第11話 勿忘草と父の面影
母の日記に目を通した。
まるで誰かに語りかけるようだった。
——聞いてくれる?
そんな言葉で始まる日が、いくつも続いていた。
箱から出てきたノートの一番古い日付は、父が亡くなった後のものだった。
紫苑の花は、やはり父を悼んで植えたのだろうか。
日記というより、手紙に近かったのかもしれない。
潮音で和義さんに会ったとき、思い切って父のことを尋ねてみた。
「すまんのう。わしは会うたことがないんじゃ」
想像以上に長く島を離れていたのだと知る。
高校を卒業してすぐに島外で就職し、民宿を継いだのは四十代半ば。
島へは親の葬儀で二十数年ぶりに帰ってきたのだという。
「親父が亡くなってな。歌乃ともずいぶん久しぶりじゃった」
和義さんが覚えていたのは、父が小学校の教師だったこと、母より年下だと噂になっていたこと。
「どこにも噂好きはおるからのう」と苦笑いを浮かべながら、高校時代の同級生からふたりについて話を聞かされたことも語ってくれた。
「歌乃から結婚式の招待状も貰ったんじゃが、ちょうど仕事で出られんでな。省吾も小さかったし……まあ、理由は他にもあるんじゃが」
そこまで言うと「歌帆ちゃんには関係ない話じゃな」と呟き、少し寂しそうに笑った。
澄江さんが帰ってきた。
「運動せんと体が弱るけえ、今日は体操してきたんじゃ」
「疲れてません? 大丈夫ですか」
「わしは元気よ。五十代の体力じゃって。うちの民宿、階段が急じゃけ、鍛えとかんとね」
からからと笑う声が台所に響いた。
テーブルに並んだのは、島の特産開発で作られたというさつまいものクッキー。
丸くて黄色く、縁が紫色に染められ、さつまいもの形そのままだった。
「歌帆ちゃん、紅茶にしようかねぇ」
澄江さんは、白磁に勿忘草の小花が散らされたポットに湯を注ぐ。
金の縁取りが光を返し、台所には不釣り合いなほどの華やかさを漂わせた。
紅茶の香りが畳の匂いに重なり、ひととき都会の空気が流れ込んだように感じられた。
「そういえば、リクトくんは?」
いつもならおやつに駆け寄ってくるのに姿が見えなかった。
「リサちゃんと省吾が買い出しに行くのに、ついていったよ」
島には保育園がないため、リサさんの手が離せないときは省吾さんが世話をしているらしい。
澄江さんはその話をするとき、いつもより笑みを深くした。
「そうそう。歌帆ちゃんはお父さんのことを聞きたかったんじゃったね」
年寄りは話があっちこっち行ってごめんね、と言いながら、澄江さんは語り始めた。
父は島の小学校のひとつに赴任してきた。
新聞に異動の記事が載ると、誰もが新しい先生に興味を持ったという。
「若い先生じゃったけえ、なおさらね」
赴任初日、母が歓迎会のことを確認に行った。
「歓迎会?」
「島じゃ、先生が来たら歓迎会をするんよ」
澄江さんは楽しそうに続けた。
「みんな女の人じゃ思うとったんよ。歌乃ちゃんが顔を出して、『大変、男の人だった』って潮音に駆け込んできてな。大笑いよ」
その光景を想像すると、自然に笑みがこぼれた。
父の顔は写真でしか知らない。
眼鏡の奥に柔和なまなざしを湛えた人で、女性的にも見えるが、性別を間違えるほどではない。
「そういえば、母は島の訛りがありませんね」
「歌乃ちゃんは都会で働いとったけぇ、標準語を覚えたらしいよ。美子さんも最初はそうじゃった」
和義さんも帰ってきたばかりのころはそうだった、と澄江さんは笑った。
白磁のポットも、都会から和義さんが持ち帰ったものだという。
「そういえば、歌乃ちゃんがこのポットに似たような柄のネクタイをプレゼントしてね。青い花柄のネクタイなんて目立つじゃろ?」
想像するとなかなか派手な柄だ。
そのネクタイをして、父は授業をしたらしい。
生徒のひとりが変な柄だとからかったとき、「大切な方からもらったものだよ。そんなことを言ってはだめだ」と父は答えたという。
「子どもらは大騒ぎよ。なんかこういうことばかり覚えとるんやけどね」
「なかなかすごいですね」
「それで、歌乃ちゃん、どうも先生と島に来る前から知り合いじゃったみたいなんよ。なんでか最初は気づかんかったらしいけど」
「どういうことなんでしょう」
「わしも聞いたけど、メール? がどうとか言うて、よう分からんかったわ」
そこへ省吾さんたちが帰ってきた。
「おばあちゃん、船の調子が悪くて動けない人がいて。ご飯を食べてないそうなんだ。急だけど、手伝ってもらえる?」
「じゃあ、私帰りますね」
「歌帆ちゃん、今日はごめんね。また来てね」
夕方、智が潮音から家まで送ってくれた。
「今日は何してたの?」
「潮音のお客さんと釣り。いっぱい釣れてね、さすが自分」
軽口に笑って、私は彼の背を軽く叩いた。
そのとき、見慣れない男がこちらを見ていることに気づいた。
若い男だった。整った顔立ちなのに、どこか人工的で、島の風景に溶け込まない。
視線をそらさず近づいてきたかと思うと、私の顔を見るなり、興味をなくしたように立ち去った。
「なんだか感じの悪い人だね」
智が心配そうに言う。
「家にひとりで大丈夫?」
「家まで来ないよ。何かあったら連絡するから」
波の音が寄せては返し、やけに大きく響いていた。
※この作品は現代日本の物語です。
※ゆるやかな日常の中で、家族や過去と向き合うお話になります。
更新は毎晩21:00を予定しています。




