第12話 夾竹桃のざわめき
郵便物を取りに門を開けば、道の向こうの夾竹桃が風もないのにかすかに揺れている。
白と淡紅の花が、重たげに枝を垂れていた。
その先、陽炎ににじむ景色のなかから、日傘をさした澄江さんがゆっくりと姿を現した。
「よいしょ……。まだ暑いねぇ」
思いがけない訪問に驚きながらも、家の中へと招き入れる。
「お客さんに外郎もろうたけ。この家の様子も見とこう思うてな」
紙袋を手に提げていた。
「いつも、ありがとうございます。お茶を淹れますね」
声を聞きつけて、奥から智が出てきた。
「歌帆は澄江さんと話してて。こっちはやっとくから」
智は台所へ向かい、湯を沸かし始める。
澄江さんを仏間へ案内し、座布団をすすめた。
「智くんもおったんじゃね。邪魔じゃなかった?」
「そんなことないです」
智が茶器を手に部屋に入って来た。
私は外郎を皿に盛る。
小豆色の艶が、白い器に映えていた。
智が、少し不思議そうに言った。
「外郎って、白とかピンクのイメージがあるんだけど」
「これは小豆と蕨粉で作っとるんよ」
私と智が座卓の片側に並び、澄江さんが向かいに腰を下ろした。
空気が固いように見え、世間話をすることにした。
「そういえば、昨日のお客さんたち、どうなりましたか」
「ありあわせで焼きそばとか作ったけど、喜んどったよ。……そうそう、この前は話が途中じゃったけ。お父さんのこと、もっと聞きたかったんじゃろ?」
澄江さんがちらりと智に視線をやる。話してもよいか迷っているようであった。
「席、外そうか?」
「ううん。智も一緒に聞いてくれていい」
私の言葉に、智は腰を浮かせかけていたが、座りなおした。
「どこまで話したかのう。そう、みち先生のことじゃったね」
「みち先生?」
「……父のこと、ですか?」
智と私の声が重なる。
話を聞き漏らすまいと、私は口を閉じ、耳を澄ませた。
「子どもたちが、そう呼びよったんよ。ご本人がそう呼んでほしいって言うたらしい」
「下の名前で呼ばせてたんですね」
「先生らしくないって言う人もおったよ。結婚したときもね。歌乃ちゃんのほうが年上じゃろ? いろいろ言う人もおったけど、あの人は気にしとらんかった」
澄江さんの目が、ふと遠くを見つめるように細くなる。
「夏休みのある日、子どもが海に流されたことがあったんよ。居合わせた先生がすぐに飛び込んで……」
声がかすかに震えていた。
「子どもは助かったけど……先生は帰ってこんかった。ほんと、まだ若かったのに」
「……はい」
「そう。あの日も暑うてね。海は急に深うなる場所があるけぇ」
「助かったお子さんは、今も島に?」
私が尋ねると、澄江さんは首を振った。
「先生が亡くなったのが、かなり堪えたみたいでね。やっぱり陰口言う人もおるから……家族で引っ越してしもうた」
智が言葉を選びながら口を開いた。
「……歌帆のお父さん、日高家のお墓に入ってますよね? 島の人じゃないのに」
「お婿さんに来てくれたんよ。歌乃ちゃん、ご両親早うに亡くしとったけぇ、家にひとりで住んどった」
父が母のもとに来て、私が生まれた。そしてその後、母は私を連れて島を離れた——。
「この家は、和雄さん——うちの人が子どもの頃に住んどった家でもあるんよ。だから歌乃ちゃんが島を出たあとも、私らで手入れだけは続けとった」
正月やお盆。季節の節目に風を通すようにして。
「和雄さん、家がなくなるのが寂しいって。跡継ぎがいなくなるの、気にしとったんよ」
少し間を置いて、澄江さんが私を見た。
「歌帆ちゃん……あんた、"りの"ちゃんのこと、覚えとらん?」
「"りの"?」
私は頭を振った。
「歌乃ちゃん、双子の娘を産んどるんよ。もうひとり、"りの"ちゃんがおってね」
その言葉に、智が息を呑むのが分かった。
「歌帆に……姉妹が?」
「そう。親子四人で潮音にも来てくれとった」
日記にあった"きょうだい"の気配が、輪郭を持ちはじめる。
「先生が亡くなってしばらくして、島を離れたんよ。五年くらい、まったく帰ってこんかった」
智が不思議そうにした。
「何かあったんですか?」
「噂で……歌乃ちゃんの娘が重い病気で入院したって。電話しようとも思うたけど、民宿で手一杯でね」
手元の茶器の影が、畳に伸びている。
「その後は、年に一度だけ顔を見せるようになって。家の手入れや法事のときに、ひとりで来とった」
気づけば、お茶はすっかり冷めていた。心を落ち着けるように、私は湯を継ぎ足す。
「十年ほど前、和雄さんが亡くなったときね。葬儀に歌乃ちゃんが来てくれて……そのとき"娘はひとり"って言うたんよ」
「……え?」
胸の奥がぎゅっと縮んだ。
「えっ?」
智が大きな声をあげる。
「……"娘はひとり"って、それ……」
「わからんのよ。わしも驚いて、顔を見たら……泣きそうで。よう聞けんかった」
しんと、部屋が静まり返った。智が、そっと私を見る。
私は、視線を落とした。畳の目の奥に、何かが埋もれている気がした。
澄江さんが帰ったあと、私は智に打ち明けた。
「日記が、抜けてるのがあるみたいなの」
「どういうこと?」
私はノートを広げる。
「これと……これを見て」
「一年くらい日にちが空いてる……。間にあったはずのノートがない?」
智が眉をひそめる。
「……その年、何があったんだろう」
箱の中を見てみると、段ボールの底から、古びたファイルが出てきた。
「これは……日記じゃないね」
「メールのやりとり?」
中には、印刷されたメールが綴じられている。
「結構な量だね……。日付は30年近く前だ」
智が振り返って言った。
「歌帆、顔色が良くないよ」
周囲がぐるぐると回っているように思える。
「今日は調べるの、やめよう。晩ご飯は俺が作るから」
「ありがとう。少し、外の空気を吸いたい」
夾竹桃の花は、昼間に見ればただ華やかで無邪気なほどだった。
けれど夕暮れの光のなかでは、その花びらの色も、たれ下がった枝の影も、まるで怯えた誰かが肩をすくめて立っているように見える。
あのときは感じなかった、かすかな恐れが胸に差し込んだ。——こんなふうに、景色が違って見える瞬間があるのだと、私は初めて知った。
※この作品は現代日本の物語です。
※ゆるやかな日常の中で、家族や過去と向き合うお話になります。




