げる。
しょげ返った仲間を、ふたりがかりで引きずって帰っていった。
「何だったんですか、今の……」
澄江さんが喉が渇いたと言い出したので、私は台所へ向かった。
美子さんとリサさんは掃除のため、二階へ上がっていった。
智とリクトくん、省吾さんは庭に出ているらしい。
和義さん、澄江さんと三人で麦茶を飲む。
「それにしても、どうして"36歳以下"なんて中途半端な年齢制限なんでしょうね?」
和義さんが、苦い顔で言った。
「婚活パーティを企画しとる奴らの最年少が37歳だからじゃ」
「そんな理由で?」
「どうしても年下の嫁が欲しいんじゃと」
「夢を見すぎなんじゃ、あほうが」
澄江さんが、ぼそりとつぶやいた。
「"年上の嫁は金の草鞋を履いてでも探せ"って諺があるのにのう。美子さんは和義より年上じゃ」
「そうなんですね」
母も父より年上だった。そんな記憶がふと蘇る。
「わしは彼氏おらんのに、なんで声をかけてこんのんじゃ、あいつらは」
澄江さんの一言に我に返る。
「母さん。年齢制限があるじゃろ」
「わしは永遠の28歳じゃ」
続けて、豚カツパーティなら参加したかったのに、とぶつぶつ言うので、思わず笑ってしまった。
庭に行くと、省吾さんが何かを指さしていた。
智が吹き出し、リクトくんは首を傾げている。
近づくと、苦みを含んだ薬草のような香りが漂ってきた。
小さな黄色い花が、丸く盛り上がるように咲いている。
「どうしたの?」
智が笑いながら答えた。
「省吾さんが、今日の奴らにふさわしい花があるって言うから……」
「これはタンジー。別名、蓬菊。虫除けだ」
「虫除け……」
朝の始まりからは想像もつかないほど、騒々しい一日だった。
智がそっと近づき、私の耳元で囁いた。
「良かった」
「何が?」
「歌帆が、元気になって」
朝、耳にしたあの鳥の声が再び聞こえる。
青い鳥が、空高く飛び去っていった。
※この作品は現代日本の物語です。
※ゆるやかな日常の中で、家族や過去と向き合うお話になります。
9月からは週に2〜3回の更新ペースに移行いたします。




